第49話 届かない手
七人目は、俺が立ち会った。
産婆から呼ばれたのではない。夫が、俺のところに走ってきたのだ。
「産が、長引いてる」
俺は、道具を掴んで走った。
着いたとき、産婆が既にいた。この冬、俺が話を聞いた三人のうちの一人だ。
「あんた、なんで来た」
「呼ばれた」
「産に医者は要らないよ」
「長引いてる、と聞いた」
俺は、そう言って、女の腹に手を当てた。
収縮は来ている。子の位置も、悪くない。時間はかかっているが、産そのものは進んでいる。
------これは、大丈夫だ。
問題は、その後だ。
「ばあさん」
「なんだい」
「手を洗ってくれ」
産婆の眉が、寄った。
「洗ったよ」
「もう一度。湯で。爪の間まで」
「なんでだい」
「そのほうが、後で、熱が出にくい」
産婆は、俺を見た。
その目に警戒があった。
「あんた、うちの手が汚いって言いたいのかい」
------来た。
あの時も、俺は同じ言葉を聞いた。あの時は六つで、「俺のために洗って」で通した。
今度は、十六だ。
その逃げ道は、もう使えない。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味だ」
俺は、言葉を選んだ。
説明すれば、たぶん、通じない。目に見えないものが手について、それが女の中に入って増える。
------この世界には、その概念がない。
だから、事実だけを言うことにした。
「俺が見てきた中で、手を洗ってから触った産は後で熱が出にくい。洗わなかったのは、でやすい」
「証拠は」
「書いてある」
俺は、帳面を出した。
「読めないだろうが、書いてある」
産婆は、鼻で笑った。
「読めないもんを見せられてもねえ」
「じゃあ、読んでやる」
「結構だよ」
彼女は、そう言って、背を向けた。
「あんた、そこで見てな。邪魔しないなら、いていい」
産は、その夜のうちに終わった。
女は、健康な子を産んだ。産婆の腕は、確かだった。回旋も、外傷も、俺が見ている限りでは問題がない。
問題は、その手だった。
産婆は、産道に手を入れる前に桶の水に指を浸した。それだけだった。
俺は、それを見ていた。
見ていることしか、できなかった。
割って入って、無理やり洗わせることもできた。だが、それをやれば、この産婆は二度と俺を呼ばない。呼ばれなければ、俺は次の産を見られない。
見られなければ、記録も取れない。
------今日は、見送る。
俺は、そう判断した。
判断した瞬間、腹の底が、冷えた。
見送る。
その言葉が、あの日と重なった。
黒を切る。
俺は、いま、この女に黒を切った。
黒を切る、とは、まだ助かるかもしれない者を置いていくことだ。前の世界の搬送口で、俺が、いちばん憎んだ手だった。
いま、俺は、それを産の場で、やった。まだ何も起きていない女に。揉めれば締め出され、記録が取れず、この街の全部の産で、同じことが続く。その長い目の数のために目の前の一人を見送った。憎んだ手を自分の手で、使った。まだ何も起きていないうちにたぶん起きることを予測して、それでも手を出さなかった。
理由は、長い目で見たときの数だ。
ここで揉めれば、俺は産の場から締め出される。締め出されれば、記録が取れない。記録がなければ、証明できない。証明できなければ、この街の全部の産で、同じことが続く。
だから、今日の一人を見送る。
------正しいのか。
俺は、その問いに答えを持っていなかった。
十一日後、その女は、熱を出した。
俺が呼ばれたときには、腹が固かった。
八人目だった。
「あんた、また来たのかい」
産婆が、そう言った。
女の家の土間で、俺たちは向かい合っていた。奥の部屋から、女の呻き声が聞こえている。
「この人は死ぬ」
「そんなことは、言うもんじゃない」
「事実だ」
俺は、そう言った。
「腹が、硬い。熱が、高い。匂いが、変わった。この先は水を飲ませて、待つしかない。待って助かるのは、半分もいない」
産婆の顔が、こわばった。
「......あんた、なんでそんなことを知ってる」
「数えたからだ」
「数えた?」
「この冬、中層で、産んだ後に死んだ女は、これで、八人目だ」
産婆が、動きを止めた。
「八人」
「ばあさんが、取り上げたのは、その内、三人」
その言葉を聞いた瞬間、産婆の顔から、血の気が引いた。
「......あたしが、殺したって言うのかい」
「そうは、言ってない」
「言ってるじゃないか!」
産婆の声が、跳ね上がった。
「三人だって? あたしはこの冬、十九人取り上げた。十六人は、生きてる! 子も母も、無事だ!」
俺は、その数字を頭に入れた。
十九人中、三人。
------十六パーセント。
高い。異常に高い。前の世界の記録でも、これは流行期の数字だ。
だが。
この産婆にとっては、違って見える。
十六人が生きている。生きて、子を抱いている。それが、この人の見ている風景だ。
三人は、運が悪かった。そう処理される。
「ばあさん」
「なんだい」
「十九人のうち、三人だ」
「だから、なんだい」
「多すぎる」
「多いかどうかなんて、誰が決めるんだい」
------そこだ。
俺は、その問いに詰まった。
多いかどうかは、比べる相手がいて、初めて言える。
何と比べる。
俺が診た患者と比べるのか。だが、俺は産に立ち会うことがほとんどない。比べる基準になるほどの数がない。
他の産婆と比べるのか。だが、他の産婆も、同じことをしている。全員が洗っていないなら、全員の数字が同じになる。同じなら、それが「普通」になる。
普通と比べれば、この産婆は普通だ。
------基準が、ない。
この世界には、産褥熱の発生率の基準値がない。誰も測っていないからだ。
測っていないものと、比べられない。
「…なにも、言えない」
俺は、そう言った。
産婆が、俺を見た。
「なんだって?」
「今、俺には、何も、証明できない」
俺は、そう繰り返した。
言ってしまってから、腹の底が焼けるのを感じた。
わかっているのに言えない。
原因を知っていて、防ぎ方も知っていて、それでも、目の前の人間を納得させられない。
これほど無力な状態が、あるか。
「なら、黙ってな」
産婆は、そう言った。
その声に勝ち誇る色はなかった。
ただ、疲れていた。




