63. 雨
小粒の雨が、しとしとと降り続いている。
3日前から降り始めた雨は、勢いこそ弱いものの止む気配はまるでなく、今日も変わらずアルメイリアの町を濡らし続けていた。
出掛ける予定は延期になったけど、部屋でゆっくり本を読むのも良い。
私は椅子に腰掛けて、雨音をBGMに冒険小説の続きを読み進めていた。クリスもベッドに寝そべって本のページをめくっている。
はじめは読書に興味のなさそうなクリスだったけど、私の付き合いで貸本屋さんに行くうちに時々自分からも本を借りるようになっていた。
ふと、ベッドの横に積んである本が目に入った。
「クリス、そこに積んでいる本って、いつ借りたものでしたっけ」
「これ? さあ、いつだったかしら」
「この前に行ったとき返すの忘れていたんですね。その前に行ったのは……えーと、20日前……?」
私は部屋にあるカレンダーを見て日数を数えた。
貸本屋さんに行った日は印を付けるようにしているので、返し忘れはないと思っていたんだけど……。
「うっかりしていました。今日が貸し出し期限じゃないですか。私、いまから返しに行ってきます」
クリスがむくりと身体を起こして私を見た。
「いまから? 雨なのに?」
「濡らさないように気をつけますから、大丈夫ですよ」
「なにもこんな日に行かなくても。明日にすればいいじゃない」
「だめですよ。借りたものはちゃんと期限内に返さないと」
あやうく延滞するところだったけど、ぎりぎり期限内に気づけたのだ。返さないと寝覚めが悪い。
私が出かける支度をしていると、クリスも起き上がってきた。
「仕方ないわね。わたしも一緒に行くわ」
「返しに行くだけですから、一人で行きますよ?」
「雨の日は人が少ないから物騒なのよ。ひとり歩きは危ないわ」
危ないなんて少し大げさじゃないかなと思ったけど、言われてみれば雨の日に出かけたことはない。窓から外を見ていても人通りが少ないのは確かだった。
忠告を無視して路地で絡まれたことも記憶に新しい。
「そうなんですか……。じゃあ、すみませんが付き合ってください」
「出かけるのをやめるとは言わないのね。まあいいけど」
さて外へ出ようというときになって、私は当たり前のようにあると思っていたものが見当たらないことに気がついた。
「傘はないんですか?」
「かさって何?」
「雨の日にさす傘です」
「ああ、話には聞いたことがあるけど。そんなものあるわけないじゃない」
その返事にちょっとびっくりした。このあたりでは傘をさす文化がないらしい。
じゃあ濡れるしかないのかと言えば、雨具としては雨用のコートを羽織るのだという。今回はライラが貸してくれた。
材質は何でできているのかわからないけど、薄手の生地だ。外に出ると、体にあたった雨がころころとした水の玉になって表面を滑り落ちていった。
「すごいです、クリス! 全然濡れません」
「雨具なんだから当たり前でしょ。そんなにはしゃいでると転ぶわよ」
いつもと違う服を着て、初めての雨の日外出に私は少しテンションが上がっていた。
本を濡らさないよう気をつけながら、ほとんど人のいない道をクリスと二人で歩いていく。クリスの前を歩くと、町にだれも人がいなくなったみたいで少し不思議な気分になる。
道の途中で、川の見える場所があって立ち止まった。いつもは穏やかに流れているアルム川が、茶色い濁流となってごうごうと音を立てて流れている。見たことのないくらい水かさが増していた。
「川の方は危ないから行っちゃだめよ」
「わかってます。子供じゃないんですからそんなことしません。でも、溢れてしまいそうで少し怖いですね」
「この程度の雨なら大丈夫だと思うけど」
クリスの言うとおり雨の勢いは弱いし、水位にもまだ余裕はありそうだ。だけど、対岸はそうでもなかった。川幅がいつもより広がっていて、本来の川岸は全くわからなくなっている。
「向こう岸はちょっと危ないんじゃないですか? ほら。あっちは畑ですよね。大丈夫でしょうか……」
「本当ね。でも、畑のことならそんなに心配はいらないわよ。この季節なら被害は少ないし、農家の人は洪水があるとかえって喜ぶくらいだから。洪水のあったあとは土の質がよくなるんだって」
そういうこともあるのか、とうなずきながらその場を離れ、貸本屋さんへと向かった。
貸本屋さんはいつもどおり営業していたけど、店内にお客さんの姿は見えなかった。
私も返却だけしてすぐに帰ることにする。濡れたコートで周りを濡らしてしまうのが怖かったし、長居すればまた本を借りたくなってしまう。そそられる気持ちはあったけど、まだ読んでいない本があるからと、ぐっと気持ちを押さえつける。
他に特にすることもないので、帰りはまっすぐライカ亭に直行した。とんぼ返りだ。
部屋に戻ってコートを脱ぎ、そのまま椅子に腰をおろした。初めての雨の外出にうかれていたのと、途中で休憩をはさまなかったのとで、足がすっかりぱんぱんだ。
濡れたコートを拭かなくちゃ、とは思ってはいるものの、少し休んでからでないととても動ける気がしない。
「あっつ……」
あとから部屋に入ってきたクリスがコートを脱ぎ払うと、まるで蒸しあげられた料理のように身体から湯気があがった。
クリスが額に浮いた汗を腕でぬぐう。
「シホ、わたしちょっと着替えるから……いい?」
「あ、はい。どうぞ」
私が座ったまま背中を向けると、クリスが汗で濡れた服を着替え始めた。互いの着替え中に背中を向けるこの習慣はいまも続いている。いい加減気にすることもないと思うんだけど。
濡れた布がこすれる湿った音がする。野性的な汗のにおいが鼻孔をくすぐった。
窓を閉め切っているから、部屋の中の湿度がどんどん上がっていく。息をするたびにクリスのにおいを直接嗅いでいるみたいで、変な気分になりそうだ。頭がくらくらする。
「終わったわよ」
振り返ると、汗を拭いてすっきりした顔のクリスがいた。
髪はしっとりと濡れていて、金色の髪がいつもより輝いて見える。上気した肌は桃色に色づいて、なんだかちょっと……。
どこを見てもいけないような気がして、私は目をそらした。
「す、すこし、換気しましょうか」
「そうね。ずっと閉め切ってるし」
窓をあけると、雨のにおいと共に涼しい風が部屋に流れ込んでくる。
私は火照った身体を手であおぎながら、新鮮な空気を深く吸った。




