月神との邂逅
河川敷を支配していたのは、世界から音が抜け落ちたかのような静寂だった。そこは、この空間だけが物理法則から切り離されたかのような異質な場所。
夕闇が迫る荒野に、二人の男女と、一匹の異形が佇んでいる。いや、正確には異形は「佇んでいる」のではない。先程までリヒトを死の淵へと追い詰めていた巨大な『影』は、空中で完全に凝固していた。ビデオテープを一時停止した映像のように、飛び散る飛沫さえもが静止画としてそこにある。それは物理的な停止ではない。「時間」そのものが凍結している光景だった。
そのシュールレアリスム絵画のような光景の中で、唯一、少女だけが生き生きと悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
リヒト「……。」
リヒトは言葉を失っていた。呼吸すら忘れ、ただ眼前の少女を凝視する。沈黙は数秒。だが、リヒトにはそれが永遠にも感じられた。
パチンッ。
不意に、少女が指を鳴らした。乾いた音が響く。するとどうだ。世界を停止させていた『影』が、まるで砂の城が風に崩れるように、一瞬にしてサラサラと微細な塵となって霧散したのだ。断末魔も、崩壊音もない。ただ、存在そのものが消去されたかのような消失。
あまりに圧倒的で、あまりに非現実的な現象。いかなリヒトといえども、開いた口が塞がらない。理解の範疇を遥かに超えている。
フェブ「……さて、と。」
少女は埃を払うような仕草で呟くと、リヒトの方へくるりと向き直った。リヒトは無意識に拳を握りしめた。相手は見た目こそ華奢な少女だが、あの怪物を指一つで消し去る存在だ。警戒しない方が生物として間違っている。
リヒト「……おい。何とか……言えよ。」
リヒトが絞り出した声は、ひどく掠れていた。少女は不思議そうに小首を傾げ、リヒトの顔を覗き込むように近づいてくる。距離が縮まる。リヒトの足が、恐怖か疲労か、無意識に震えだした。
少女はリヒトの足元から頭のてっぺんまでを、値踏みするようにじっくりと観察し、やがて確信を持ったように口を開いた。
フェブ「……キミ、人間じゃないよね?」
唐突すぎる問い。文脈も何もないその一言に、リヒトは呆気にとられた。警戒心が一周回って困惑に変わる。
リヒト「……は?」
間の抜けた返答に、少女は心底不思議そうな顔をした。
フェブ「……『は』って何さ、『は』って。」
リヒト「いや……何……言ってんだよ……。俺が……人間じゃない……だと?」
フェブ「うーん……惚けてるのか、それとも単に自覚してないのかは知らないけど……。」
少女は「やれやれ」といった風に肩をすくめると、リヒトが固く握りしめている右拳を指差した。白く、しかし力強く握られたその拳。
フェブ「……これ、天使力だよね?」
リヒト「天使……力……?」
聞き慣れない単語をオウム返しにする。
フェブ「……へえ、やっぱり自覚してないんだ。でも、僕を無意識に警戒して、掌からそれだけの天使力を出せるくらいだし……『持ってる』ってことで良いんだよね?」
少女は独り言のように納得すると、指差していた手を解き、リヒトに向かってスッと掌を差し出した。敵意はない。それどころか、純粋な好奇心に満ちた瞳だ。
フェブ「僕はフェブ。月神だよ。」
明らかに日本人ではない名前に、冗談にしてはあまりに癖が強すぎる自己紹介。平時なら鼻で笑っていただろう。だが、今のリヒトは自身の命を救われたばかりであり、目の前で奇跡を見せつけられた直後だ。
何より、彼女から発せられるオーラは、不思議とリヒトの警戒心を解きほぐすような透明な響きを持っていた。
リヒトは、迷いながらも差し出されたその手を握り返した。ひんやりと冷たく、壊れそうなほど華奢な手だった。
リヒト「……リヒト。彩雲リヒトだ。」
フェブ「リヒト……か。」
フェブは名前を噛み締めるように呟くと、満足げに手を離し、人差し指を立てて提案した。
フェブ「……ここじゃなんだしさ。とりあえず、キミの家へ行かない?」
あまりに強引かつ、飛躍した提案。だが、リヒトにはもう反論する気力も残っていなかった。全身の傷が痛み、疲労はピークに達している。それに、この得体の知れない少女をここに放置して帰るわけにもいかないだろう。底知れない好奇心と、逆らえない運命のようなものを感じ、リヒトは大きなため息をついた。
