第2話 雪如花落
婚姻が決まってからというもの、月日は瞬く間に流れていった。やがて都は、身を切るような寒さに包まれる厳冬の季節を迎えていた。
葉家の奥庭では、寒椿が凍てつく風の中でも鮮やかな紅を咲かせている。風が吹くたび、枝先から一枚、また一枚と花びらがこぼれ落ち、白く積もった雪の上へ静かに舞い降りていた。
天子より下された、賜婚の詔。
その命がもたらされて以来、葉家は慌ただしさに包まれていた。
相手は、北境を守る定遠将軍・陸雲霄。国の守りを担う将軍との婚姻である以上、葉家の体面を損なうような失態は決して許されない。
どれほど不満を腹の底で煮えたぎらせようとも、正室の王芙蓉はそれを表に出すわけにはいかなかった。歯ぎしりする思いを押し殺しながら、表向きは抜かりなく、絢爛豪華な嫁入りの支度を進めるほかなかったのである。
***
そんな屋敷の喧騒から離れ、明珠は都の郊外にある墓所を訪れていた。母が眠る場所だった。
吐き出した白い息が、凍てつく空気の中へ淡く消えていく。
「――母様……」
明珠は墓前にしゃがみ込み、墓標にうっすらと積もった雪を手で払った。
「私、北境に嫁ぐことになったわ。これからは、もう簡単にはここへ来られなくなるわね」
雪を払い終えると、持ってきた干し杏をそっと供えた。生前、母が好んで食べていたものだった。
それから香を焚き、静かに手を合わせる。最後に、携えてきた冥銭に火を灯した。黄金色の炎が黄紙を舐め、やがて儚い灰へと変えていく。
その揺らめく炎を見つめながら、明珠は小さく笑った。
「でも、大丈夫よ。私、北境へ行っても、ちゃんとやっていけるから」
そう言ってから、少しだけ考える。
「……たぶんね」
自分で言っておきながら、明珠は苦笑した。
北境がどんな場所なのか、詳しくは知らない。都よりはるかに寒く、冬になれば雪に閉ざされる土地だということくらいだ。そこで暮らす人々のことも、これから夫になる男のことも、何一つ知らなかった。
そんな男の妻として、これから先の人生を生きていく。考えてみれば、随分と途方もない話である。
明珠はしばらく黙って墓標を見つめた。
――妻とは、いったい何なのだろう。
幼い頃から見上げてきた母は、決して幸せそうではなかった。
母は父の寵愛を得られず、正室である王芙蓉からも疎まれていた。父は母子を本邸から遠ざけ、葉家の敷地の片隅にある小さな屋敷で暮らさせた。母がどれほど苦労していても、父や本家から十分な助けが差し伸べられることはなかった。
母と明珠は、葉家の中にありながら、まるでそこに存在しないかのように扱われていたのだ。
身ごもり、子を産んだというのに、母は最後まで父に顧みられることがなかった。母の生涯はいったい何だったのだろう。
もし自分が生まれてこなければ。自分という重荷さえなければ、母はあんな苦労をせずに済んだのではないか。
明珠はゆっくりと首を振った。
――だからこそ、誰にも頼らず、自分の足で立たなければならぬのだ。
夫に愛されなかったとしても。それでも、自分の足で立っていられるように。
そのときだった。
「――俺も、手を合わせさせてくれ」
背後から声がした。
振り返ると、馬を引いた方凌が立っていた。彼は葉家の馬丁であり、人の多い葉家の中で、幼い頃から明珠と苦楽を共にしてきた。今日は侍女の碧珠とともに、彼女の外出に付き添っていたのだった。
「方凌……」
「勝手についてきて悪かったな」
「別にいいわ。あなたが母様に手を合わせてくれるなら、きっと喜ぶもの」
明珠は手元に残っていた冥銭を方凌に渡した。方凌はそれを受け取り、燃え盛る炎の中へとくべる。
やがて静かに手を合わせ、故人へ祈りを捧げた。
しばらくして目を開けると、方凌は意を決したように明珠へ視線を向けた。
「俺も、北境へ行く」
「……え?」
予想もしなかった言葉に、明珠は驚いて目を見張り、幼馴染の顔をじっと見つめた。
「本気で言っているの……?」
「ああ」
「北境はここよりも遥かに過酷な土地よ。あなたまで、わざわざ私に付き合って来る必要はないわ……」
