110. 狂神の呼び声
ティリンス地方の現状維持はパラカレ城砦に派遣した上級監察官ワバルロートその他の人員と、夏の権能に侵犯された領域を好んで喰らう夏喰らいの大群に任せ、俺はリンミに留まって状況を整えた。
仕事量は多く、夜間でも構わずリンミに留まって処理する日々だったが俺の機嫌は良かった。夕方に戻る琥珀の館で両親と共に父の手料理と会話を楽しむ行為は、食後にはリンミへ取って返すのだとしても俺の心を安らがせた。父と母へ捧げる愛情に応えて貰える快さを存分に味わってやった。
「そろそろ行けると思うのだが、どうだろうな」
「さて、交わる属性のない者の事はよく解らぬのが正直な所だ」
今晩の夕食の献立は豚を軸にしていた。健啖家の母を満足させるべく大皿で用意された肉と香草と米を詰め込んで焼かれた子豚の丸焼きが存在感を主張する一方、俺の好む甘めの味付けをされた薄切り肉を焼いた小皿もある嬉しい食卓だ。野菜も食べるようにと時折促されはするが、母が取り分けてくれた子豚が旨いのだから肉を食いたいではないか。きちんと穀物は摂っているし、父自身も意外と量を食べている。食後の茶は俺が汲み、父母に淹れるのだ。母は調理と茶汲みに手を出す事はないが、死んだような白い肌と乏しい表情なりに機嫌が良いのは解る。金一色の髪以外は俺と鏡写しの母だ、僅かな変化でも解るさ。
調理の手間と料理の味には拘るが飾りにはさほど気を遣わぬはずの父だが、今晩は珍しくも皿に添えていた赤い花を手で弄ぶ。合図であろうな。
「いいんじゃない、食後に試してみれば。減るもんじゃないよ」
「魂は磨り減るものだぞ、神子よ。正気のままで地獄を彷徨い歩けば無事では済まぬ。正気の続く限り磨耗に耐えるか、或いは地獄の瘴気が求めるままを受け入れて腐り堕ちるかだ」
「先達の言葉の重みを感じるよ、俺は」
俺と父で食後の片付けを終え、三人で琥珀の館の地下部分へ向かう。
手早い堕落ならば狂った悪である腐敗の邪神と属性を完全に一致させている母に任せるべき仕事だ。まあ、母は堕落ついでに腐敗させようともするであろうが構いはしない。俺は躾を担当する。
用意した儀式室の床には生贄の狂乱を促す狂気の魔法陣を刻み込み、相応の術具と供物を整えた。祭壇に奉るのは腐敗の邪神と狂った中庸であるイクタス・バーナバの二柱。アディケオの属性は正しき悪であり今晩の目的にはそぐわない為、祭壇には祀っていない。今晩の転向儀式で力を借りたいのは狂神だ。中央には父の宿る分体が座る。正面に立つ母、母の脇に控える俺の手には抜き放った鏡の剣。
「それじゃ、僕は鏡の中から支援しよう」
「ああ。父よ、夏殺しの封印を解くゆえ代わってくれ」
俺の両肩に刻まれた灰色の烙印に神力を通し、今晩は翼状に実体化もさせながら命じる。意識の奥底、腐敗と堕落の源泉に浸すようにして封じ込めていた夏殺しを分体に宿らせてやる。
「……ミラー」
弱々しい声が俺を呼んだ。
忌々しさしか感じられぬこの赤毛を今晩以降は可愛がってやれようかね? 俺はイクタス・バーナバに剥奪されて夏殺しに対する愛を欠落させており、何かを注ぎ入れるとしても愛だけは絶対にないが。
「源泉浸りの日々は愉しんで貰えたかね。夏殺しの属性はどうだ、父よ?」
「まだ正しき善だね」
「そうか。夏殺しよ、気分はどうだ」
予想されていた答えだ。神族は簡単には親である神の属性から転向できないのだと聞いた。アガシアの餓鬼ならば正しき善から外れる転向が難しい。腐敗の邪神が狂った悪で、父は狂った中庸、俺自身は生後からつい最近まで中立にして悪だったと言う俺の血統は父が神の手で創造されてはいても神族ではないのだそうな。神族でなくて良かったと思うべきなのか、そうでもないのか……。容易くは転向できない以上、夏殺しは苦痛を味わう事になろうな。
