115. 覗いた素顔
『自らの魂の九割と己の異能の大半を、儂が宿っていた分体の蘇生に注ぎ込もうとしたティリンス侯を止め切れぬ弱い意志しかなかったのだからな』
俺は初耳だぞ、アステールよ?
上手く質問さえできていればもっと早くに聞き出せたのだろうが、上司としての未熟さと至らなさを痛感するね。1歳のスライムに182歳の老公爵の相手はやっぱ無理なんじゃねえのか。
「師はティリンス侯の死霊術でミラーソードとは別に会話を強制されていたのだろうが! 死霊術で強制された状態の答えが是であろうが否であろうが、師の意志だなどと……愚かな!」
誰だよ、と思ったら低い声で怒鳴り散らすダラルロートだった。アステールに掴み掛からんばかりの勢いだぞ。
死霊術などと言う物騒極まりない単語のせいで身体の力が抜け、ふらついた所を支配権を持って行ったイクタス・バーナバの意志で支えられた。すまんな、俺、お化けは本当の絶対にダメなんだよ。このままちょっと任すわ。―――いいだろう。
「ティリンス侯は亡者と化し不死の異能を得た為に死霊術を扱えた。
死霊術の中級術であれば死者の魂に命令を強制できる、などとまさか私に講義させる気ではあるまいに」
うわあ、俺が聞きたくない単語山盛りの上に内容もヤバい。聞きたくねえ。聞きたくねえが、イクタス・バーナバのお陰で転倒も卒倒もしていない。
「荒れていた頃のダラルロートの声は久し振りに聞いた」
ダラルロートの激発で正気付けられたのか、アステールが平素の平静さを取り戻したかに見える。ダラルロートはまだ収まらない。敬語じゃない上に激昂して表情を歪めたダラルロートなんて初めて見るぞ。誰だよ、えらく歳を食って見える。これが素、なのかね。
「二世紀近く保った魂の完全性を売り渡してまで師が応じるべき取引ではない」
「魂を売り渡すほどの事態に見舞われなかっただけだ。アガシアとアガソスの為に機会があれば応じただろう。イクタス・バーナバの提案に乗ったとしてもおかしな事ではない」
「その判断自体が異常だと解らないのか、師よ! ……忌々しい!」
ダラルロートも正気付いたかね。怒鳴りたいだけ怒鳴っていつもの調子を思い出したのか、認識欺瞞を不完全ながら纏い直した。すまん、沈静化してやりたかったが死霊術なんて単語が会話に絡むと術が上手く使えねえのよ俺。
「リンミの大君よ。かつて渇愛の呪縛に苦しんだ魂よ。
アディケオがどれほど巧みにその身の醜悪を覆い隠そうとも神の目には見えている。エファがそなたに触れようとするのをあまり恐れないでやって欲しい。イクタス・バーナバは母として願っているよ」
憐憫に満ちた声を吐き出す俺の口がエファの母を自称するのは何とも奇妙な感覚だった。俺自身は無性だが、娘ができたと聞いた時から男親として振舞う気ではいたもんな。母と自称されるとちょっと驚く。―――ミラーソードの血統の祖たる腐敗の邪神は異界において増殖を司り、交合や出産を守護する大母でもあるぞ? 何を驚く事があろう。
……そうなのか。初耳だ。俺、暗黒騎士として信仰しているのに知らんかったぞそんな事。
「恐れなどと……」
「真実だ、リンミの大君。重ね続けた欺瞞の底に己の真を封じた魂よ。暴かれる事を望んでいないとはミラーソードでさえも知っているが、イクタス・バーナバは哀れでな」
その一言は要らなかったぞ。後が怖い事言いやがった! 後でダラルロートに襲われる覚悟はしておこう。師も弟子も矜持の塊みたいなもので、勝手に引っぺがして喋らせたら反逆しかねないではないか。支配される事に妙に馴れてしまった俺自身は尊厳だとかその手のものの持ち合わせは薄いが、侵すと激発を招きかねない事は知っている。
「……いずれにしても私個人にイクタス・バーナバの援けは不要ですとも。せめてアディケオには背きません」
ダラルロートの表情にはまだ余裕はなかったが、普段の喋り方は思い出したようだ。ミーセオの貴人らしさと大君の雰囲気で身を固め、謝絶の言葉を口にした。
「その答えを予期はしていた。リンミの大君にはリンミ湖の豊漁の約束を贈るとしよう。イクタス・バーナバからミラーソードの忠実な配下へのささやかな好意だが、さて素直に受け取ってくれようか」
「謹んでお受けしますとも、夏と双頭の権能を司る精霊神、漁の守護者よ」
やや硬くはあったが、ダラルロートは大君としての立場を演じ切ろうとした。
俺の肉体を介してイクタス・バーナバが神力を振るい、双頭の大権能に含まれる小権能から少々の祝福をダラルロートにくれた。双頭は複合権能であり、小権能は双頭、狂気、魚、大漁、豪雨だと俺には解った。魚と大漁の恩寵を籠められた祝福がダラルロートに宿る。ああ、ダラルロートだな。表情にも余裕が戻ったのを感じる。
「その手を祝福を与える湖に浸すがよい」
「ミラーソード様への加護とリンミへの祝福にリンミニア領大君ダラルロートからイクタス・バーナバへ心よりの感謝を捧げます」
「善き日であった。あまりに長く借り受ければ不壊の鏡の剣すらも折れよう。スタウロス公とリンミの大君よ、また会おう」
アステールとダラルロートが揃って去ろうとする神への礼を取る。息は合ってるよな、こう言う機会にはよく解る。かつては師弟だったのだと。―――スタウロス公の保留だけでも充分だ。ミラーソードよ、イクタス・バーナバは見守っている。
おう、俺も結構当てにしてるよ。神の注視が外れる気配を感じ、別れを意識すれば俺の視界が傾いた。
「ミラー様」
「ちっとは吐き出せたか、ダラルロートよ。溜め込んでると苦しいもんだぞ」
膝に力が入らねえんだよ、夏殺しのクソの話のせいだ。
ダラルロートに支えられながら俺は強がって見せたが、顔面は多分蒼白だ。偽りの心臓から送り出される血流が鈍いように感じられ、バシレイアンを模した体躯を満たすべき活力が足りていない。思ったよりも神降ろしで疲弊したな。イクタス・バーナバが神力を振るう導管になったのもきつかったかね。俺は意識を維持できないと察し、任せたと呟いて手放した。