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るりいろの朝

 夜明け前に私は自転車を走らせた。


 住宅街の家々も、道路も、田んぼの苗も、まだ眠っていて、風もほとんどなく、世界は死んだような静けさに包まれている。


 けれども、向かう先の東の空はひそやかな紫色ににじんでいた。朝を引き連れるようにして、木星と金星がはっきりと輝いていた。


 長くて短い一年の365日において、朝は知らず知らずのうちに来ていたようだった。


 それはごく当たり前のことなんだろう。でも、私は知らなかったのかもしれない。何かの始まりが、ごく当たり前に始まることを。


 私は生まれて初めての経験のようにして、夜明け前の清閑なただよいを自転車で裂いていく。何もかもが初めてだった。目にする景色も、澄み切った香りも、私だけが動いている音も、頬を撫でていく柔らかさも、胸に灯った淡い期待も。


 繰り返されている朝なのに、私は初めてだった。


 何もかもがうまく運んでいくように思える。この世界のあらゆる悲しみが霧散していくように感じる。それはきっと、たった一人で自転車を漕いでいる私だけれども、決して一人ではないからだ。


 守屋さんは寝ぼけた声ながら、頑張ってね、と、呟き、布団の中から長くて綺麗な腕を伸ばし、振ってきた。


 昨晩、波田野くんと約束を取り付けたあと、おめかしをしなくちゃねと言って、守屋さんは自身の服を貸してくれたけど、どう考えてもスタイルの良い守屋さんの服に身を包むのは滑稽だった。だから、結局、制服を着て出てきた。


 莉子ちゃんはなんて言うだろうかな、と、思いながら、少し笑ってしまう。間違いなく、自分も今度、守屋さんの家に泊めろと言う。


 土手までたどり着いて、そこだけアスファルトに繰り抜かれた細い坂を上がっていく。ペダルに立って、踏み抜きながら、自転車を漕いでいく。


 いくら苦しんでも、いくら悩んでも、しょせんは私は一人では何もできない中学三年生みたいだった。前に進むこともできず、うじうじと固まっているだけだった。


 だからといって、守屋さんや莉子ちゃんが背中を後押ししてくれたからといって、私という人間が変わったとは思えない。私はいつまでも私のように思える。


 でも、みんなが教えてくれたのは、一歩、勇気を持って足を踏み出せば、今まで知らなかった景色を見れるということだった。


 消しゴムに短歌が書かれていなかったら、私はこうして土手の高いところに上がることはなかった。




 その眺めは、夜の終わりと朝の始まりの静寂しじまにある。川はまだ眠ったようにたゆたうけれども、遥か彼方の東の空は延々の瑠璃色だった。




 頭上にはいっぱいにして優しみの鮮やかな青が広がっている。


 ゆっくりと通りすぎていった風が私の髪先を拾っていき、ふいに、もしかしたらママは泣いているんじゃないかと私は思った。


 私は携帯電話を取り出し、ママにメールを打った。




 おはようママ。私は大丈夫だよ。昨日は守屋さんの家に泊めさせてくれてありがとう。守屋さんといろいろ話せて楽しかった。守屋さんのママもかっこいい人だったんだ。私はちょっとだけ守屋さんのママみたいなかっこいい人になれたらいいなって思ったかな。でも、ママの子供だからかっこいい人にはなれないかも、なんてね。

