36. キリオンとおふろ
「お風呂に入りたいです……!」
「おっ、おふろ?」
唐突につぶやいた私の言葉を、キリオンが拾って繰り返した。
「はい。この近くにお風呂屋さんがあるんですよ。キリちゃんは行ったことありますか?」
「こっちのおふろは、ない、かな」
キリオンの住んでいるところはライカ亭からは少し離れているので、家から近いところにあるお風呂屋さんにはときどき行くと言う。
「このあと用事がなかったら、一緒に行きませんか?」
「よ、用事はないけど、おふろに?」
「飛竜の血がかかっちゃったのが気持ち悪いですし。キリちゃんもたくさん汗をかいたでしょう? お湯で流すと気持ちいいですよ」
ここの人はお風呂に毎日入るようなことはしない。身体の汚れは拭いて済ませるのだ。家にお風呂がないのだから当たり前と言えば当たり前だけど。
ライラのような客商売でもお風呂は10日に2、3度だと言うし、それ以外の人はもっと少ないのだろう。
キリオンは特に反対することもなくうなずいてくれたので、一緒にお風呂屋さんへと向かった。
少し歩いて目的地に到着する。
キリオンも私のあとについてお風呂屋さんののれんをくぐった。
脱衣所で服を脱いでいると、身体のあちこちに痛みが走った。背中に鈍痛を感じたので髪をどかしてキリオンに見てもらう。
「どうですか?」
「う、うん……おっきい、あざが……」
「ああ、やっぱり」
飛竜に踏まれたあとが内出血しているようだった。
「い、いたそう……大丈夫……?」
「ちょっとだけ。でも平気です。すぐ治りますから」
あざは脇腹のほうにもできていて、こっちは触るとかなり痛かった。
まあ、飛竜に襲われてこの程度の怪我で済んだのだから運が良かったと思おう。
キリオンがいつもの黒いローブを脱ぐと、その下にまた真っ黒な長袖のインナーが現れた。
気になって聞いてみる。
「キリちゃんは黒が好きなんですか?」
「え、えっと、汚れが目立たないから……」
実用的な答えが返ってきた。
でも、杖も真っ黒なものを使ってたし、好きなんだろう。
ローブを脱いだキリオンはやっぱり肉付きがとても薄くて、骨が浮いて見えるようだった。
こんなに痩せていて大丈夫なのかなと気になって見ていたら、長袖を脱ぐときに思わぬものが目に飛び込んできた。
「あっ」
同年代の女の子の見てはいけないものを見てしまったような、そんな驚きに思わず声が出てしまう。
わきの下に、ふさふさとした茶色い毛が生えていた。
脱いだ服を戸棚に入れたキリオンがぱちぱちと瞬きをして私を見る。インナーの下は何も着けていなかった。
自分のことには無頓着みたいだ。
「どうかした……?」
「いえ、なんでもないです」
そう、なんでもない。
見慣れないからどきっとしてしまったけど。これまでのことを思えば、私の思う当たり前なんてほとんど通用していないのだ。
だとしても、気になってしまうのは仕方がない。
そういえば、クリスは……。何かしてるのも見たことがないから、あれはきっと天然だ。
私は……と確かめる。うん、大丈夫。
気を取り直して洗い場へ向かう。
傷のある指にお湯がしみて痛かった。というか、体中が痛い。時間をかけてそーっと洗う。
飛竜の血がかかったであろう髪は、特に念入りにお湯で流す。
キリオンを見ると……どうしてもそこに目が行ってしまって、後ろめたいような変な気持ちになってしまう。
さっぱりしたあとは、二人でお湯につかった。
「いたっ……」
「だ、だいじょうぶ?」
「大丈夫です。ちょっとお湯に圧迫されて」
あれ? 打ち身って温めるとよくないんだっけ……。まあいいか。気持ちいいし。
「なんだか今日は大変な一日でしたねー」
「う、うん……。でも、よかった。シホちゃんが無事で……」
「ええ、みんな無事でなによりです」
湯船の中で、ぐーっと手足を伸ばす。うっ……脇腹がつりそうになった。
お風呂屋さんから外に出ると、ひんやりとした風が心地よく感じた。温まった体からは、ぽかぽかと湯気が出ている。
「キリちゃんは、このあとどうします?」
「ちょっと疲れたから、帰って寝よう、かな」
「そうですね。私もお腹が空きました。あ、そうだ。飛竜のお肉が届いたら一緒に食べましょうね。約束です」
「う、うん。シホちゃんは食べるのが好きなんだね。約束、楽しみっ」
気づけば、キリオンの表情には自然な微笑みがあった。
ずいぶん打ち解けてくれたなあ、と嬉しく思いながら、またねと言って別れようとした、そのとき――
――どん
突然、キリオンが後ろから突き飛ばされた。
たたらを踏んで倒れたキリオンに、あわてて駆け寄る。
「大丈夫ですか、キリちゃん」
「う、うん、平気」
よかった。特に怪我はしていないみたいだ。
だけどひどいことをするなあと探した目が、予想もしなかった人の姿を写し出した。
「クリスさん……?」
全身が泥に汚れて髪もひどく乱れていた。
肩を上下させながら息を切らし、汗にまみれた顔には金色の髪の毛がべったりとはりついている。蒼白な顔に見開いた目。怒っている。だけどそれはすぐに戸惑いの色に変わった。
「あ……。わたし、そんなつもりじゃ……」
前に伸ばしたクリスの手が空をつかんだ。
「どうしたんですか……? クリスさん」
「ち、ちがう、ちがうの」
一歩、二歩と後ずさりながら、クリスが首をふるふると横に振った。
私が近づこうとしたら、クリスは泣き出しそうな顔をして走って逃げ出してしまった。
「え……?」
何がなんだかわけがわからない。
「いまの人、シホちゃんの友だち……?」
「え、ええ」
「じゃあ、追いかけた、ほうが……」
突き飛ばされたのに、怒ることもなくキリオンはそう言った。
「……そうですね。よくわからないですけど、とにかく話を聞かないと……。すみません、キリちゃん。今日はこれで。よかったら明日にでもライカ亭に来てください」
「うん、シホちゃん。またね」
落ち着いた表情で手をふるキリオンと別れ、私はクリスのあとを追いかけた。
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