「ミラー、どうして」
「俺はどうもせん。夏殺し自身の気分はどうかと聞いている。正属性から狂属性への属性転向にはどの程度の助けが欲しい?」
「どうしてエファを愛してくれないの」
「生憎と俺は愛を強制されるのが大嫌いだ」
弱々しいなりに渇愛が突き動かすのか、魔法陣の中央から俺に向けて手を伸ばして来る。立ち上がるほどの力はないか。……順当に弱ってはいたのだな。面倒な儀式を繰り返し、憎悪と忌避を植え付けて回った努力は無駄ではなかったようだ。俺はアステールも夏殺しと同様に固く封印して餌の供給を絶っていた。
「他の人は愛しているのに」
「俺の父と母だぞ。子の俺がどうして愛さぬ理由がある」
頭の悪い子供だ、と侮蔑を込めて言う。這い寄って来るのを止めはしない。
「文句はエピスタタの野郎に言え。貴様の窮状に関する全ては奴の責任だ」
「エファを助けて、ミラー。苦しいのはいや」
「俺は貴様を助ける気がない。俺の役に立たぬ限りはな」
俺はエピスタタを殺す道具としてか夏殺しを評価してはいない。殺して来た後ならば俺なりに報いてやる気はあるのだぞ? 愛ではなく、堕落によってだろうがな。
「正気など保っているから苦しむのだ、夏殺しの子よ。
堕落を受け入れればミラーは応えるだろう。貴様の求める愛には代価が必要だ」
「そうとも。正気でいるのは苦しいだろう? 苦しみしか与えぬ属性を奉じる意味などあるまいに」
「愛して。エファを愛して」
懇願と共に触れた手が俺に愛の異能を注ぎ込んで来るが、俺には効かぬ。欠落を零れ落ちるばかりで応える事のない愛の残滓が邪視に視えた。母にも同様に効かない。俺は愛の欠落をアステールと夏殺し以外の分体に共有させた。幾らかの精神的な失調を伴ったようだが、悪しき魂と狂える魂は耐え切った。アステールにはおそらく耐えられまいし、貴重な給餌係だ。正常でいて貰わなくてはならない。
「俺がくれてやれるのはこっちなんだよ、夏殺し」
涙を溜めた瞳が俺を見上げる。属性増幅の魔力を付与した指輪を着けた手で触れ、僅かばかりの堕落を注ぎ入れる。貪り、飢え、嫉み、怒り、憎しみ、楽しみ、溺れ。源泉に浸されて感じられる属性力よりも遥かに弱い小権能の波動だろう。
「苦しいよ、ミラー。愛をちょうだい」
「狂えば堕落が心愉しくなるぞ、堕ちておいで。俺は不必要に苦しめたくはない」
堕落させようとしている俺自身が狂気の呼び声を聞いている。中立から狂属性に傾きかねんな、とは感じつつ狂気の領域からの接触に身を任せてやる。なに、ついでに俺も母の手で堕として貰ってもいいとは思ってやっている事だ。鏡の剣から手を離せば宙へ浮き、俺の口を借り知識を被った狂気が口を開く。
「エファを愛してくれる娘がエムブレポにいるぞ。逢いたくないか」
「……だれ? どっちのミラーでもない」
「ミラーソードの娘だ。イクタス・バーナバとの間に産まれた娘でデオマイアと言う。エファを愛する心をミラーソードから受け継いだ一人娘だ」
母が俺を見る。父は黙り込んでいる。
「父に似て魔術師であり、精霊導師でもある。戦術級精霊を呪文さえ唱えずに呼び出せる、神の血が濃い娘だ。夏殺しが恭順するならば娶せてやろう」
「ミラーの娘」
呆けたように言う夏殺しを見下ろしながら母と父の声を聞く。母の声は静かだが明らかな焦りがある。
「……戦術級精霊の無詠唱召喚だと? 神子よ、そなた相当に不味い取引をしたのではないか?」
「ああ、まあ、イクちゃんがあれだけはしゃいで喜んでた理由が解ったわ。ミラーと互角のレベル28はあると思うのよね、その子」
「第一使徒だった私とアステールがレベル20でしかない事の意味は解っていような、神子よ!」
「うん。僕だってレベル20だったよ。28はちょっと、何だ。強い。生命体としての格が違う」
