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38話:異常な学園生活③



 焼肉屋の個室は、脂と炭の匂いがこってりと絡み合い、換気扇が唸りを上げても消えない熱気に満ちていた。


 壁は年季の入った木目、天井は薄く黄ばみ、テーブルの上にはジュースのグラスがいくつも並んでいる。鉄板の中央では赤い炎がぴちゃぴちゃと踊り、厚切りのカルビがじゅうじゅうと音を立てて焼けていく。エアリスは肘をつき、身を乗り出して銀髪を揺らした。


(なんで異世界に焼肉屋あるんだよ……いや、むしろ地球人の転生者がいるのは確定か。その上で世界を改変している。気を引き締めなければ)


長い銀の髪が鉄板の熱を受けてほのかに輝き、頬に落ちる一房が火照った肌に張りつく。

 彼女は銀の箸で網の上の肉をチョンチョンと突いた。それにラスティは呆れる。


「焼肉焼いてるのにすぐ触る」


 悪びれもせず、もう一度チョンチョン。


「これいけるかしら」


 ラスティはオレンジジュースのグラスを傾け、呆れたようなため息を漏らした。氷がカランと音を立てる。


「早く食べた過ぎるのよ」

「そのチョンチョンやめてほしいだが」

「食べるところ見てなさい」

「承認欲求エグいな。化物だ」


 エアリスはくすりと笑い、ようやく肉を裏返した。焦げ目がきれいに付き始めると、彼女の表情が急に真剣になる。


 長い睫毛を伏せ、炎を見つめる深紅の瞳は、まるで子供が宝物を扱うときのような輝きを宿していた。王女の仮面はどこにもなく、ただ「この肉を最高の状態で食べたい」という、剥き出しの欲だけが顔を覗かせる。


 ラスティはそんな横顔を眺めながら、ぼそりと呟いた。


「女の子が優しくしてくれるお店行きたい。お姉さんに癒やしてもらいたい」


 声は低く、疲れが滲んでいる。


「でも仕事よ?」

「わかってるよ、そんなの分かっているよ。全部分かっている。別にいいじゃないか。みんな私次第で運命が決まる組織の運営は重いんだ」


 最後の一言は、自分自身に言い聞かせるようだった。エアリスは肉を返しながら、ちらりとラスティを見上げた。銀髪が肩から滑り落ち、鉄板の熱で頬がほんのり桜色に染まる。唇の端に、悪戯っぽい笑みが浮かんだ。やがて彼女は新しい肉を網に乗せ、少し得意げに言った。


「その肉少し焦げてるわよ」

「はーい」

「無感情すぎるわね」

「はーい」

「この肉、いい感じね」

「見ればわかりまーす」


 ラスティの返事は相変わらず平板で、エアリスは頬を膨らませるが、すぐに「もういいわ」とでも言いたげに肩をすくめた。


 それから長い沈黙が落ちた。鉄板の上で肉が焼ける音だけが響く。


 ジュッ、パチッ、ジュウウ。脂が炎に落ちて小さな火柱が立つ。二人は無言で箸を動かし、焼き上がった肉を口に運び、ゆっくりと噛みしめ、飲み物を流し込む。


 煙がゆらゆらと立ち上がり、天井の換気口へと吸い込まれていく。個室は現実から切り離された、奇妙に穏やかな時間に包まれていた。どれだけ経っただろう。

 エアリスがふと顔を上げた。銀髪がさらりと揺れる。


「会話が途切れたけど」


 ラスティは肉を頬張ったまま、片眉だけを上げた。


「うるさい」


 エアリスは目を丸くして、すぐに頬を膨らませる。


「うるさいっていうのやめてもらって良い? 普通に傷つくわ」


 声は怒っているようでいて、どこか甘えている。ラスティは口の端にタレをつけたまま、小さく笑った。それを見て、エアリスもつられて笑った。煙の向こうで、二人の視線が一瞬だけ絡み合う。

 何も言わない。


 言葉はいらない。鉄板の上で、次の肉がまた脂を弾かせた。鉄板の上では、厚切りの霜降り肉が脂を滴らせ、ジュウッ、ジュウッと小気味よい音を立てている。


 炭火が時折ぱちりと爆ぜ、赤い火の粉が舞い上がる。エアリスは箸を器用に使い、肉を丁寧に返しながら、ふと口を開いた。


「ねえ、ラスティ」


 ラスティは答えず、わずかに顎を引くだけ。それが彼の聞いているという意思表示だった。


「たこ焼きの具、何が好き?」


 唐突な問いだった。何気ない世間話のように、しかしどこか試すような響きを帯びて。ラスティは鉄板から目を離さず、即答した。


「ソーセージ」


 エアリスの動きが止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、呆れたような、どこか楽しげな笑みを浮かべる。


