109. 愛の権能
「ダラちゃんや、僕はアガシアが持つ大権能としての愛についての話をしたいんだけど君は知ってる?」
俺に囁き掛けていたダラルロートを眺めてだろうか、父がダラルロートにそんな問い掛けをした。答えるダラルロートは懐から扇を取り出したが、まだ開かず手に持っている。ミーセオの礼法で『その話は私の気分を害するぞ』と言う意思表示だ。
「私にその話をせよと仰せですか。……いえ、よろしいでしょう。
私は我が主の手で創られた三人目のダラルロートですからな。ミラー様に呑まれた生前の太守ダラルロートよりかは当然として、生前のアステール師に殺された二人目よりもなお強い。渇愛の呪縛についてお話ししようではないですか」
「ああ、やっぱり知ってるね。ダラちゃんは詳しいと思ったんだよね。ミラーに夏殺しをどう壊してやったらいいか教えてあげて?」
……なんだ、赤毛の悪魔の手先の壊し方ならば是非聞きたいが。ダラルロートが言う渇愛の呪縛とは何だろう?
「ほう……? ダラルロートは堕落によく親和しているとは思っていた」
「残念ながら暗黒騎士殿ほどの親和には達しておりませんがねえ。腐敗の邪神が与えて下さる腐敗と堕落の恩寵は私に馴染み易いものでしたよ。私の願望と嫉妬を理解し、ミラー様の腐敗と堕落の奥底に長く浸っても消えぬだけの支えを与えて下さっている」
ダラルロートが俺の傍を離れ、俺と母と鏡の剣を前にするように立つ。手にはまだ閉じられた扇がある。認識欺瞞が強く、表情はよく理解し難い。声音は平静なダラルロートに聞こえるが、欺瞞に引っ掛かっているかもしれぬと思わせる。
「ミラー様は御存知ありますまいから、この機会にお話ししようではないですか。
ミラー様が腐敗の邪神から小権能めいて授けられた異能は腐敗であり堕落です。属性転向毒を作成可能な超級変成術を支える創造の異能も相当に強力ですが、腐敗と堕落の二つこそが暗黒騎士ミラーソードの力の根源です。
ミラー様に喰らわれた弱き命は通常、何一つ残さずに消滅します。ミラー様が抱く腐敗と堕落の侵食に耐えられる命など滅多におらず、ただ溶かされて溺れるだけの存在です。生前の私、リンミの太守ダラルロートもそうでした。あれはもう、ミラー様の中に人格として留まってはいない。力の源泉へ沈められ、完全に解体された存在です。私は意識の上でこそダラルロートですが、ミラー様のお力で産み落とされた分体の一つ。分体創造の際に吹き込まれた腐敗と堕落こそが私の意志による神との接触を許して下さった。腐敗と堕落に自ら親和していなければ、分体の私もとうにミラー様の奥底からの呼び声に応えて溶けていた事でしょう」
……俺の知っていた事と知らなかった事が混ざっているな。俺の奥底で繋がる地獄から力の源泉を介して浮き上がって来て、一時は俺を支配していた母がいかに強者だったか解る話でもある。その母は興がる様子で口を挟まず耳を傾けている。
「一人目のダラルロートは二人目の事を残骸と呼んでいたな。消える前に話し掛けて来たんだ。桟敷のある河だった」
「ふ……。確かに創造当初は一人目よりも力においても意志においても劣る残骸だったかもしれませんが、私とても腐敗と堕落の奥底から這い上がる努力を致しました。結果として力と意志をより増して今もこうしてお仕えできております。全ては我が主と腐敗の邪神のお力ですとも」
ダラルロートの機嫌はそう悪くないように聞こえるのだ。しかし、その手には閉じられた扇子が握られたまま。
「ミラー様、私はね。アガシアが憎かったのですよ。
愛の権能によって一方的に使徒として召し上げ、愛し、渇愛の呪縛を刻んでくれたアガシアを。愛しながら憎んでおりました。
愛の権能は大権能です。戦いにおいては御存知のように強い護りの力を示し、アガシア健在なりし頃は生前のアステール師が最も寵愛されておりました。ええ、二人目の私では殺される程度の権能ではありましたとも。
大権能としての愛を小権能の複合権能として考えるならば、小権能は愛、善、復元、癒し、哀れみ、渇愛となります。ミラー様には違和感がございませんか?」
ダラルロートに問われ、言われた事を反芻する。大権能としての愛。小権能としての愛。妙な物が一つ。
「小権能が愛、善、復元、癒し、哀れみ、そこまではいい。渇愛だけ性質が違う。善属性ではなく狂属性の性質ではないのか?」
「ミラー様の御指摘の通り、渇愛はアガシアが愛と共に与える呪縛。負の側面です。
渇愛で正気を失いそうになる者をアガシアは美によって支えます。美を大権能として見るならば、美を構成する小権能は美、正気、豊かさ、勤め、節度から成ります。アガシアは愛と美の権能を持つ正しき善の女神ですが、愛と美の恩寵を同時に与えず愛のみの場合は狂ってしまう」
言われてみると一人目のダラルロートを喰い殺した時、俺は美と統治の異能を奪い取れたのだったかな。美はアガシア由来、統治はアディケオ由来だと思っていた。
