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第1話 暗雲賜婚

 都の夜明け。

 遠くで鐘の音が幽(かす)かに響く頃、東の空がほのかに白み始めていた。


 あれから十年近い歳月が流れ、幼かった葉明珠(ようめいじゅ)も、今ではすっかり大人びた娘に成長していた。


 秋風が吹き抜け、高く広がる天を白雲がゆっくりと流れていく。庭先の梧桐(あおぎり)からは、黄金色に色づいた葉が一枚、また一枚と静かに舞い落ちた。


 高官や名門貴族の邸宅が立ち並ぶ都の一角。葉家の奥深くにある馬屋(うまや)には、夜気の冷たさと干し草の乾いた匂い、そして馬たちの低い息遣いが満ちていた。


 明珠は、栗毛の愛馬のたてがみを丁寧に梳いていた。手にした馬櫛(うまぐし)を毛並みに沿って滑らせるたび、艶やかな栗色の毛が朝の光を受けて織り上げた蜀錦(しょっきん)のように美しく輝く。


「今日もいい毛並みだわ」


 満足そうに微笑むと、馬が小さく鼻を鳴らした。


「ふふ。褒められて嬉しいの?」


 明珠はもう一度、その首筋を優しく撫でた。


 十四の春、母は病によってこの世を去った。それ以来、明珠の置かれた境遇はさらに厳しいものとなった。葉家の体面を保つため、読み書きや礼儀作法など、最低限の教育こそ受けることはできたものの、与えられる衣服は古着ばかり。身の回りの世話をする侍女も、嫡女(ちゃくじょ)である雪蘭(せつらん)に比べれば、わずかな人数しかつけられていなかった。


 今も相変わらず、葉家の正室・王芙蓉(おうふよう)から何かと難癖(なんくせ)をつけられる日々が続いている。もっとも、明珠にとっては、もはや慣れたものだった。


 幼い頃、明珠は「何もできずに耐えるだけの自分にはならない」と誓った。けれど、成長するにつれ、何を言い返したところで状況が変わるわけではないと悟った。今では王芙蓉に何を言われても、「はい、はい」と適当に受け流している。言い争うよりも、その場をやり過ごす方がよほど楽だった。


 人目を避けて早朝に馬の世話を済ませ、そのまま郊外の原野まで駆け抜ける。それが明珠の日課だった。


 葉家の中で明珠に与えられた居場所は、決して広くない。母と暮らしていた屋敷の片隅に、今も一人で暮らしている。だが、馬の背の上だけは違った。そこにいる間だけは、自分の行きたい場所へ、自らの意志で赴くことができる。


 明珠は手早く鞍を整え、馬具に不備がないか確かめた。動きやすい胡服(こふく)に身を包み、長い栗色の髪を高く一つに結い上げる。


「よし」


 小さく呟き、軽やかに馬の背へと跨った。


「今日は、どこまで行こうか」


 返事の代わりに、馬が低く鼻を鳴らす。


「走り出してから決めるとしようか」


 明珠が馬の脇腹を軽く蹴ると、愛馬は軽やかに走り出した。裏門の兵に軽く手を挙げて挨拶をし、そのまま朝もやのなかの都大路(みやこおおじ)へと飛び出していく。


 夜明け前の都大路は、日中の喧騒(けんそう)が嘘のように静まり返っていた。商人たちがまだ店を開けるには早く、道を行く人影もまばらである。


「朝はいいわね。人が少なくて、走りやすいもの」


 明珠が馬を軽やかに駆けさせながら呟いた、その時だった。前方から、馬の激しいいななきと、緊迫(きんぱく)した怒鳴り声が響いてきた。


「しっかり押さえろ!」

「誰か、早く手を貸してくれ!」


 道の脇に、贅(ぜい)を凝らした一輛(いちりょう)の立派な馬車が停まっていた。数人の従者たちが慌てふためいて取り囲む中、二頭立ての馬車を牽(ひ)く一頭が、激しく首を振って暴れている。車体が大きく揺れ、今にも横転しかねない勢いだった。