リヒト「はぁ……天使だの、月神だの、勘弁してくれよ……本当に。」
リヒトは重い足を引きずり、街の灯りを目指して歩き出した。フェブは当然のようにその隣に並び、軽い足取りでついてくる。
夕闇が完全に夜へと変わる頃、二人は住宅街の路地を歩いていた。並んで歩くだけのリヒトの背中に、フェブがふと疑問を投げかける。
フェブ「ねえ……あのさ。」
リヒト「……ん。」
リヒトは視線を前方に向けたまま、短く応じた。
フェブ「まだ力を自覚すらしてない人に、こんなこと聞くのは、野暮かもしれないけど……。」
フェブの声色が、わずかに真剣みを帯びた。リヒトは足を止め、振り返る。
フェブ「キミ……羽は持ってないの?」
リヒト「羽……?」
リヒトが眉をひそめて問い返す。フェブはリヒトの背中あたりをじっと見つめていたが、やがて何でもないことのように首を振った。
フェブ「……ううん、やっぱり気にしないで。ほら、もうすぐ家でしょ?早く行こ。」
フェブは悪戯っぽく微笑むと、リヒトを追い越して先へと歩き出した。リヒトはその小さな背中を見送りながら、釈然としないものを胸に抱え、再び歩を進めた。
やがて、リヒトのアパートへと到着する。リヒトはフェブを玄関へと招き入れた。
フェブ「へえ〜、ここがキミの家?」
リヒトは無言で靴を脱ぎ、洗面所へと向かった。フェブはどこか落ち着かない様子で、興味深そうに狭い室内をキョロキョロと見回している。
顔と手を洗い、血で汚れた服を着替えたリヒトは、リビングに戻ると椅子に深く腰をかけた。全身の倦怠感が、重力となってのしかかる。
フェブ「なんて言うか……意外と狭いんだね?」
リヒト「……そうか?これでも1LDKだけどな。」
フェブ「1LDKかぁ……。それって、広い方なんだっけ?」
リヒト「……まあ、学生の一人暮らしにしてはな。」
リヒトが素っ気なく答えると、フェブは反対側の椅子にちょこんと腰を下ろした。
フェブ「……元気、ないね。」
リヒトの様子を覗き込むようなその一言に、リヒトは小さく息を吐き、頬杖をついた。
リヒト「……勘違いするなよ。俺がお前を家へ連れてきたのは、あくまでお前が俺にとって有用だと判断したからだ。……何より、お前からは敵意が一切感じられなかったしな。」
フェブはしばらく「うーん」と考え込むと、ふと思いついたようにパンと手を叩いた。
フェブ「よし、分かった!」
フェブは立ち上がると、ビシッとリヒトに向かって指を差した。
フェブ「じゃあ、これから三つだけ!キミが僕に聞きたいことに答えてあげる!何でもだよ?月神様から直々に何でも聞けるなんて、こんなチャンス滅多にないんだから!」
リヒトは眉を顰め、胡乱げな目でフェブを見上げた。
リヒト「……何でも、だと?」
フェブ「もちろん!神様は嘘なんてつかないよ。……多分ね。」
リヒト「……じゃあ聞くが。……お前はどこの誰で、どういう存在なんだ?」
その質問は、あまりに包括的で、どこか狡猾な響きを含んでいた。「三つのうちの一つ」という制限の中で、相手のアイデンティティ全てを一度に吐かせようとする問い。一見すると複雑な質問に見えるが、本質的に聞きたいことは要するに「お前は何者だ」ということ。
その意図を察してか、フェブは頬をぷくっと膨らませた。
フェブ「むぅ……何そのずるい質問。」
リヒト「……どうした。最初の質問だぞ。それとも何か、答えると不都合なことでもあるのか?」
フェブ「はぁ……分かったよ。……まったく、人間ってこんなに賢い人ばかりなの……?」
フェブは観念したように息をつくと、再び椅子に腰を下ろした。
フェブ「……僕が『月神』だってことは、さっき話したよね?」
リヒトは顔を上げ、軽く頷く。
フェブ「なんて言うか……その……月神、っていうのはね……?」
そのハッキリとしない物言いに、リヒトはいぶかしげに眉を寄せる。
フェブ「つまり……そう!……あれ、何だっけ……?」
フェブは空中で手を泳がせ、言葉を探しているようだった。
フェブ「うぅ……ごめん、人間に自己紹介なんてしたことないから、なんて言えばいいか分かんないや……。」
リヒトは大きくため息をついた。
リヒト「……安心しろ。分かりやすく伝えようとなんてしなくていい。お前が多少意味不明なことを言っても、ある程度は読み取ってやるよ。」