そもそも俺がレベル28ではあるんだが、なんだその不安そうな話し方は。そうか、俺の娘は魔術師にして精霊導師のデオマイアか。何か祝いの品でも造ってやりたいな。―――イクタス・バーナバがミラーソードを歓迎しよう。いつでもエムブレポを訪れるといい。
「愛が欲しかろう、エファ。エピスタタを殺し、デオマイアが待っているエムブレポへおいで。婿の一人として迎えてやろうから」
「……エピスタタはエファを見ている」
弱った身体で夏殺しはそう言った。ああ、イクタス・バーナバであれば解決できような。剥奪してしまえばいい。俺の魂をそうしたように。
「正気を捨てよ。エファの正気諸共にエピスタタの眼を引き剥がしてやろう。イクタス・バーナバにはできる。エファさえ望むならば」
頭が二つある銀ぴかのお魚と聞いていたそのままの姿が俺を一瞥した気がした。俺の肉体で夏殺しを愛でてもよいかと。貸し一つな、と応じる。許可を求めて来た点だけでも俺はこの魚に好意を持てそうだ。俺の肉体が笑声を上げ、少年の肉体を抱き上げる。ああ、疲れ切った顔をしているな。―――これとて哀れな魂よ。
「おいで、エファ。受け入れよ」
「でも、エファの宿敵」
「エファよ。エファの第一の宿敵はエピスタタであり、第二の宿敵はアガシアであり、第三の宿敵はティリンス侯爵家だ。そうだろう、エファ?」
堕落を引き出され、口付けで夏殺しの肉体へと注ぎ込まされた。何か別の強烈なのも混ざってたぞ、今の。……そりゃあ、狂神御自らならば母がやるより効くだろうけどよ。
「わーお、完全に宿敵指定を三段重ねてぶっ殺させる気だわイクちゃん」
「神子よ、神降ろしなどしてミラーの魂は持つのだろうな?」
「レベル28だし何とかなるんじゃないの。……なったらいいが」
親の会話が不穏だ!! 特に異常は感じねえが、時折俺を圧倒して意志が塗り潰される感覚はあるか。俺達親子は神降ろしなんぞする気じゃなかったはずだが、イクタス・バーナバが俺を注視していたか? ―――そうとも、取引に応じた理由だ。良き子種よ。
「エファよ、イクタス・バーナバは同意が欲しい。世界からの剥奪は困難な術なのだ。壊れそうな哀れな魂の上げる朽ちた叫びに応えねば成立しない」
憐憫に満ちた声は明らかに俺の普段の声ではなかった。俺にはこんな声が出せたのか、と驚く。イクタス・バーナバは言葉を発する事が稀だと聞いていたがえらく多弁だ。―――ミラーソードが雄弁なのだ。捧げられた双頭の一方を握るイクタス・バーナバはミラーソードの言葉を借りているに過ぎない。
「エファは愛されたい」
「愛してやろう。昼夜を問わず、永遠の夏の都で熱狂と共に」
「でもエファ、知ってる」
「当然であろうな。だが、救ってはやろう。愛が欲しいだろう、エファよ」
「救われるのはエファじゃない方のエファだ。残されるエファじゃない」
―――宿敵を追い、宿敵を識るのが夏殺しであれば当然知っていようさ。しかしな、ミラーソードよ。イクタス・バーナバが500年もの永きに渡り何人の子を憎き夏殺しに奪われたか知っているか? 母の嘆きが理解できまいかな、ミラーソードよ。
「そうとも。イクタス・バーナバが召し上げたのは正と善に偏ったミラーソードだ。エファを愛していたが故に」
ああ、結構な性格の悪さしとるわ。俺を分けた時点でこうしようとしてたんだな。
「イクタス・バーナバは約束しよう。召し上げないエファも幸福を感じられると。存在するだけで苛立たれ、憎まれ、死を望まれる窮状からは救ってやれようぞ」
アディケオに何と申し開きするか真剣に考えねえとヤバいんじゃねえかな、今回。上司に会うのが怖ぇわ。―――配慮はしようさ。イクタス・バーナバはアディケオとの和睦と同盟を望む。デオマイアの父として手を貸してくれような、ミラーソードよ?