「……いったい、何をしているのかしら」


 明珠は眉をひそめ、手綱を引いて馬を止めた。


 御者台(ぎょしゃだい)では、若い男が青ざめながら必死に手綱(たづな)を引き絞っている。だが、力任せに引けば引くほど馬は興奮し、白目を剥(む)いて首を振るばかりだった。


「手綱を引きすぎね……」


 明珠は呟くと、ひらりと愛馬から降り、御者に声をかけた。


「もう少し手綱を緩めて!」

「そんなことをしたら、もっと暴れてしまいます!」


 御者が悲鳴のような声を上げる。


「暴れているのには理由があるのよ。まずは、その原因を取り除かなくちゃ」


 明珠は馬の様子を観察した。暴れている馬は、しきりに道の脇へと視線を向けている。その先をたどると、荷車の陰に一匹の野良猫が小さくうずくまっていた。


「なるほどね」


 明珠は小さく息をついた。


 馬が怯えているのは、あの猫だ。まずは視界から遠ざけなければならない。明珠は馬を驚かせないよう、ゆっくりと横へ回り込み、猫の姿が見えなくなる位置に立った。


「もう大丈夫よ」


 御者に向かって穏やかに告げる。


「手綱を少し緩めて。そう、急に引っ張っては駄目よ」


 馬はなおも首を振り、荒い息を吐いている。明珠は焦って近づこうとはしなかった。怯えきった馬に無理に触れれば、かえって危険を招く。まずは落ち着くのを待つことが肝心だった。


「そう。いい子だわ」


 やがて、馬の荒い息が少しずつ静まっていく。


 明珠は様子を確かめながら、慎重に距離を詰めた。馬の肩にそっと手を置き、首筋をゆっくりと撫で下ろす。その手つきには迷いがない。馬の呼吸が落ち着き、耳の向きが和らいだのを確かめてから、さらに優しく声をかけた。


「もう怖くないわ。大丈夫」


 馬が大きく息を吐き出した。

 先ほどまでの激しい抵抗が嘘のように、馬は静かに首を垂れた。


 明珠は柔らかく微笑んだ。


「もう大丈夫だわ」


 御者は目を丸くして言葉を失っていたが、やがて我に返ると、明珠に向かって深々と頭を下げた。


「ありがとうございます! 本当に助かりました!」

「気にしないで。誰も怪我をせずに済んだなら、それで十分だわ」


 明珠は軽く微笑み、礼を受け流した。これ以上関わるつもりはない。そう思い、愛馬の元へ戻ろうと踵(きびす)を返した。


 だが、その瞬間。


「――待ちなさい」


 背後から、低く重みのある声が降ってきた。明珠の足がピタリと止まる。


 振り返ると、そこには二人の男が立っていた。


 一人は、いかにも歴戦の猛者といった風貌(ふうぼう)の武人であった。長身で肩幅が広く、簡素な武官服をまとっているだけなのに、並々ならぬ威圧感を放っており、周囲に纏(まと)う空気は氷のようだった。


 もう一人は対照的に、麗しく華やかな文官の衣をまとった男だった。一目で身分の高さが知れる。従者たちの態度やその立ち居振る舞いは、明らかに並の貴人(きじん)ではないことを物語っていた。


 明珠は一瞬で悟った。

 ――面倒な人たちに関わってしまった。


 彼女はすぐさま姿勢を正し、形式的な礼をとった。


「行きずりのことですので、どうかお気になさらずに」

「いやはや、大変助かった、馬がどうにも暴れて手がつけられなかったのだ。ぜひ、お礼させていただきたーーあっ」


 文官風の男が言葉を紡いでいる間に、明珠はすでに踵を返し、愛馬の背に飛び乗っていた。貴人に関われば、碌(ろく)な面倒に巻き込まれない。それは葉家の日常で身をもって学んだ処世術だった。