リヒトのその、どこか傷つきながらも辛うじて残っていた、不遜で自身の知性に自信を持つ言葉。それを聞いたフェブは、目の前の青年がただの人間ではないことを改めて理解し、嬉しそうに微笑んだ。
彼女は一つ呼吸を整えると、澄んだ瞳でリヒトを見据え、朗らかに告げた。
フェブ「……月神って言うのは、文字通りの意味だよ。……月の神。僕は月を支配している唯一神さ。」
・・・
リヒト「……嘘つけ。」
思いもしなかったその一言に、彼女の頬がみるみるうちに膨らんでいく。
フェブ「……ちょっと!嘘ってどういう意味さ!?月の神を嘘つき呼ばわりしたいの?」
リヒト「……唯一神ってのは本来、その存在以外に神が存在しないことを表す言葉だ。……わざわざ『月神』と名乗るからには、月の他にも太陽なり海なり、別の神が存在している……そういうことだろ?……それはもはや、唯一神じゃない。」
あまりにも鋭く、かつ本質を突くような一言に、フェブは何も言えなくなった。
フェブ「もう……やりにくいなぁ!キミ、ちょっと賢すぎるんじゃないの!?」
図星を突かれたのか、怒っているような恥ずかしがっているような表情を見せるフェブ。リヒトはさらに畳み掛けるように、しかしどこか助け舟を出すように続けた。
リヒト「お前が言いたかったのは、月という領域における『絶対的な支配者』という意味か? それなら、言葉の綾として間違いではないのかもしれないな。……俺の早とちりなら謝るよ。」
そのフォローに毒気を抜かれたのか、フェブはふいっと視線を逸らし、落ち着きを取り戻した。
フェブ「……ふんっ。まあ、そういうことにしておくよ。」
リヒト「まだ質問の途中だ。……で、どうなんだ?他にも神はいるのか?」
フェブ「……キミの言う通りさ。僕の他にも、神様はいる。……でも、僕以外の神様について話すなら、それは二つ目の質問ってことになるよ?それでもいいなら話すけどさ。」
リヒト「……いや、いい。今は遠くの神々よりも、目の前にいる『月の神』を知ることが優先だ。」
その一言に、彼女はどこか安堵したような顔を見せた。それは神々の秘密を探られる不安よりも、むしろ自分自身に興味を持ってもらえたことへの、純粋な喜びが勝っているように見えた。
フェブ「それは……光栄だね。でも、あいにく僕についての話はこれ以上はないよ。僕は月の神、今はそれだけで十分でしょ?」
リヒト「……ああ。それじゃあ、二つ目の質問だ。」
リヒトの瞳が、射貫くようにフェブを捉える。
リヒト「……アルフェッカと、恐らくはあいつが放った『黒い影』……そして『月神』であるお前。この三者の力関係はどうなっているんだ?」
またしても予想の斜め上をいく、核心を突いた質問。フェブは一瞬、虚を突かれたように固まった。
フェブ「えっと……?アルフェッカ……黒い影……ヒエラルキー……?」
その反応を見て、リヒトは鼻で笑う。しかし、その嘲笑の中には、先程この少女が見せた圧倒的な力への遠慮と畏怖が微かに混じっていた。
リヒト「フン……神と言っても、頭脳は人間以下みたいだな。」
フェブ「……もう!だから、それはキミが……賢すぎるだけだって!」
リヒト「……分かりやすく言うぞ。俺が聞きたいのはつまり、天使、影、神……これら三つの存在が、どういう関係を持っているのかということだ。」
リヒト「それとも、まさかとは思うが……それほど人智を超えた力を持っておいて、そして俺に『天使力』や『羽』とか言っておいて……天使も影も知らないってんじゃないだろうな?」
リヒトの挑発に乗せられ、フェブは言い返した。
フェブ「っ……知ってるさ!僕は月神だよ!?もう、バカにしないでよ!」
フェブの顔が真剣味を帯びる。彼女は居住まいを正すと、リヒトの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
フェブ「……キミが普通の人間じゃないことは、僕も知ってる。キミが本当はとても優しくて、そして飛び抜けて賢いってこともね。だから……。」
フェブ「……僕はキミに、真実を教えるよ、リヒト。でも、一つだけ約束してくれないかな?」
リヒト「約束?」
フェブ「残り二つの質問に答えたら……今度は僕の質問にも、答えて欲しいんだ。……キミが僕らについて不思議がっているように、僕もキミがどういう存在なのか、まだ測りかねているから。」