方凌は困ったように肩をすくめた。けれど、その目には決して揺らぐことのない覚悟が宿っていた。
「心配するな。もとより俺の居場所は都にはないし、身寄りもない。それに、北境には葉家が管理する大きな軍馬場もあると聞いている。婚礼のあと、軍馬の世話をする者も何人か北境へ送るそうだ。俺もその一人に加えてもらうつもりだ」
「……そうなの?」
明珠は疑わしそうに方凌を見つめた。
「本当だって」
方凌は苦笑した。
「俺の夢が『天下随一の馬丁頭』になることだって、知っているだろ? 北境には腕利きの馬丁がたくさんいると聞いたんでね。あちらで腕を磨いてくるのさ」
「ふふ。確かにあなた、ずっと言っていたものね。馬丁頭になるんだって」
「夢は大きいほうがいいだろ」
何かあれば馬を連れてきてくれた。落馬して怪我をしたときには、誰よりも先に駆けつけてくれた。母を亡くしてからも、葉家の中で肩身の狭い思いをする明珠に、変わらず接してくれた。
だからこそ――。
「あなたが一緒に行ってくれるなら、私にとってこれ以上心強いことはないわ」
何気なく口にした言葉に、方凌は一瞬だけ黙った。けれど、すぐにいつもの調子で答えた。
「任せろ。俺は馬のことなら役に立つ」
「ええ。そこだけは昔から頼りにしてるわ」
「そこだけ、ってなんだよ」
方凌が苦笑する。
明珠も笑った。ほんの少しだけ、胸の奥にあった不安が軽くなった。
「都を発つのはいつなんだ?」
「半月もしないうちに出立よ。これ以上遅くなると、北へ向かう道の峠に雪が積もって、通行が難しくなるからね」
「なるほどな」
方凌は深く頷き、燃え残る冥銭を炎の中へと押し入れた。
「準備のほうは、もう進んでいるのか?」
「葉家としての支度はね」
明珠は苦笑した。
「奥様は葉家の面目があるから、文句を言いながらも嫁入り道具を揃えてくれているわ。でも、私自身の細々としたものは自分で用意しなくちゃいけないから大変なのよ」
そう言ってから、明珠はふと視線を横へ向けた。
そこには、墓参りの間も静かに待っていた愛馬の姿があった。明珠は近づき、その首筋をそっと撫でる。
「……でも、この子は連れていけないわね」
「そうだな」
方凌も馬に目を向けた。
「都育ちの馬だ。北境の冬は厳しすぎる」
「ええ」
明珠は栗毛の首筋に頬を寄せた。
「この子には、ここで元気に暮らしてもらわなくちゃ……」
それから、少し離れたところに立っていた碧珠へ顔を向ける。
「碧珠、この子のことをお願いね。私がいなくなっても、どうか健やかに暮らせるよう、しっかり世話をしてちょうだい」
返事がない。
「碧珠?」
振り返ると、碧珠は両手で口元を覆っていた。とめどなく溢れる大粒の涙が、頬を伝ってぽろぽろと落ちている。
「ううっ……うっ……。お嬢様、愛馬を残していくならまだしも、わたくしまでこの都に置いていくおつもりですか……っ? そんなの、あまりにも冷とうございますわっ!」
もはや堪えきれなくなったのか、碧珠は明珠のもとへ駆け寄り、その裾にすがりついた。わんわんと声を上げて泣きじゃくる。
「わたくしも、お嬢様と一緒に北境へ参りますわっ! 亡くなられた奥様から、最期に『明珠を頼む』と、この両手でしっかりと託されましたもの……! あの約束を違えることなど、わたくしにはできませんっ!」
碧珠の言葉に、明珠の胸にも熱いものがこみ上げた。
明珠は冷たい風にさらされた碧珠を、しっかりと抱き寄せる。
「……ありがとう、碧珠」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
「あなたがいてくれたら、私もどんな果てしない荒野でも生きていける気がするわ」
明珠が笑う。碧珠も涙を拭いながら笑った。
方凌は少し離れたところから、そんな二人を眺めていた。
やがて、空から再び雪が舞い始めた。
こうして、明珠は母の眠る都を後にし、雪が花のごとく舞い落ちる日に北境へと旅立つことになった。