「止めるか?」
「お母さんならできる可能性はある、でもこれは……」
「案ずるな、ミラーソードの両親よ。これまでに産んだ子の中で最も強いデオマイアの祖父母を害しようとは思わぬ。面目も立つようにしてやろうから、委ねて欲しい」
母も決断しかねる様子で父に訊いた。俺の顔で俺らしからぬ真摯な口調で言うものだから微妙な顔になってるぞ! 一回返せ! エファを抱く腕に込められていた力を少しばかり抜き、俺の意志で言う。
「あー、あー。俺だよ俺。母に父よ、イクタス・バーナバはアディケオと和睦と同盟したいんだそうな。使者には立つし、ティリンスを俺がアディケオにぶっ殺されない程度に返してくれるなら妥協したいんだがどう思う?」
「和睦は良かろうが同盟は成立せぬ恐れがある。この場では確約できぬ事を了承してくれるのか、イクタス・バーナバよ」
母がイクタス・バーナバに呼び掛ければ魚の目が俺を見る気配。同意し、肉体を譲る。部下にも気遣ってくれる割といい神なんじゃねえの? 狂ってはいるのだろうが。
「同意しよう。アディケオは煙に巻きたがるが、都合もあろうからな」
「ねえ、イクちゃん。うちの子も神経は相当に太いけど、離れる時に御配慮を頂けるととっても嬉しいな」
「ミラーソードを折りはしない。可愛らしいデオマイアと約束した。父の半身と逢わせると」
「僕らに孫の顔を見せてくれるならオッケーよ」
軽いな!! 父よ、俺は父の信頼だか無謀が身に染みるよ! 俺の父だと確信させられるわ!
問題は夏殺しだが、取引に応じるのかね。俺は赤毛の悪魔の手先が近くにいる間は自我を保っていなかったせいで、平和的に過ごした記憶がない。俺の中には敵意しかなく、縋り付いて来る以外の言動も碌に記憶がない。本格的に狂乱する前、パラカレで果物を創ってやった記憶がある程度か。じゃれつかれて楽しそうだった俺を冷めて眺めていた。肉体を返して貰い、言葉もなく抱かれている夏殺しを誘惑してやる。
「エピスタタを殺した後なら果物くらいは創って剥いてやろう。俺が欲しくないのか、アガシアの血統よ」
俺は既に肉体と魂を売り渡した事がある。神降ろしくらいどうと言う事はない。残っていた力を振り絞ってか夏殺しが俺の肉体に抱き付いて来る。
「愛をちょうだい。ほんの少しの愛でいいの。エファを愛して。エファに応えて」
「アステールの手から愛を受ける権利だけは約束してやろう。貴様が存在して俺に仕える限り、アステールを消滅はさせぬ」
飢え切っているのだろう。俺に注がれ、空しく散る愛の異能は弱い。同意を与え、共に口を開く。
「「イクタス・バーナバを受け入れるがいい、怨敵の末裔よ」」
「苦しめはしない」「愛してやろう」
「「選ばせてはやる」」
「俺か」「愛娘か」
「「選ぶといい」」
「エファを愛して」
俺がエピスタタ相手に敗北しなければ存在しなかっただろう魂なのにな。
そう思えば哀れではあったよ。イクタス・バーナバが弱り切った魂を貪り、半分に引き千切って吐き捨てる様をどこか遠く眺めていた。俺の理解が及ぶ光景ではなかった。俺は吐き捨てられた狂える魂を拾い上げ、公爵の部屋の封印を解いて放り込んでやった。