「お待ちなさい!」


 ふたたび声が飛ぶ。


 だが、明珠は振り返りもしない。


「碧珠(へきじゅ)に小言を言われる前に、早く戻らなくちゃ」


 誰に聞かせるでもなく呟くと、愛馬の腹を軽く蹴った。馬が鋭く地を蹴り、走り出す。文官風の男が思わず手を伸ばしたが、すでに手遅れだった。


 朝風に栗色の髪をなびかせ、娘の姿は瞬く間に朝靄(あさつゆ)の向こうへと消えていった。


 取り残された男たちは、呆然(ぼうぜん)とその背中を見送るしかなかった。


「……礼くらいはするつもりだったのだがね」


 文官が傍(かたわ)らの武人に視線を投げる。


「完全に逃げられたな」

「…………」

「おい、聞いているのかお前」

「……何か?」

「何か、ではないだろう。お前、あの娘ばかり見ていたじゃないか」

「見ていない」

「いや、見ただろう」

「……あの馬を見ていた」

「馬だと?」


 文官風の男は、遠ざかっていく蹄の音に耳を澄ませてから、改めて相棒の顔を見た。


「お前、馬など少しも見ていなかったはずだが」


 武人は答えなかった。

 ただ、朝靄の彼方へと消えていった娘の姿を、静かに見つめ続けていた。



 ***



「おや、もうお戻りですかい」

「ええ、今日はちょっとね」


 裏門の守衛に声を掛けられ、明珠は馬上から返事をした。早朝の騒動ですっかり出鼻を挫かれた明珠は、そのまま早々に馬屋へと引き返してきたのだ。


 誰もいない静まり返った厩で、一人黙々と乗馬後の後片付けに勤しんでいたその時――庭の敷石を慌ただしく打ち鳴らす足音が聞こえてきた。


「――大変でございます、お嬢様!」


 青ざめた顔をした侍女の碧珠(へきじゅ)が、息を切らせて馬屋へと飛び込んできた。


「どうしたの、そんなに慌てて」


 明珠は驚いて刷毛を止め、額に滲んだ汗を袖口でそっと拭った。


「皇宮からの使者が……内侍省(ないししょう)の御使いが来られたのです! 急いでお召し替えを!」


 そうして明珠は、有無を言わせぬ勢いの碧珠に手を引かれ、ほとんど引きずられるようにして湯殿(ゆどの)へと連れていかれた。


「ねえ、いったい何なの? 何で急に皇宮(こうぐう)から使者がくるのよ」

「わたくしめにもわかりませんわ! 早く身を清めてくださいませ!」


 碧珠はそう答えると、明珠の汚れた胡服(こふく)を手早く脱がせ、すでに湯気の立つ湯船へと促した。


「身を清め終わったらお声がけくださいませ! すぐにお召し物を整えますから! ああ、のんびりなさってはなりませんよ。奥様からの厳命なのですからね!」

「ちょっと、待って――」

「早く! わかりましたか、お嬢様! 結局のところ、わたくしが奥様に叱られるのですからねっ。早く身を清めてくださいまし!」


 扉の向こうでは、碧珠や他の侍女たちがいつになく慌ただしく走り回っている。その気配が、湯殿の中にまで伝わってきた。


 ――仕方がない。これほどの騒ぎなのだから、ただならぬ事態であることは確かだ。ここは黙って従っておくほかないか。


 明珠は観念して手早く身を清めると、「終わったわよ」と声をかけた。


 待っていましたとばかりに碧珠が湯殿へ入ってきた。明珠の濡れた肌から水滴を拭い、絢爛豪華(けんらんごうか)な礼服を手に取ると、手際よく彼女に着せていく。


 普段は装飾品や華美な化粧などに見向きもしない明珠だが、碧珠はここぞとばかりに化粧を施し、髪を整え、次々と飾りを添えていった。すべてを終えた頃には、いつもとは見違える姿になっていた。


 その出来栄えに、碧珠は満足げに頷き、得意満面(とくいまんめん)の笑みを浮かべた。


 理由も告げられないまま正堂へと連れてこられた明珠は、そこでようやく、何が起きているのかを知ることになる。


 正堂には、葉家の当主である父と、正室の王芙蓉(おうふよう)、そして嫡女(ちゃくじょ)の雪蘭(せつらん)が揃っていた。普段なら明珠の姿を見るなり侮蔑(ぶべつ)の目を向ける家族が、今はそれどころではないといった緊張感を漂わせている。只事ではなさそうだった。