「おこちゃまね」


 その声には、貴族の令嬢らしい上から目線と、弟をからかうような甘い棘が混じっていた。ラスティは肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼しながら、淡々と返した。


「なんで聞いたんだ。人の好きなものを嫌う人とは仲良くできないな」


 低く、抑揚のほとんどない声。しかしその言葉には、どこか本気の色が滲んでいた。エアリスは一瞬目を丸くし、それからくすりと笑った。

 頬杖をつき、鉄板の煙を眺めながら、からかうように続ける。


「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよってやつ?」


 ラスティの箸が、わずかに止まった。彼はゆっくりと顔を上げ、エアリスを見た。表情は変わらない。だが、黒い瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、驚きのようなものが過ぎった。


「……なんでその台詞知ってるんだ」


 声は相変わらず静かだったが、そこには確かに動揺が含まれていた。エアリスは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、優雅に髪をかき上げる。


「最近の人気の本で出てきたわ、良い言葉よね」


その瞬間、ラスティの頭の中で、すべてが繋がった。一部の商会が出版した小説。内容と包装と流通網を完璧に構築して出した書籍。


 ラスティがこれ異世界で広がるだろう、と流行させたものだが、その目論見通り、貴族子女たちの間で流行っている。


「面白い巡り合わせだ」


 炭火亭の暖簾が、軽く揺れた。鈴の音が鳴り、煙の奥から現れたのは、プラチナブロンドの美少女だった。

 エクシア。


 店内の空気が、ぴたりと凍りついた。エアリスの箸が、鉄板の上でカチリと音を立てて止まる。彼女の瞳が、ゆっくりと細められ、ルビーのような赤が危険な光を宿した。


「……なんでエクシアさんが来るのよ」


 声は低く、笑みは消えている。完全に殺気だった。エクシアは静かに掘りごたつに近づき、ラスティの隣のように当然のように腰を下ろした。優雅な動作で、しかし一切の躊躇なく。


「ラスティに呼ばれたのよ」


 さらりと、まるで当然のように告げる。エアリスの視線が、鋭くラスティに突き刺さった。


「なんで誘ったの?」


 ラスティは肉を口に運びながら、まるで他人事のように呟く。


「だって怖いじゃないか、君に殺されるかもしれない」


 その一言で、エアリスの表情が完全に変わった。瞳が吊り上がり、唇が引き攣る。箸を鉄板に叩きつけるように置き、身を乗り出してラスティを睨み据えた。


「なんで私が殺すのよ? 殺すわよ」


 殺意が、言葉に乗ってまっすぐに飛んだ。その瞬間。エクシアの空気が、変わった。サファイアの瞳が、氷のように冷たく細められる。表情は変わらない。微笑みさえ浮かべたまま。だが、彼女の周囲の空気が、重く、粘つくように淀んだ。


「エアリスさん」


 静かな、しかし絶対零度に近い声。


「ラスティを脅すような冗談は、控えてもらえるかしら」


 指一本動かしていない。剣も抜いていない。それでも、店内の煙が、彼女の周囲だけを避けるように歪んだ。まるで、そこにだけ「何か」が立ちはだかったかのように。エアリスは一瞬、息を呑んだ。