 それでね、今から波田野くんに会うんだ。ううん。ただ単に波田野くんの釣りを見ているだけ。変なことはないから心配しないで。

 今日は晴れそうだからどこかに連れていってほしいかな。もちろんママと私の二人で。

 わがままばかりでごめんね。

 環より。





「おはよう」


 川岸の、そこだけぽっかりと草が刈り取られた場所に波田野くんは釣り竿を手にしながら立っていて、夢中でいるのかなんなのか、私が声を掛けてもまったく気づかないでいる。


 無視されているのかと思ってゆっくりと歩み寄っていくと、波田野くんの両耳にはイヤホンが入っていた。


 私はにやにやと口許をゆるめ、波田野くんのイヤホンを両方とも取り上げる。波田野くんはびっくりして振り返ってくる。私はにやにやと笑うまま彼のあわてた顔を見上げる。


「おはよう」


「あ、ああ、お、おはよう。誰かと思ってびっくりした」


「誰かと思ってって、昨日、私と約束したでしょ。もう忘れたの?」


「い、いや、そうじゃないけどさ」


「釣れてる?」


「いや、全然」


 波田野くんは苦笑を見せながら釣り竿を地面の固定金具に立てかけ、「ちょっと待ってて」と言って、自分の自転車の荷台に縛りつけていた折りたたみの椅子を持ってきた。私の前にそれを置いて、「座りなよ」と言う。


「波田野くんのは?」


「俺はべつに」


 私は唇を尖らせて彼をにらむと、小走りに駆けていって、誰がなんのために置いたのかわからないベンチを引っ張っていこうとする。波田野くんは失笑しながら歩みよってきて、私が引っ張っているのとは反対の部分を持ち上げた。


「持てる? 俺がそっちのほうがいいんじゃない?」


 波田野くんと持つ手を交換して、「せえの」の合図で川岸にまで運んでいく。私はちょっとだけしか持ち上げられないけれど、ぐいと持ち上げている波田野くんは私に大丈夫かと問いかけてくる。


「うん。なんとか――」


 とりあえず、川岸の近くまで運べて、私はベンチに腰かける。


「制服が汚くなっちゃうよ。そもそも、なんで制服なの?」


「守屋さんちに泊まっているって昨日言ったじゃん。波田野くんって忘れっぽいんだね。てか、早く座って」


「いや……」


 波田野くんは口端をゆるめながら頭を掻いているので、私は彼の薄手のウインドブレーカーを引っ張る。波田野くんは私の隣に無理やり座らされる。でも、私と彼の膝と膝のあいだにはこぶし二個分ほどの隙間。彼は詰めてこない。守屋さんみたいに振る舞っていた私も、そこだけは詰められない。


 私はその隔たりを意識してしまい、うつむいてしまう。波田野くんもおそらく意識してしまって、咳払いしている。手持ち無沙汰に釣り竿を取り、リールをゆっくりと回していく。


 川は音もなく流れている。瑠璃色の空がわずかながらに赤らんでくる。


「あのさ」


 と、波田野くんから言ってきた。リールのレバーを回すまま、釣り糸の先を見つめるままに言ってきた。


「ずっと制服なのは、何かあったの?」


「うん。家出中」


「えっ!」


 波田野くんは瞼を大きく広げながら振り返ってきて、まるで、天と地がひっくり返ったのを目の当たりにしているかのような驚きようだった。


 そうして、彼は瞼の下のほくろをじっと留め置いたまま、私を見つめてき、


「駄目だよ。両親が心配してるよ」


 私は思わず笑った。やっぱり、波田野くんは駆け落ちなんてしてくれそうもない。


「大丈夫。連絡もしているし、昨日だって守屋さんのお母さんがうちに連絡したし」


「本当?」


「ほんと。大丈夫、心配しないで」


「ならいいけどさ」


 釣り糸を手繰りきった波田野くんは腰を上げ、「ルアーが駄目なのかなあ」とぶつぶつ呟きながらも、川面めがけて疑似餌をひょいっと投げた。そうして、また、私の隣に腰かける。やっぱり、膝と膝のあいだは空いている。


