表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/40

39話:異常な学園生活③


 王都・中央大通り。

 夕刻、茜色に染まる空の下。石畳の通りは帰宅を急ぐ人々でごった返していた。

 魚屋の呼び声、馬の鼻息、パン屋から漂う焼きたての香り。日常の喧騒が、いつも通り響き合っている。その喧騒が、一瞬で凍りついた。


「馬が暴れてるぞーっ!!」


 荷馬車を引く二頭の軍馬が、白目を剥いて突進していた。御者が鞭を握ったまま泡を吹いて倒れ、馬は制御を完全に失っている。


 重い車輪が石畳を軋ませ、火花を散らしながら一直線に──若い平民の母親が、買い物袋を抱えたまま立ちすくんでいた。


 五、六歳くらいの息子が、母親のスカートを掴んで泣き叫んでいる。

 次の瞬間、母子は転倒した。買い物袋からリンゴが転がり、赤い実が血のように石畳に散る。馬車が迫る。あと三秒で、母子は轢き殺される。そのときだった。風を切る音と共に、マントが翻った。


「──許さない!!」


 ミッドガル総合学園の指導教員服に身を包んだ青年──カナタ・ストンケインが、群衆の間を縫って飛び出した。


 彼は母子を両腕に抱え、地面を蹴って横に跳ぶ。背中から石畳に激突し、激痛に顔を歪めながらも、母子を完全に守った。


 直後、馬車が轢き過した位置を、巨大な車輪が通り抜ける。積んでいた木箱が粉々に砕け、破片がカナタの頬をかすめて血を引いた。


「……っ! 大丈夫ですか!? 怪我は!?」


 カナタはすぐに上体を起こし、母子を抱き起こす。母親の腹部は、車軸に深く抉られていた。白いエプロンが真っ赤に染まり、内臓が外に零れ落ちている。


 子供は頭から大量の出血。額が深く裂け、白い骨が覗いていた。


「う……あ……」


母親は血の泡を吐きながら、必死に息子の顔を見ようとする。震える手でカナタの袖を掴み、掠れた声で訴えた。


「お願い……私は、もう……いいから……この子だけでも……この子だけを……助けて……! お願い、だから……!」


 その言葉が、カナタの胸を抉った。


「……そんな……そんなこと、言わないでください……!」


 カナタは両手を翳し、全身の魔力を限界まで開放する。黄金色の癒光が、母子を包み込む。光は眩く、温かく、周囲の人々が思わず目を覆うほどだった。だが。光は次第に薄れていく。

 傷が深すぎる。

 臓器は断裂し、子供の頭蓋骨は陥没。

 出血量は既に致命的で、カナタの魔力では到底追いつかない。


「くっ……! なぜ……なぜだ……!」


 カナタの額に汗が伝う。唇を噛み締め、歯から血が滴る。


(こんな……こんなの、許せない……! 目の前で、今、この瞬間に、人が死ぬなんて……! 次の生なんて知らない! 今、救わなければ意味がないのに……!)


 母親の瞳から、光が消えかける。子供の小さな手が、力なく地面に落ちた。そのとき。


「……随分と派手なことになってる」


 静かな、どこか他人事のような声。群衆の間から、一人の少年が歩み出た。

 黒髪、黒い瞳、どこにでもいるような学園制服姿。

 ラスティ。

 彼はまるで散歩でもするように、ゆっくりと母子の横にしゃがみ込む。


「少し手伝う」


 ラスティは片手を軽く翳した。瞬間。淡い魔力が、霧のように二人を包む。それはカナタの黄金の光とは全く異なる、静かで、深く、底知れぬ力だった。次の瞬間──抉れた腹部が、まるで時間が巻き戻るように再生していく。

 零れ落ちた内臓が体内に戻り、裂けた皮膚が縫い合わさる。子供の陥没した頭蓋骨が元通りになり、血が逆流して傷口に戻っていく。

 たった三秒。いや、二秒半かもしれない。母子は完全に、跡形もなく癒されていた。


「……な」


 カナタが、呆然とラスティを見上げる。母親は自分の腹を触り、信じられないという顔で立ち上がる。

 子供は「お母さん……?」と泣きながら抱きついた。


「……生きてる。本当に、生きてる……!」


 母親は涙を流しながら、カナタとラスティに何度も頭を下げた。


「ありがとう……本当に、ありがとうございます……! 神様だ、神様が……!」


 カナタは立ち上がり、深く、深くラスティに頭を下げて、驚いた顔でラスティを見る。


「……君は……一体……」


 ラスティはいつもの調子で肩をすくめる。


「まぁ、ちょっとした手品みたいなものだ。気にしなくて良い」


 だがカナタは、決して顔を上げなかった。


「……違うさ。あれは……私の知るどんな高位回復とも違う。まるで、傷そのものを『なかったことにする』ような」


 彼はゆっくりと顔を上げ、茶色の瞳でラスティを真っ直ぐ見つめた。


「ありがとう……本当に、ありがとう。君は……私が、今まで出会った誰よりも……『今』を救う人だった」


 ラスティは一瞬、目を丸くした。だが、ラスティはすぐにいつもの笑顔に戻る。


「そう言ってもらえると悪い気はしないな」


 しかしカナタは、笑わなかった。夕陽が、二人の影を長く、長く伸ばしていた。母子は涙ながらに何度も頭を下げ、やがて人混みに紛れて、幸せそうに手をつないで去っていった。