リヒト「……ああ。そのつもりだ。神との対話に対価が必要なことは、聖書でもお約束だからな。」
その答えを聞いて、フェブは満足げに微笑んだ。
フェブ「……天使っていうのはね、簡単に言えば、この世界全体を管理してる存在のことだよ。」
リヒトは小さく頷く。それくらいのことは、あの『白い世界』での体験から推測できていた。
フェブ「……今、世界には三つの天使がいると言われてる。」
しかし、続くその一言に、リヒトの目が見開かれる。
リヒト「ちょっと待て……今、なんて……?三つ、だと……?」
リヒトの脳内で、初めてあの白い荒野へ足を踏み入れた夜の記憶が再生される。アルフェッカは確かにこう言っていた。
アルフェッカ『我が名はアルフェッカ。この世に存在する唯一の天使にして、下界の森羅万象に干渉し得る絶対者……。』
リヒト「(今さっき、こいつは俺に真実を教えると言った。……この瞳を見れば、それが嘘でないことくらい俺でも分かる。なら、嘘をついていたのは……。)」
フェブはリヒトの驚愕を見て取り、何かを察したように頷いた。
フェブ「……なるほど。どうやらリヒト、キミは『過去の意思』と対話したようだね。」
その抽象的な言葉を前に、流石に理解が追いつかない様子だった。
リヒト「過去の……意思?」
フェブ「……キミはさっき、僕に二つ目の質問をするとき、あえて『天使』とは言わず『アルフェッカ』と固有名詞を出したね。……あれはキミが、恐らくは何らかの方法を使って『真っ白な世界』で……彼と接触した。そういうことでしょ?」
リヒトは静かに肯定した。
フェブ「……キミが出会ったのは、過去の彼だよ。……いや、存在自体は今の彼なんだけど……多分、彼自身が分裂したことを、正しく認識できてないんじゃないかな。……天使が観測できる範囲は、あくまで管理下にある『この世界』であって、自分が干渉している世界以外は未知だからさ。」
アルフェッカ『人間に力を与えることは、天使の掟に背く重罪。だが、その法を定義したのもまた、過去の我自身だ。以前の我と現在の我が異なる思想を持つのは、下界の生物とて同じこと。』
再び呼び起こされる記憶の断片が、パズルのように組み合わさっていく。
リヒト「……なるほどな。天使は他にもいて、恐らくは『この世界』と『あの世界(真っ白な世界)』以外にも、また別の『世界』がある……そういうことか。」
フェブ「……理解が早いじゃん。まあ、そういうこと。」
フェブはコホン、と咳払いをして話を戻した。
フェブ「……でも、これ以上話すと多分、いくらキミでも処理しきれなくなると思うんだ。だから今は、二つ目の質問に対する回答だけするよ。」
リヒト「……ああ。頼む。」
フェブ「ズバリ、今『この世界』を管理してるのは、三柱の天使で……キミが見た――そして僕が倒した『黒い影』は、その天使のうち一体が生み出した怪物。そして、これら三者の関係は至ってシンプルだよ。」
フェブ「……それはつまり、『管理する側』と『管理される側』。」
リヒト「……お前ら神も、天使に管理されるだけの存在ってことかよ。」
フェブ「……悔しいけど、そういうことになるね。」
リヒトはこれまでの情報を咀嚼し、脳内で構造化を終えると、深く息を吐いた。
リヒト「……分かった、もう十分だ。情報提供、感謝する。」
フェブ「えっ?」
リヒト「何してる。次はお前が質問する番だろ?」
リヒトのあまりにあっさりとした切り上げ方に、フェブはきょとんとした。
フェブ「……もういいの?まだ三つ目の質問が残ってるけど。」
リヒト「これだけ聞ければ、現状把握には十分だ。確かに聞きたいことは山ほどあるが……結末を全部知ってるゲームなんて、面白くないだろ?」
リヒト「三つ目の質問は、また今後のために取っておくとするよ。もっとも、今後お前に会える機会があるのかは俺も分からないけどな。」
フェブはニヤリと悪戯っぽく笑う。
フェブ「ふふ、そこは安心して。……僕、今日からここに住むことに決めたから!」
リヒト「……。」
部屋に一瞬の静寂が満ちる。
リヒト「はぁ……。まあ、そう来るだろうとは思っていたさ。……だが、こうも遠慮なくハッキリ言われると、拒絶する気力も失せるな。」
フェブ「もちろん、キミに嫌なんて言わせないよ。神様のお願いだもん、聞き入れてくれる“よね”?」