 この女……ただの美少女じゃない。王宮騎士団の誰よりも、遥かに危険な存在だと、本能が告げていた。ラスティは相変わらず肉を焼きながら、呟く。 


「せっかくのお肉が焦げるよ」


 エクシアは即座に表情を和らげ、優雅に微笑んだ。エアリスは唇を噛み、睨みつける


「そうね、ラスティ」

「……ふん」


 鉄板の上で、肉が焦げる音だけが響く。三人の間に、奇妙な均衡が生まれていた。ラスティはただ、ソーセージを鉄板に乗せた。


「……追加、頼んでいい?」


 誰も、何も言わなかった。ただ、炭火がぱちりと爆ぜた。その音が、今夜の戦いの始まりを告げているかのようだった。


 炭火亭の奥卓は、いつの間にか戦場だった。煙が立ち込める中、炭火の赤い光だけが、三人の顔を断続的に照らし出す。


 壁の時計が、乾いた音を立てて秒を刻む。外の通りでは、夜の商人たちが声を張り上げているが、ここだけが異様な静寂に包まれていた。


 エアリスは、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、鉄板を見つめていた。


 彼女は王女だ。剣を取れば騎士団の上位にも勝てる腕前を持ち、魔力の素養も高い。


 カルト宗教が基盤となったロイヤルダークソサエティ。ラスティは、相変わらず鉄板の肉を返していた。表情は変わらない。いつもの、背景に溶け込むような存在感。


 だが、彼の指先だけが、ほんのわずかに速い。プラチナブロンドの髪が、炭火の熱で揺れるたび店内の薄暗さの中で、夜そのものを纏っているように見えた。


 彼女は、ラスティの隣で控えている。一歩でもエアリスが妙な動きを見せれば、即座に喉笛を掻き切る覚悟で。


「三日後」


 エクシアが、静かに告げた。


「王都聖教会の地下深く、旧地下墓地跡。そこで儀式が行われる予定よ。あなたを、ロイヤルダークソサエティを素材として『神殺し』の一翼とするための」


 エアリスの喉が、小さく鳴った。


「神殺しの……器?」

「ええ」


 エクシアは、感情の欠片も込めずに続ける。


「現在の世界は、輪廻転生によって成り立っているわ。魂は転生し、様々な人生を繰り返し、やがて自己救済に至る。それが、世界の法則。しかし、ロイヤルダークソサエティはその法則を『不完全』だと断じている。今、この瞬間に苦しむ人々を救えない法則は、破壊されるべきだと」

「そうだな」

「そのために、彼らはロイヤルダーク細胞をばらまき、変異個体、いわゆる『忌子』を生み出し、社会から隔離・迫害させ、回収し、実験を繰り返しているの」


 彼女は、少しだけ前に出た。


「そして、あなたは、彼らが長年求めていた『鍵』よ。王家の血筋、かつ、完全なる魔力適性を持つ稀有な器。

儀式が完成すれば、あなたは永遠に苦しみ続ける『神殺しの子宮』となり、この世界法則を破壊する装置と化す」


 エアリスの顔から、血の気が引いた。


「ほんと?」

「ほんとよ」


 エクシアの声は、氷よりも冷たく、剣よりも鋭い。


「すでに、王宮内にもロイヤルダークソサエティの息がかかった者がいる。あなたの側近、護衛騎士、侍女……誰が裏切るか、わからない」

(婚約者が完全に信者なの言うべきかな。でも良い人だったな)

「だから、ラスティが私を呼んだの」


 ラスティは、ようやく顔を上げた。


「その通りだ」


 彼は、いつもの調子で肩をすくめる。


「エアリスが死ぬと、いろんなところが騒がしくなる。平穏な学園生活が、台無しになるから」


 その言葉に、エアリスの瞳が揺れた。


「あなた……本当に、ただの学生なの?」


 ラスティは、答えなかった。ただ、静かに微笑んだだけだ。それは、言外に意味を伝える微笑みであり、同時に、裏の顔を匂わせる微笑みでもあった。エクシアが、静かに膝をついた。掘りごたつの横、ラスティのすぐ横に。


「今夜より、私たちがあなたを守るわ。息をするように、眠るように、あなたの傍にいる。誰にも、気づかれずに」


 エアリスは、唇を噛んだ。


「……必要ないわ、自分は自分で守れる」

「無理よ。弱いもの」


 即答だった。


「あなたは、もう逃げられない。ロイヤルダークソサエティは、あなたの血を、魂を、すべてを求めてる。王宮に戻れば、明日にも拉致されるわ」


 沈黙が落ちた。鉄板の上で、肉が焦げて、煙が立ちのぼる。誰も、手を伸ばさない。

 ラスティが、ぽつりと呟いた。


「だから決めた。守るって」


 エアリスが、ゆっくりと顔を上げた。


「どうして……あなたが?」

「今の世界も悪くない。いや、むしろちょうどよい。だけど疑問がある。誰が、何故、どういう意図で制作したのか気になるだろう? 今を生きる者としては」


 ラスティは、答えない。ただ、静かに、ソーセージを鉄板に乗せた。


「ほら、肉を食べるべきだ。冷める」


 エアリスは、無言で箸を取った。震える指で、肉を口に運ぶ。熱かった。喉の奥が、焼けるように熱かった。

エクシアは、静か微笑んだ。その微笑みは、誰にも見えない。

 ラスティだけが、知っている。


 世界を救うために、今日も平凡を演じている。煙が立ちのぼり、三人の影を、ゆっくりと溶かしていく。煙の奥、炭火の赤い揺らめきの中で、エクシアは静かに告げた。


「儀式の正式名称は『病めるローランの聖杯と深き血の開花』。ロイヤルダークソサエティが、病める円卓の騎士ローランの遺した禁忌の写本と様々な禁忌を融合させて完成させた、最終秘儀」