「ねえ、守屋さんってさ、誰かと付き合っているの? すごいモテそうだけど」


 波田野くんは苦笑しながら首をかしげる。


「さあ。まあ、モテるっちゃモテるけど、そういう話はしたことないし。あんまり、喋らないし。三年になってクラスも変わったから」


「隣の席になったことあるって言ってたよ。波田野くんと」


「うん。まあ、あったね」


「好きになったりしなかったの?」


「えっ?」


「だって、美人じゃん。絶対に好きになっちゃうでしょ」


「いや、それはないよ」


 と、波田野くんが終始川面ばかりに視線をやっていて、私にはまったくその困り顔を向けてこなかったので、私はにやにやと笑いながら波田野くんの横顔をながめた。


「本当はあるでしょ?」


「ないって」


「本当かなあ」


「だって、俺、守屋とかタイプじゃねえし」


「じゃあ、どういう人がタイプなの」


「そりゃ――、うん……。松山さん」


 明かりはうっすらとした空だけだったのでよくわからなかったけれど、波田野くんは顔を赤らめている。私の心臓は軽快に弾んでしまっていた。私の視線の先は波田野くんの横顔に張りついたままでいて、そこから離したくはないし、そこ以外には何も求めていない。


 波田野くんが唇を尖らせながら、ぼそぼそと言った。


「ま、松山さんは、どうなの」


 ちらりと瞳だけを動かして、私をうかがってきている。私はすぐに言う。


「短歌を消しゴムで送ってくれる人」


 波田野くんはにやついた。にやつきを隠すようにして左手で鼻の下をさすった。


「でもね、絶対に、私以外の人は気持ち悪いって言うと思うよ。私だけだよ。そんな人」


「そ、そうかな」


「そう。絶対にそう」


「でも、べつにいいよ。俺、松山さんだけだし。好きなの」


「え?」


「えっ?」


 波田野くんは私に振り返ってきた。


 私は波田野くんをずっと見つめていた。


 風のしわざで草がさわさわと音を立てた。


 顔は火照っていた。


 私の瞳と波田野くんの瞳は同じ点と点でむすばれていた。


 やがて私の視線の先は波田野くんの瞳に吸い込まれていく。私の唇が少しだけ開いていく。


「いや――」


 と、波田野くんは意味不明な笑みを浮かべながら川面に視線を向けてしまった。


 私は若干開いていた唇をしめて、潤んだ瞳のまま顔を戻した。


 良かったのか残念だったのか、私の口から音のない溜め息がちょっとだけもれて、風がゆっくりとさらっていく。


 急に携帯電話の着信音が鳴って肩を跳ね上げた私は、取り出してみたらママからのメールだった。


 開いてみて、声を吹いて笑ってしまう。


「え? 親?」


「うん、そう」


「帰ってこいって?」


「違う。彼氏との写メ送ってって」


「えっ?」


「一緒に写メ撮ろ?」


「う、うん」


 携帯電話をカメラに切り替えた私は、川に向かって腕を伸ばし、波田野くんの隣に詰め寄った。


「もうちょっと近くないと写らない」


「いや、だって――」


「早く。入ってよ」


 ボタンを押すとフラッシュが焚かれて、液晶画面には真っ赤な顔の私と波田野くんが肩を寄せ合って写っていた。私は自分の顔が真っ赤であることと、ものすごく写りが可愛くなかったので、きゃあきゃあ騒ぎ立てた。騒ぎ立てながら波田野くんの肩をぶった。波田野くんは苦笑というかなんというか、にやついたまま頭を掻いていた。


「て、てかさ、俺って松山さんの彼氏?」


 波田野くんが声を裏返しながら言うので、私は携帯電話をたたみながら川面のほうに顔を向けた。


「うん」


「え? ほ、ほんとっ? つ、付き合ってくれるのっ?」


「付き合わない」


「ええっ?」


「高校生になったら付き合う」


 私は彼に微笑みかけながら、首をかしげた。


「それでよければ、私とお付き合いしてくれますか?」


「も――、もちろん」


 私は笑った。彼は唇を押し込めた。私はごく当たり前に頭を彼の肩に寄せて掛ける。


 東の空が赤くうっすらと染め上がっていく。


 私はごく当たり前な朝の目覚めを感じながら、しばらくのあいだ、川の波が光り輝いていくのをながめた。


(了)


読んでいただき、ありがとうございました。もしよければ最後にサブタイトルの始まりの一字を上から順に縦読みしてみてください。そこで完結のつもりです。ありがとうございます。



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