106. 神子の取引
「あまりに強い暗示を与えますと暴動などを起こしかねません。市民に与える幻視の制御は私にお任せ下さい」
「別に構わぬのではないか」
「母にとってはそうかもしれんが、不必要に忠実な市民を減らすのは俺の本意ではないのだ」
「そうであったな。よい、異議を唱えたい訳ではないのだ」
「お母さんも少しだけ丸くなってくれて助かるよね、ミラー」
俺達はリンミで実施するエピスタタとその手先に対する害意を市民に刷り込む集団催眠の方向性を話し合ってまとめ、むしろ暴動を起こしたそうな母にも理解は得た。もし母が音頭を取ったら非常に不味い事になったのではなかろうか。「32歳の男と16歳の少年は全員殺せ」的な号令を掛けかねん。
欺瞞に長けたダラルロートにとっても広域の集団を統制する規模の精神操作は容易い事ではないようだが、市民生活に破綻を招かないよう慎重に考案された幻視を見せてやる方向でリンミ市内の数箇所で数度の儀式を行う手筈だ。重要な役職に就いている者にはダラルロートが個別に意識操作を施す予定も組まれている。
「毒で操作してやれれば楽だったのだろうが、今の俺にはさほど強い悪属性の毒が作れないらしいのでな。エピスタタにはとんだ弱体化を強いられた」
「殺せば良い。腐敗から遠ざかったが故の弱さだ、我が子よ」
「腐敗の邪神がもたらす腐敗は複合した権能ですが、悪を含んでおりますからねえ」
「そうね。実際、僕は毒がそれほど上手くないし。栓を作る方が得意ね」
複合した権能、とダラルロートが口にしたのは神々が持つ権能の側面についてだ。
俺が奉じる腐敗の邪神の第一の権能は腐敗で、腐敗の他にも堕落と増殖と創造の権能を有している。俺が祝福を受けたのは腐敗の邪神からだ。神格としての属性は狂った悪。腐敗を大権能として見る場合、腐敗、悪、毒、病、衰亡などの小権能に分割して見る事もできる。堕落を大権能として見るなら、堕落、狂気、貪り、飢え、嫉み、怒り、憎しみ、楽しみ、溺れと言った小権能から成っている。母とダラルロートは腐敗の邪神がもたらす腐敗と堕落の扱いによく親しんでいるが、小権能の全てを引き出せる訳ではなさそうだ。堕落ならば母は憎しみと飢え、ダラルロートは嫉みに親和していそうだ。俺はどうだろう、堕落の扱いはあまり上手くなかったが今なら憎しみには親しいのではないか。狂った中庸である父の方が資質自体はあると思う。
複合した権能を持つ神はそうでない神よりも強いし、世には複合権能のようなものばかり五つ持っていると宣言している神すらいる。小権能まで考えたらどれほど強大なのかは想像が及ばない。
「俺としても悪には戻りたいと思うがね。今はそれほど気分が悪くない。まさか中庸に慣れちまったのか?」
自分で口にしておいて何だが、冗談としては出来がよくない。
「いいんじゃないの、中庸なら僕と同じよ。善でも悪でもない。正しき善を二人も保管しちゃってるミラーにはどちらにも触れられる中庸は悪い選択じゃないはずよ」
「父はいいかもしれんが、母とダラルロートが揃って俺を蔑むような目で見るのは心地が悪いのだ」
「そのような目付きを私がミラー様に致しましたか? ……いけませんねえ、欺瞞の帯が緩んでいたやもしれません」
「悪ではない者を同志として受け入れるのは難しいのだ、我が子よ」
ほらな、そう言うとは思ったよ! 俺はアステールと赤毛の手先との距離感なんざ遠くていいんだよ! 母とダラルロートとの距離感の方が重要ではないか。
「ねえ、お母さん。僕とミラーでも中庸じゃ嫌?」
「そなたと我が子を例外として遇する意思がない訳ではない、神子よ。愛しているとも」
「そう、なら嬉しい」
鏡の中の父と肉体を持った母が何やら愛の言葉を交わしている。アガシアの餓鬼が求めて来る愛は不愉快だが、父と母が互いと俺に向ける愛は快い。この差は何なのだろうな。俺は母に強く支配されていた時期があるが、あの時はむしろ快かったと言うのにな。生来の属性の違いから来ているのだろうか?
「真面目な話をするとね、ミラー」
「父が真面目な話とは珍しいな。何だ?」
「夏殺しを消滅させると君も僕も他のみんなも自我を保てないだろう。幽閉するにしても消滅はさせないように閉じ込め続けないとならないよ」
……なんだと?
「エピスタタの話は今、冷静にできる?」
「殺してやりたいと言う話ならば激昂も狂乱もせずにできると思う」
「じゃあ攻略の為だと考えてよくお聞き、ミラー。
エピスタタが殺した君を蘇生させる際に採った手は非常に悪辣だった。
エピスタタはね、愛の異能の割譲によって夏殺しの人格と能力を持たせた分体を本体とする同化吸収に契約によって君を同意させたの。本体と分体の関係を逆転させられた、と言ったら理解できる?」
「苛立つが、できる」
できる、できるが……。
「父は解っていてエピスタタとの契約を受けるように勧めたのか? あの時、母の意志は否定的で、ダラルロートの意志は中立的だった。前向きだったのは父の意志だけだ」
「……私には覚えのない事だが……我が子が強制された契約についての見解であれば、エピスタタが何をするにせよ碌な事ではないと考えていたのではないか」
「私にも記憶はございませんが、我が主の意思を優先したのはありそうな事です」
「そして決断したのは君だった、ミラー」
鏡の剣が緩やかな念動力を操り、鞘から抜き身で抜け出して宙に舞う。
母と俺の間で静止し、鏡面加工した鉄の刀身は俺の姿を映し出した。
「蘇生後のミラーは僕、お母さん、ダラちゃん、アステールの上に立ってはいた。
夏殺しは違う。権限的には君の上に立ってしまっていた」
「過去形で仰るのですね、鏡殿」
ダラルロートからの指摘に俺は頷く。今日、妙に調子がいいのはやはり父の仕業だ。俺としては助かったがね。
「うん、上位権限を奪取されていた問題は昨晩の取引で対抗可能になった」
「何処の神と取引したのだ、神子よ? 差し出したものによっては直接礼を言う名目で奪い返さねばならんぞ」
母が剣呑な声を出して鏡の剣を見る。父は至極軽い語調で言った。
「双頭の狂魚神イクタス・バーナバ。夏殺しの宿敵その人、僕のお友達のイクちゃんだよ」