 彼女は指を一本ずつ折りながら、材料を列挙していく。


「主な供物は、病めるローランの聖杯。かつて古き血を啜り、狂気に堕ちた騎士の頭蓋骨を加工した器を筆頭に色々あるわ」


・聖杯に注ぐための腐った血で育てた死血花。

・血走った眼玉。星界を見据えるため、生きたまま摘出した信徒たちの眼球。

・生きているヒモ。母体の子宮から這い出す、星界の触手。

・ブラッドゼリー。古き血が凝固し、蠢く半流体。

・ローランの落とし子。聖杯に注ぎ込む、病める騎士の血を引く胎児の亡骸。

・儀式の血。あなた自身の、王家の血。

・聖菌。聖骸の間に生える、宇宙の腐敗を宿した菌糸。


 エアリスの顔が、真っ白になった。エクシアは、淡々と続ける。


「儀式は四つの段階に分かれるわ。第一段階、あなたは裸で聖杯の上に横たえられ、病めるローランの頭蓋骨が、ぴたりとあなたの頭上に被せられる。頭蓋の内側には、無数の墓所カビがびっしりと生え、あなたの髪の毛に絡みつき、頭皮を這い、耳の穴から脳へと侵入していきます。カビは脳髄を腐らせながら、同時に『星界との交信路』を構築する。このとき、あなたは自分の思考が、他者の声に置き換わっていくのを感じるそうよ。星界からの使者の、囁きが」


 ラスティの箸が、完全に止まった。


「第二段階 死血花のつぼみ六十六本の楔が降下し、子供たちの心臓に埋め込まれた死血花のつぼみが、あなたの体に突き刺さる。花弁が開き、蕾の中からブラッドゼリーが溢れ出し、あなたの血管を逆流しながら、全身に広がる。同時に、血走った眼玉があなたの眼窩に押し込まれ、視神経を直接星界につなぐ。あなたは、自分の瞳が宇宙そのものに変わっていくのを見るでしょうね。星は瞳。だからそ、星界と交信しようとするわ」


 エアリスは、吐き気を堪えていた。


「第三段階。生きているヒモ病めるローランの聖杯が割れ、中から『生きているヒモ』が這い出す。それは星界からの使者の先端──頭が異様に肥大化した、脳喰らいの触手。ヒモはあなたの口から侵入し、喉を這い、食道を突き破り、胃をすり抜け、子宮へと到達。そこでローランの落とし子を産み落とし、あなたの内臓をすべて喰らいながら、新しい子宮を形成する」


 エクシアは、一度だけ目を閉じた。


「第四段階、大輪の死血花。あなたの体は、完全に崩壊し、聖杯と母体と融合。背中から無数の花弁が咲き乱れ、頭上には星界の脳が膨張し、あなたは『大輪の死血花』として、永遠に星界と交信しながら、古き血を世界中に撒き散らす存在へと変貌する」


 沈黙が落ちた。鉄板の上で、肉が焦げて、真っ黒になった。

 ラスティが、静かに呟いた。


「……すごいね」


 エクシアが、微笑んだ。


「だから、潰すわ。聖杯を割る前に、死血花を枯らす前に、すべてを、焼き尽くす」


 エアリスは、震える手で立ち上がった。


「……私も、行くわ」


 ラスティが、呆れたように顔を上げた。


「本当に?」

「行く」


 彼女は、はっきりと告げた。


「私の体を、そんな化け物になんかにさせないわ。私は私のものよ」


 エクシアが、一瞬だけ、瞳を細めた。


「……危険よ。あそこにいるだけで脳が溶けるわ」

「溶けてもいい」


 エアリスは、初めて笑った。


「溶けるなら、私が自分で、自分の脳を斬る」


 ラスティが、小さく笑った。


「……カッコいいね」


 彼は、ソーセージをエアリスの皿に置いた。エアリスは、無言で座り直した。箸を取る。震えは、もうなかった。炭火が、ぱちりと爆ぜた。煙が立ちのぼり、三人の決意を、静かに包み込む。


 三日後。

 病めるローランの聖杯が割れる前に。

 大輪の死血花が咲く前に。

 すべてを、終わらせるために。だが今は、まだ。肉を焼く音だけが、静かに響いていた。



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