「ダラちゃんはアガシアから愛の恩寵を吹き込まれたけど、美は貰えなくて狂ってた時期があるでしょ」
「……お父君の仰る通りですとも。アガシアの爪痕と呼ばれ、アガソスでは聖痕と看做されておりましたがね。私は美の恩寵を授けられないまま愛され、第二使徒としての義務を課せられました」
鏡の剣から父の声がした。応えたダラルロートは扇を開き、舞めいた動作で振る仕草をした。ミーセオの礼法で『話し手自身が不機嫌になる話をするが、聞いて欲しい』だったかな。俺には解るからいいが、ミーセオの貴人と言う奴はもっと素直に喋れないのかね。
「アディケオが統治の異能を吹き込む事で属性の中立化を促し、救って下さらなければあのまま狂乱しながらアガシアに仕えていた事でしょう。気紛れで愛される機会を求め、渇愛の命じるままにねえ……。アディケオの援けを受けてアガシアから美の恩寵を僅かばかり盗み出したのはその後の話ですよ。アガソスでは私がアガシアに美の恩寵を注がれて聖痕を消されたと思われていましたが、順序が違う」
生前のダラルロートは強かった。俺に従属させられながらも認識欺瞞を駆使して逆支配の機会を伺い、鏡の中の父を欺瞞占術と心術で騙して術具に俺の知らぬ機能を勝手に付与させてもいた。俺を激怒させて本性の暴露さえ招かなければ上手い事やった可能性はあったよ。手練れのアディケオの宦官にとって、当時1歳になるかならないかだった俺は操縦し易い赤子に過ぎなかっただろう。
地獄に潜みながらも俺を見守っていた名を喪った聖騎士が瞬間的な憤激の発露と言う形で手を貸してくれたのだろう、とも今なら察せる。俺自身の欲情と母の干渉のどちらが先だったのかは解らんが、ともかく俺はダラルロートに制圧されかけていたのを喰い殺して跳ね返した。アガシアの呪縛から脱した男だ、俺が強いた従属からも脱しようとするわな。ましてダラルロートは俺の弱点を知った。逆支配を試みられて当然の状況だった。認識を欺瞞されながらダラルロートにいいようにされかけたのはまだ1年と経っていない話だが、1歳の俺にとっては昔話めいて感じられる。
「ミラー様の愛を決して得られぬ夏殺しの分体めはさぞ苦しむ事でしょうな。良い気味だ。永劫にでも渇愛の痛みを味わえばいい」
ダラルロートが扇を素早く開閉し、舞うようにして懐へ仕舞った。『言いたい事を言い終えた。機嫌は悪くない』……かね。認識欺瞞をもう少し緩めてくれると確信を持ち易いのだが。有能だし忠実でもあるが、困った男だ。どうあっても本心を完全には明かしたがらない。今でも俺が弱ったり無気力化した場合、分体と本体の関係を逆転しようとしかねない。
「……もうちと素直な話し方だと解り易いのだがな。まあ、俺がすべき事は解った。
要は赤毛めに『いつかは愛される可能性があるから、気が狂ってでも俺に従え。逆らうな』と刷り込んでやればよいのだな? 正しき善を堕落させて狂った善に変えてやれば更によし、と理解したが合っているか」
「ミラー様の御理解の通りです。愛を得られぬままでは枯死致しますが、ミラー様の支配下には師がおられますからねえ」
ダラルロートが嗤う。愉しげに、意地悪く。
「存続を許すだけの僅かばかりの愛のみをアステール師を介してお与えなさいませ。夏殺しの分体はさぞよく働く事でしょうよ。正属性の異能の援けなしに渇愛の衝動に抗えるものかどうかは私がよく存じておりますとも」
「よし、採用する」
ダラルロートに無理だった事があんな餓鬼にできるとは思えん。十九代目のエピスタタでも不可能であろう。その程度には化け物なんだよ、この黒髪の男は。
「では、愛に飢えた夏殺しめが慰めの愛を得ようとするであろう生物は全て洗脳してしまうべきだな。ミラーがイクタス・バーナバに剥奪された愛の欠落であれば、夏殺しの愛の異能に対する完全耐性として作用するであろう」
「そう言う事。儀式で広範囲化した幻視でざくざく精神支配した上で術具も作って置いておこう」
「暗黒騎士殿の仰る通りです。愛を求められる先がアステール師にしかないよう追い込んでやりましょう」
悪属性に傾斜し切った会話ではある。場にいるのが俺、父、母、ダラルロートなのだから無理もないが。大君の館での会議はようやく終わりが見えた。これから俺達は夏殺しが容易には愛を調達できぬよう、臣民に限らず犬猫や細首竜に至るまで徹底的に俺の憎悪と忌避感を共有させてやる為の精神支配魔術をリンミ各所で実施する。
「飢えた魂などすぐに堕ちますとも。そして堕落させてやれば腐敗と堕落の源泉に沈めても溶け消える事はない」
ダラルロートは愉しげだった。夏殺しを堕落させてやるのが愉しくて仕方ない、と言う顔だった。広範囲で多数の群集に対する精神支配の実施は決して楽な施術ではなかったはずだが、ダラルロートはやり切った。後に待つ昏い愉しみの為にと働く姿は堕落との親和を強める過程を眺める気分だった。