フェブは机に身を乗り出し、上目遣いで迫る。その瞳の奥には、有無を言わせぬ神威がちらついていた。
リヒト「……ひとまずはな。お前がここに居座りたいと言うのにも、恐らくは理由があってのことだろ。俺もこの先、何が起きるかは正直見当がつかない。神様が一緒なら、こっちも心強いしな。……なら、お互い利害は一致してるってことだ。」
フェブはぱあっと顔を輝かせる。
フェブ「ほんと!?わーい!」
リヒトは頬杖をつきながら、無邪気に喜ぶ少女の姿を横目で見た。
リヒト「ったく……これのどこが『月神』なんだか。」
しばらくして興奮が冷めると、フェブは再び椅子に座り直し、表情を引き締めた。
フェブ「さて、と……。次は僕が質問する番、だったね?」
リヒト「……ああ。」
フェブ「じゃあ、聞くけど。」
彼女の顔が、再び神秘的な神のそれに戻る。その美しい瞳が、リヒトの深層心理を覗き込むように捉えた。
フェブ「……キミは『神』になる気はあるのかな?」
その問いかけに、リヒトもまた、真っ直ぐに彼女を見据え返した。
リヒト「それでこの『退屈』が、紛らわされるのなら。」
フェブ「ふふ、いい答えだね……。でもさ……。」
フェブの視線が、机の下――リヒトの足元へと落ちる。
フェブ「……キミ、足震えてるよ?」
その震えは、本人すら無自覚なほど微かなものだった。だが、彼女はそれを見逃さなかった。彼が、心の奥底では消えない『恐怖』を抱いていることを。
リヒト「何、言って……。」
フェブ「……キミは確かに、今までの退屈な暮らしには辟易してたんだと思う。キミほどの知性があれば、大抵のことは朝飯前で、刺激が足りなかったはずだからね。だから、さっきの言葉は『嘘』じゃない。でも……。」
フェブ「……キミは刺激を求めると同時に、その予測不能な『刺激』に対して、『恐怖』も抱いてる。恐怖っていうのは、言い換えれば『不安』。不安っていうのは、言い換えれば『ドキドキする』ってこと。でも、ドキドキするっていうのは言い換えれば『ワクワクする』ってことじゃないのかな。」
リヒト「……俺が恐怖を抱くのと同時に、この現状に高揚している……そう言いたいのか。」
フェブ「違うの?」
リヒトは言葉を失った。あの時、自分は確かに死を覚悟した。死の淵を覗き込んだ瞬間の、あの凍りつくような感覚。自分が今もこうして生きていられるのは、目の前にいるこの少女――月神が、理を書き換えて助けてくれたからに他ならない。
アルフェッカは言っていた。『畏敬』と『畏怖』は紙一重だと。リヒトは、目の前の少女に底知れぬ『畏怖』を抱きつつ、同時に自らの命を救った超越者に対する『畏敬』の念を抱いていた。そして何より、自身の命が脅かされるという究極の状況に、生物としての生の実感を覚えていたのだ。
リヒト「……その通りだ。俺はあの時、初めて『死の味』を知った。」
リヒトはふと、自分の肩に目を落とした。服をめくるとそこには、先程あの怪物に貫かれたはずの傷跡が、綺麗さっぱり消え失せていた。
リヒト「お前が現れた頃には、とうに俺の傷は消えていたはずだ。これはお前が治したんだろ?」
フェブ「それは『三つ目の質問』?」
リヒトは観念したように舌打ちをする。
リヒト「……ったく、お前もなかなかに食えない神様だな。」
フェブ「ふふっ。冗談だよ。」
フェブは立ち上がり、リヒトの肩に手を置いた。
フェブ「その通り。僕の力は『ネゲントロピー』。無秩序を秩序へ、破壊を再生へ。万能な何でも屋さんって覚えてくれればいいよ。」
そう言うと、フェブは伸びをして、まるで自宅のように寛ぎ始めた。
フェブ「……さて。お話はここでおしまい。これから同居する身としては、もう十分すぎるほど話したんじゃない?」
リヒトは鼻で笑い、椅子に深く体を預けた。
リヒト「ふん……そうだな。要するにお前は、俺を『神』に仕立て上げたいってわけだ。それは恐らくお前だけじゃない。あの忌まわしくも感謝している天使――アルフェッカも、同じ絵図を描いているんだろう。」
フェブは肯定も否定もせず、ただクスッと笑った。
神と人間。本来なら交わるはずのない二つの存在が、一つ屋根の下、奇妙な共犯関係を結ぼうとしていた。ありふれたアパートの一室から、世界の理を変える日常が始まろうとしている。