 明珠の姿を認めた王芙蓉が、引きつった面持ちで鋭く言った。


「早くひざまずきなさい!」


 王芙蓉がちらりと視線を向けた先には、色鮮やかな内官(ないかん)の衣をまとった男が、冷ややかな微笑を浮かべて静かに立っていた。あの者が皇宮からの使いというわけか。


 明珠は周囲に倣(なら)い、冷たい床にそっと膝をついた。


 内官は一同が揃ったことを確かめると、手にしていた黄綾(きあや)の巻軸(かんじく)を厳(おご)かに広げ、朗々と声を響かせた。


「――聖旨(せいし)を承る。葉尚書の娘、定遠(ていえん)将軍・陸雲霄(りくうんしょう)の正室として賜婚(しこん)せしめる。速やかに婚礼の儀を整えよ」


 重々しい声が、正堂の隅々にまで響き渡った。


 内官は読み終えた聖旨を父に手渡した。父は両手で恭しく受け取りながらも、その顔からは血の気が引き、隠しきれない驚愕の色が浮かんでいた。それは王芙蓉や雪蘭も同じだった。一族の誰もが予想だにしなかった突然の勅命(ちょくめい)に、全員が息を呑んでいた。


 ――陸雲霄(りくうんしょう)……?


 明珠は微(かす)かに記憶をたどった。


 確か、遠く北方の国境を一身に守り、数々の修羅場をくぐり抜けてきたという猛将の名だ。政治の世界に疎い明珠でさえ、その名は耳にしたことがある。それほどまでに名高く、そしてどこか不穏な噂をまとった男の名前だった。


 やがて内官を恭しく見送り、使者が去ったことを確認した途端、葉家の正堂は騒然となった。真っ先に声を荒らげたのは、やはり王芙蓉だった。彼女は青ざめた顔のまま父に詰め寄る。


「いったいどういうことですか! なぜ急に陸雲霄との縁談が決まったのです!? 私は一言も聞いておりませぬ!」

「わ、私も本当に知らんのだ……本当だ、寝耳に水だ」


 父は冷や汗を流しながら、慌てて弁明を始めた。しかし王芙蓉の動揺はおさまらない。


「陸家は世家とはいえ、十五年前のあの件があまりにも不吉ですわ。おまけに、陸雲霄は北境詰めの身。あんな辺境、都から遠く離れていて過酷極まりない……! 娘をあんな所に嫁がせるなど、到底認められませぬ!」

「だが、しかし……これは聖旨なのだ。何人たりとも、天子の御心に逆らうことなどできん……!」


 父と王芙蓉が気まずそうに押し黙った、その直後だった。


 冷ややかな沈黙を破るように、それまで黙って事態を見守っていた雪蘭が口を開いた。


「お母様、何をそんなに案じているのです? ちょうどいいではありませんか」


 雪蘭はすっくと立ち上がり、明珠を見据えた。


「あんな都から遠い地になど、わたくし行きませんわ。『葉家の娘』というお達しならば、側室腹の姉がいるではありませんこと?」


 父と王芙蓉は、娘の言葉にハッとしたように顔を見合わせた。そして、二人そろって明珠の方を向いた。


「――そうだわ。雪蘭の言う通りよ。私たちには、この子がいるではありませんか」

「明珠、これは勅命だ。勅命には逆らえぬ。そして、お前も年頃の身。嫁ぐ頃合いだ。第一、側室腹の身でありながら、名門世家(せいか)の正室として迎えられる機会など二度とない……。これは葉家にとっても、お前自身にとっても悪い話ではない。明珠、私の言いたいことがわかるな?」


 ――ああ。

 そういうことなのだ。


 雪蘭を北境へ送るわけにはいかない。

 ならば、自分でいい。


 明珠は込み上げる感情を呑み込んだ。やがて静かに顔を上げると、恭順(きょうじゅん)の意を示すように深く頭を垂れた。


 ――こうして、明珠の一生に一度の婚姻の相手が決まったのである。


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