108. ミラーソードの娘
「……どんな顔してるんだろうな、俺の子」
半ば呆然としてそれだけ搾り出したが、俺の中の冷静な部分は首を傾げてもいた。父はこう言った『双頭の印を授けられた魂は二つに分かれようとする。イクタス・バーナバは片方を受け取って子供を産むのさ』と。イクタス・バーナバは俺に子種を授けたのではなく、持って行った? どうやら出産は免除して貰えたようだが、喜んでいいのかどうか解らない。俺は女性でも男性でもない無性だが、父がそうしているように男親として振る舞うべきなのか?
「ミラーの子供は女の子よー。イクタス・バーナバは女神だけど、女の子しか産まないんだってさ。エムブレポの王族も殆どが女性で、産める間はほぼ毎年子供を産むくらいお盛んなお国柄なのよ。王族には特に強力な精霊徒と、精霊徒と魔術師の中間みたいな精霊導師が多いみたいね。この辺の話も夢に呼ばれてしたはずなんだけど、覚えてない?」
「……娘か……。夢を見たかどうかは全く記憶にない」
俺にとっては完全に初耳の話だ。
「ミラー様の初子がイクタス・バーナバとの御子とは……」
「……孫娘か。愛せるだろうか」
ダラルロートと母はそれぞれ何やら思案顔だ。そうか、俺にとっては初めての子で母にとっては初めての孫娘か。そう考えると俺の魂の半分を子種にして産み落とされると言う娘の為にイクタス・バーナバも聖火教が崇める神に入れてやらねばならんのか? しかし正しき悪なんだよなあ、聖火教。イクタス・バーナバの狂った中庸とは交わる属性がない。今度は狂った中庸を奉じる宗教をでっち上げないとならねえのか? いっそ次に作るのは中立にして中庸を奉じる宗教にするべきなのか。ああ、何だか楽しくなっては来たか? 俺の子だと言うのに母が愛せるかどうかを案じている原因は何だ、と考えるに至って俺は気付く。
「なあ、父よ。一つ疑問があるんだがいいか?」
「なあに、ミラー」
「けしからぬ滅びるべき手合いに対する恐怖症を俺は父から受け継いだんだよな?」
「そうよ。かーちゃんに創られた神子の肉体を持っていた頃は、僕もいつも怯えていた」
「恐怖症は狂神の祝福で、今の俺のように強大な力と抱き合わせて与えられたものだ。半分を捧げられた俺の魂とやらは恐怖症を持っているのか? 持っていないとそこいらの現住スライムのような悲惨な弱さなんじゃないのか?」
「……うーん? 僕、そこまでは考えてなかったな。でも、イクちゃんは言葉を話すくらい大喜びしてたのよ。弱い魂ならあんなにウケてくれなかったんじゃない」
疑念が確信に変わる。同時にまだ見ぬ娘への無制限な憐憫の情と昏い喜びが湧き上がって来る。
「なら、俺の娘も弱点持ちの可能性が高いんじゃないのか。しかもエムブレポは精霊徒が多いのだろう? ……俺が……その、倒れるような外見の精霊の方が多いのではなかったのか?」
ダラルロートが更に沈静化の術を俺に向けて来るので逆らわずに受ける。
俺の娘は正気でいられるのだろうか、と言う不安よりもまだ見た事がなかった俺以外の弱点持ちの誕生を心のどこかで祝う気持ちの方が強い。ああ、俺は同類が欲しかったんだな。恐怖症などと言う恐るべき弱点を背負わされて苦しむ同類が。
「そうねー。その点はちょっと心配かしら」
「まだ顔も見ぬ前から娘の身を案じるのか、我が子よ。エムブレピアンには狂神の祝福により多眼や有鱗の者が多いのではなかったか?」
「俺だって本性はスライムだから無毛だし、そもそも眼球なんてないじゃないか、母よ。眼の数や鱗の有無は瑣末な問題ではないのか?」
「……ミラーは寛容なのだな」
母との心の距離を感じさせられる会話は俺の胸が痛む。そうか、母は自身と掛け離れた姿だと愛せないかもしれないと心配していたのか。俺はてっきり、今の恐怖症持ちの俺や弱点もなしに強かったと言う母に似た強さを示せるかどうか案じているのかと思っていたよ。