 二人はエアリスの婚約者と偽装恋人であることから、関わる機会も多かった。

学園の石畳に落ちる影が長く伸び、風に揺れる銀杏の葉が金色に光る。


 ラスティが先に口火を切った。


「……今日も昼休み、私弁当食ってたら、いきなり背後からラスティ、私の模擬戦の相手を今すぐしなさい』って剣を突きつけられて……卵焼きが地面に落ちた瞬間、エアリスがあら、ごめんなさいねって一言で終わった。なかなかハードな王女様だ」


 カナタは吹き出した。


「わかる。僕も先週、デートだったんだけど、無視されたよ。婚約者だから仲良くしているアピールも兼ねてデートだったんだけどね。好かれてないのは知っているが、何ともね」


 ラスティが盛大にため息をつく。


「そちらも厳しい状況だね。こちらは、もう完全に便利屋扱いだ。鞄持って、私の剣磨いての雑用係だ」


 カナタが苦笑いしながら続ける。


「僕はもっと酷いよ。家の政治的都合で婚約させられてるってだけで、カナタ先生は好きじゃないし、貴方と結婚するなんてごめんよ、って怒られる。何だそれは。家の政争の結果に反発をするのは分かるが、やりた方が直接的すぎる」


 二人は同時に顔を見合わせ、そして同時に声を上げて笑った。


「完全に同じ境遇だ」

「仮面恋人と、形だけ婚約者。どっちも本人の意志ゼロで巻き込まれて、振り回されてるだけか」


 ラスティが地面を蹴りながら呟く。


「けど、正直……エアリスは、すごく努力してるのも知っているからね。あまり嫌いにはなれないな。朝練は誰よりも早く来てる。私が凡庸な人間として、学園に来ても、既に汗だくで素振りしてる。筋トレも欠かさない。握力測定で女子の記録更新し続けてるし……凄まじいな」


 カナタが静かに頷いた。


「美しいのも本物だ。あの銀髪と赤い瞳、人形みたいに整ってる。歩くだけで周りがざわつく。でもその美しさが、彼女自身を縛ってる部分もあるんだろうね」


 ラスティが空を見上げながら続ける。


「姉のアイリスと、この国の強さの定義が魔力依存過ぎるのが問題かな。彼女の姉の魔力総量が規格外。出力勝負になったら、誰も勝てない。エアリスはそこそこ多い魔力で正面からぶつかって、毎回負けて……そりゃ当然だろって思う。量で劣ってるのに、量で勝負してるんだから」


 カナタが優しく、しかし鋭指摘する。


「彼女がやるべきは、別の勝ち方だ。魔力量じゃ勝てないなら、剣技を極める。魔力の流れを極限まで効率化する。一撃の重さを増すのではなく、無駄を削ぎ落として速度と精度で圧倒する方向性だ。それ自体は目指してはいるだろうが、コンプレックスのせいか正面からぶつかってしまう悪癖がある。彼女は学者肌だ。試行錯誤が実を結ぶ分野なら、エアリスは天才だろう」

「……いつか、気づくかな。姉さんと戦う必要なんて、最初からなかったって。自分の剣を、自分の道を、ただ真っ直ぐに極めればいいって」カナタが優しく微笑んだ。「気づくだろう。彼女は不器用だけど、誰よりも真っ直ぐだから。自分で気づくしかない感情の問題だ。それまで、私達はそばで見守ってあげよう」


 ラスティが珍しく、素直に頷いた。


「……まぁ、そうかもですね。私も、もう少しだけ、仮面恋人をやりますよ」


 カナタがラスティの肩を軽く叩く。


「私も、もう少しだけ、形だけの婚約者をやるさ……ラスティ君、今日は本当にありがとう。君のような人がいてくれて、エアリスは幸せだ。彼女も未来でそれに気づくだろう」


 ラスティは笑った。


「……こちらこそありがとうございます」


 風が吹いた。銀杏の葉が舞い、街灯の光に金色に輝く。


「不思議な縁だね。振り回される者同士が、こんなに意気投合するなんて」


 それは、きっと、これから始まる長い物語の、ほんの小さな、でも確かな一歩だった。


 別の日、ラスティとカナタは偶然、一緒にいた。

 風は冷たく、雲一つない空に巨大な満月が浮かんでいる。月光は銀ではなく、まるで凍りついた炎のように青白く、建物のコンクリートを冷たく照らし出していた。手すりに凭れたカナタの横顔は、普段の穏やかな好青年のそれではない。


 静かすぎる。深海の底に沈む石のように、感情の起伏を殺していた。ラスティは三メートル離れた場所に立ち、いつものように無表情。ただ、瞳だけが月光を浴びて、底知れぬ深さを湛えている。


