第29話 誰も測らなかったもの
「私、記録は持っています」
リィシャは、そう言った。
三日後だった。彼女は、宿の裏の物置に自分から来た。
「候補だった頃の記録は、教会にあります。でも、私が外に出てからの分は、自分でつけています」
「なんで」
「…写しを取るのが、仕事だったので。癖です」
彼女が出したのは、綴じた紙の束だった。
俺の帳面とは、比べ物にならないほど、綺麗だった。文字が整っている。日付が入っている。行が揃っている。
俺は、その束を見て、少し感心した。
「読めない」
「私の字が?」
「この国の字は、読める。でもあんたのは、綺麗すぎて読めない」
リィシャが、初めて、少し笑った。
「教会の書体です。読みにくいと言われます」
「読んでくれ」
「…はい」
彼女が読み上げ、俺が書き写した。俺の文字で。
三日かかった。
そして、並べ終わったとき、俺は、線を引いた。
「みろ」
「はい」
「あんたが治せた傷。深さ、指一本までが、ほとんどだ」
リィシャが、身を乗り出した。
「治せなかった傷の方は、指二本より深いのが、多い」
「…あ」
「後は、古い傷。日が、経っているやつ。これも、治せてない」
俺は、自分の帳面を出した。
「これは、俺の記録だ。薬を使ったやつ。同じだ」
指二本。
俺が千枚の記録から見つけた境目と、彼女の記録の境目が、同じだった。
「つまり、祈りも、薬も、同じ限界をもってる」
リィシャが、紙束を見つめていた。
その手が、震えていた。
「私の、力ではなく」
「まだだ。まだ、わからない」
俺は、釘を刺した。
「これだけじゃ、足りない。あんたの記録は百もない。それにあんた以外の候補の記録がない。ほかのやつが同じ傷を治せてたら、やっぱりあんたの力が、足りなかったってことになる」
リィシャの顔が、また白くなった。
「でも、ほかの候補があんたより深い傷を治せてるかどうか。それは、調べればわかる」
「…教会に記録があります」
「見られるか」
「写しを取るのが、仕事です」
彼女は、そう言った。
その顔に初めて、ある種の決意が浮かんでいた。
「一つ、聞きたい」
俺は、その夜、彼女に訊いた。
「あんた、候補を外れたとき、なんて、言われた」
リィシャは、答えなかった。
しばらくして、こう言った。
「…祈りが、足りない、と」
「あんたの、祈りが」
「はい」
「患者の、信仰じゃなくて」
「その両方です」
彼女は、目を伏せた。
「癒しは、施す者の信仰と、受ける者の器の、両方が要ると教えられます。癒えなかったのは、どちらかが足りなかったから、と」
------器。
魔術師の言葉と、同じだ。
魔術師は、器を生まれつきの容量として使った。教会は、器を信仰の清さとして使う。
同じ言葉が、違う意味で。
いや------同じものを違う名前で呼んでいるだけかもしれない。
「リィシャ」
「はい」
「魔力の多い少ないは、生まれつきだって、知ってるか」
「…はい。魔術師の方は、そう言います」
「教会は」
「教会では、そういう言い方はしません」
「なんて、言う」
「器が大きいのは、神に選ばれた証だと」
俺は、その言葉を聞いて、腹の底が冷えるのを感じた。
生まれつき決まっているものを神の選択だと呼ぶ。
つまり、器の小さい人間は、神に選ばれなかった人間だ、ということになる。
生まれた時に配られた籤の結果を神の意志として説明する。
そして、癒えなかった患者には、こう言う。
------あなたの器が足りなかった。あなたの信仰が足りなかった。
「リィシャ」
「はい」
「あんたは、それを、信じてるか」
彼女は、長いこと、答えなかった。
物置の隅で、獣脂の灯りが、揺れていた。
「…わかりません」
やがて、彼女は言った。
「信じたいです。信じていないと、これまでのことが、全部------」
彼女は、そこで言葉を切った。
「でも」
「でも?」
「私が癒せなかった人たちは、みんな、良い人でした」
リィシャの声が、低くなった。
「信仰の篤い人もいました。毎日、祈りに来ていた人も。その人が癒えなくて、教会にほとんど来ない人が癒えたことも、ありました」
「それを見たのか」
「見ました」
「教会には、言ったか」
「言いました」
彼女は、そう言って、少し笑った。
自嘲の笑いだった。
「そうしたら、私は、候補を外されました」
------ああ。
俺は、その瞬間、全部を理解した。
この少女が零れたのは、力不足だけではない。
「なぜ」と問うたからだ。
治せる数が足りず、そのうえ、問うてはならないことを問うた。
だから、外された。
俺は、彼女を見た。
灰色の外套の下の、白い衣。荒れた手。目の下の隈。
十五。俺と同じ年。
六つで囲われ、五年間、外を知らずに育ち、十一で外に出され、問うたことで零れた少女。
そして今も、教会の雑務をしながら、外で人を癒して回っている。
「リィシャ」
「はい」
「あんたは魔力が足りなかったんじゃ、ないかもしれない」
「......」
「測るところを間違えられた。それだけかもしれない」
彼女が、顔を上げた。
「教会は、治した数を数えた。それしか、数えなかった」
俺は、言った。
「でも俺が欲しいのは、それじゃない」
「…何ですか」
「そこだ」
俺は、彼女の手を指した。
「あんたが祈るとき、手から光が出る。あれはどのくらい、細かく、操れる?」
リィシャが、まばたきをした。
「操る、とは」
「強さを変えられるか。少しずつ流せるか。長いあいだ、続けられるか。身体の一部だけに当てられるか」
彼女は、しばらく、考えていた。
それから、こう言った。
「…できます。それは、得意でした」
「得意」
「候補の中で、一番、細かい制御ができると言われていました」
俺の心臓が、跳ねた。
「でも、それは、評価には入りません」
彼女は、あっさりと言った。
「癒しは、一息に傷を塞ぐものです。細かく流しても、意味がありません。数えられるのは、癒した数だけです」
------誰も、測らなかった。
俺は、その事実を口の中で転がした。
教会は、出力しか見なかった。
制御という軸をそもそも測らなかった。測る意味がなかったからだ。
何を数えるかを決めることは、何を無かったことにするかを決めることだ。教会は、癒した数を数えた。だから、制御は、無いものになった。
リィシャの、いちばん優れた才は、測る枠の、外に落ちた。落ちた才は、才ではなく、欠落として、記録された。物差しが、人を決めていた。彼らのやり方では、細かい制御は、何の役にも立たない。
だから、この少女は「才能がない」と判定された。
ふざけるな。
腹の底で、火が、静かに燃えた。
だが、その火は、今までのものとは、少し違った。
怒りではあった。だが、それだけではなかった。
「リィシャ」
「はい」
「あんた、明日、暇か」
「…また、それですか」
「見せたいものが、ある」