「御子に対して情け深くあられる事は良いのですが……。
ミラー様、ティリンス地方に関してエムブレポとの和平をお考えでしたら、アディケオとミーセオ皇帝への事前の奏上は必須になります。なおかつ、和平を妨害する可能性が非常に高い夏殺しエピスタタを確実に排除せねばなりません」
「そうよな」
まだ見ぬ娘がどんな子であれ、ダラルロートが言う通りエムブレポとは和平した方が良いと考えている。俺の魂の半分を子種にして生まれて来る弱点持ちの娘は魔術師だろうか? それとも精霊導師とやらになるのか? 娘の命を脅かしそうな夏殺しエピスタタは絶対に殺さねばならない。エピスタタを殺す理由が一つ増えた訳だ。母が思案顔で意見を言って来る。
「アディケオと皇帝との折衝はダラルロートに任せるとしても、ある程度の前線の押し上げは必要であろうな。現在の境界線で停戦してしまうとティリンス地方は大幅に削られる。エムブレポの軍が相手ならば私が一働きしてやれようから、あまりに弱気な譲歩はしてくれるな。
そして、我々はイクタス・バーナバと我が子の魂を取引してでも得た何かを使ってエピスタタを確実に殺さねばならないのだな、神子よ?」
「そうなのよ、お母さん。
次はイクちゃんとの取引でミラーに何をして貰ったかお話ししましょうね」
「ああ。イクタス・バーナバには礼を言わねばなるまいが、一体どうやって悪魔の手先から俺を助け出してくれたのだ?」
今朝起きたら気分が良かった、としか俺には解らなかったのだ。赤毛が部屋に飛び込んで来た時、愛の異能に抵抗できたと言う事実が俺に隷属的な呪縛からの解放を教えてくれた。父は答えを教えてくれた。
「ミラーに対しての上位権限を奪取されていた問題は昨晩の取引で対抗可能になった。
イクタス・バーナバが『夏殺しを愛しているミラー』を捧げ物として連れて行ったからね。今のミラーが夏殺しを愛する事はないよ。
腐敗の邪神による名前の腐敗と同じようなものさ、魂と一緒に特定の何かへの感情を剥奪したんだ。大丈夫、夏殺しはこの世界にエピスタタとエファのたった二人しかいないんだ。他の誰も困らないし、君も他の者を愛する事はできる。夏殺しの人格を持つ分体は依然として君に対しては上位の権限を持つが、一番欲しがっていた者からの愛だけは二度と得られない」
普段は適当な事ばかり言う父で口調もごく軽いのだが、今日この時ばかりは酷薄げな声音を聞いた。
「どれほど愛を捧げようとも、愛されなければ愛の異能は無力だ。小権能ほど強かろうが、神自身に大権能を持って来られようがもはや通用はしない。ミラー自身は愛する事も愛される事もあるし、娘の心配をするくらいには子煩悩そうだけれど、夏殺しからの愛にだけは決して応えない」
父の説明を受けたダラルロートが呟くような声で言うのが俺には聞こえた。認識欺瞞を強く纏い、幻術で音声の響く範囲を制限した俺以外には聞かせる気のなさそうな声だ。
「アガシアに召し上げられた時、私にもその手が打てていれば……とは思いますねえ。我が主よ、私はミラー様が羨ましいですよ」
「そうか」
ダラルロートはアガシアの第二使徒だったが、相当にアガシアを嫌ってもいた。ダラルロートがアガシアを裏切ってアディケオに仕えた理由を聞き出そうとした事はあるが、あの時の答え『リンミの太守としてアガソスの滅亡を悟ったから』は建前の色合いが濃いものだった。ダラルロートが本心を語った事はない。こうして囁くように告げて来たのが初めてだ。
存在する為に愛が必要なのだと聞いたアガシアの血族に対しては父が採った手が有効なのだなと、ダラルロートの態度が俺に理解させてくれた。