 長い沈黙。

 風が吹くたび、カナタの茶色のマントがはためき、ラスティの制服の裾が小さく揺れた。やがて、カナタが口を開いた。

 声は低く、自分自身に言い聞かせるように。


「私は、神に妹を殺されたような気がしてる。実際は何もしていないだろうが、だからこそ、この不幸を神に意味づける」


 ラスティの眉が、ほんのわずかに動いた。


「8歳だった。熱が三日三晩下がらなくて、皮膚が黒く変色して、瞳が紫に染まって……聖教会の司祭は祈っただけだった。神は次の生で報いてくださるって。医者はもう手の施しようがないって、布団を被せて帰っていった」


 カナタはゆっくりと振り返る。

 月光が彼の横顔を浮き彫りにする。


「その夜、黒いローブの集団が来た。三人だけ。顔も見えなかった。ただ、妹の額に手を当てた。三秒で、完治した。熱も、黒い皮膚も、紫の瞳も、全部元通り」


 彼の声が、少しずつ震え始める。


「私は土下座した。何をすればいいか、なんでもすると言った。彼らは答えた。もし、神に反旗を翻すのならロイヤルダークソサエティに入れって。それだけだった。俺は入った。ナイトオブラウンズの手前にまで上り詰めた。ロイヤルダークソサエティの最深部まで潜り込んだ。そして、知ってしまった」


 彼は立ち上がり、ラスティに一歩近づいた。


「ロイヤルダークソサエティの最終目的は人類全体の最終的幸福だ。でもそれは、手段を選ばない。今苦しんでいる個を犠牲にして、未来の全体を救う。次の世界で救われることを具体的にやってるだけだ」

「具体的?」

「神を殺して、ロイヤルダークソサエティのやり方で世界で幸福にする。輪廻転生というふわふわしたものではなく、世界そのものを改変する」


 カナタの瞳が、月光を浴びて燃えた。


「私は、そんな救済は認めない。次の生なんて、信じない。妹を助けてくれたのは感謝してる。でも、私はロイヤルダークソサエティを利用してるだけだ。いつかロイヤルダークソサエティすら焼き払ってでも、私は今を救う」


 彼はゆっくりと、ラスティに歩み寄る。

 一歩、また一歩。


「ラスティ君。君は先日、俺がどうしても救えなかった命を救った。死にかけていた母子を、まるで死そのものをなかったことにするような力で」


 カナタの声が、熱を帯びる。


「君の回復効果は、俺の知るどの術式とも違う。聖教会の最高位癒術とも、古代魔法とも、忌子治療とも違う。あれは……世界法則そのものに死なせないと命令してるように見えた」


 ラスティは初めて、わずかに口角を上げた。


「……大げさだな」

「大げさじゃない」


 カナタは首を振る。


「俺は見た。君が手を翳した瞬間、傷口の時間が巻き戻った。血が逆流して、臓器が元に戻って、骨が再生した。この世界の死の記録そのものを消し去ったみたいに」


 彼はラスティの目の前まで来て、立ち止まった。


「ラスティ君。君の力なら、本当にできる。目の前の苦しみを、一人も残さず、今この瞬間に根絶できる。輪廻の輪を砕いて、苦しみの総量を本当にゼロに近づけられる」


 カナタは、右手を差し出した。


「俺と一緒に来てくれ。ロイヤルダークソサエティに。いや、正確には……俺と一緒に、今を救うために。ロイヤルダークソサエティは道具だ。俺はいつかロイヤルダークソサエティすら敵に回す。だから君も、利用するだけでいい」


 月光が、二人の影を完全に重ねた。

 カナタの声が、祈りのように震えた。


「君のような人が、俺の隣にいてくれたら……この世界は、本当に、今すぐ救えるかもしれない」


 風が止んだ。

 満月だけが、静かに二人を見下ろしている。ラスティは、ゆっくりと口を開いた。


「……面白い提案だ」


 彼は、いつもの冷静な顔のまま、でもどこか、底知れぬ笑みを浮かべた。


「だが、きっと私と先生の道は平行線だろう」


 カナタは微笑んだ。初めて、本当に優しい笑顔で。


「構わない。君が表舞台に立つ必要はない。俺が光になって暴れる。君は闇の中で、目に付くものすべてを救ってくれればいい」


 ラスティは少しだけ目を細め、そして、条件を告げた。

 ラスティは、ゆっくりと右手を差し出した。


「……考えよう」


 カナタはその手を、力強く握った。熱い手と、冷たい手。


 握手の瞬間、月が一瞬、赤く染まったように見えた。風が再び吹き始めた。二人の影が、月光の中で一つに溶け合い、やがて、ゆっくりと離れていく。カナタは静かに呟いた。


「……ありがとう」


 ラスティは肩をすくめて、いつもの調子で答えた。「まぁ、面白そうだからね。遊びの役者が増えるだけさ」二人は背を向け、それぞれの闇へと歩き出す。屋上には、誰もいない。


 ただ、月だけが、静かに見守っていた。これが、後に歴史の裏側で最も危険な同盟が結ばれた、誰にも知られざる、決定的な一夜だった。風が、運命の歯車が動き始めた音を、確かに運んでいった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