序章。
真夜中のルナジェント王国__第2貴族住宅街、後曇り、その日、ある貴族の馬車が一台、王都の外れに位置するある貴族の屋敷へと向かっていた。
御者は怯えた様子で手綱を握り、馬車の中にはたった1人の令嬢が足を組んで座っていた。
向かわれる先は『グレイモア家』。表向きは由緒正しき貴族だが、裏では人身売買に手を染めているとの噂が庶民の間に広まっていた。孤児院の子供たちを『養子』と称して攫い、外国の貴族に売り渡す。その証拠を掴んだのは、他でもない彼女本人だった。
扇子をパチンと閉じ、窓の外に見えてきた屋敷を睨みつける。
「__ふん、趣味の悪い屋敷ですこと。」
馬車が正門前に止まる。彼女は1人で降り立ち、門前左右に立つ門番2人の前を悠然と歩いた。門番が警戒しながら槍を交差させて行く手を阻む。
「お止まり下さい。此処から先はグレイモア家のお屋敷、主の許可無しでの立ち入りは――」
扇子を門番の顎にぴたりと当て、氷の様な目で見上げる。
「許可?この虫けら共が、貴方達はヴィクトリアの名も知らないのかしら。それとも、貴方達の飼い主が孤児院の子供達にしてきたこと、ここで大声で叫んでほしいと?」
門番の顔が青ざめる。令嬢はニヤリと微笑みながら一歩も引かず、寧ろ距離を詰めた。
「道を空けなさい。さもなければ、貴方達の主人より恐ろしいものが来ますわよ。」
青ざめた2人は互いの顔を見合わせ、明らかに動揺していた。額にじわりと汗が浮かぶ。
「ヴィ、ヴィクトリア家……!?し、少々お待ちを――」
門番の1人が屋敷の中へ駆け込んでいった。残されたもう1人の門番は槍を持つ手が震え、目の前の令嬢から放たれる威圧感に呑まれかけていた。
数分もしないうちに、屋敷の扉が勢いよく開き、恰幅の良い中年の男が姿を現した。口髭を蓄え、小さな宝石が埋め込まれた金の指輪を幾つもはめた太い指に、ワインのシミがついた上等なシャツ。彼こそがグレイモア家当主、ゴードン・グレイモアだった。
「おお、これはこれは!ヴィクトリア家のルミナお嬢様ではありませんか!この様な時間に当家にお越しに来て下さるとは。」
揉み手をしながら近づいて来る。その目は笑っているが、奥の方で彼女、ルミナを値踏みするような光を帯びていた。
「いやはや本日はどのようなご用件で?事前にご連絡を頂ければ、盛大にお迎えしましたものを。」
扇子をゆっくり開き、口元を隠しながらゴードンを見据える。エメラルドグリーンの瞳が冷たく光った。
「あら、お迎え?囚われた子供達の悲鳴で大騒ぎだったでしょうけれど。」
ゴードンの笑顔が一瞬固まった。しかし、すぐに薄ら笑いを貼り直す。
「は、はは……何の事やら。うちは慈善事業にも力を入れておりましてね、身寄りの無い子供達を引き取って――」
扇子をパチンと閉じ、ゴードンの言葉を遮った。
「へぇ、引き取る?まあ素敵。では地下で鎖に繋がれた『子供達』を見せて下さりませんこと?」
顔から笑みが消え、目が鋭く細まった。だが次の瞬間、わざとらしい高笑いを上げる。
「はっはっは!お嬢様、根も葉もない噂をどこで拾ってきたのやら。うちは名門グレイモア家ですよ? そんな下品な――」
一歩前に出て、ゴードンの言葉を遮る。その声は低く、静かだった。
「では伺いますわ。南区の孤児院から消えた子供達、合計17人。うち5人はまだ3つにもならない幼子。次に、東港の闇競売で出品された『商品名簿』、あそこにグレイモア家の紋章入りの封蝋がありましたわね。」
扇子をゴードンの胸元に突きつける。
「まだあるわよ?隣国の犯罪組織への薬物横流し。ルートの中継地点がこの屋敷の地下。それから、子供達に投与していた新種の薬物。あれ、まだ認可されていない劇物ですわよね?」
「っ!!」
「さて、どう致しますこと?私ならこのまま自首を勧めさせますわ、まあでも、貴方にそんな考えがあればのお話ですがね。」
顔が真っ赤になり、首筋に血管が浮き上がる。門番達が槍を構え直した。
「こ、この小娘が……!誰に向かって口をきいている!」
微動だにせず、むしろ笑みすら浮かべて。
「貴方に、ですわ。ゴードン・グレイモア。いえ、正確には……」
エメラルドグリーンの瞳が氷のように冷たく輝いた。
「子供たちの身体を切り刻んで笑っていた、あの外道に向かって。ですが。」
瞬間、ゴードンは懐から小さな笛を取り出し、一息吹いた。甲高い音が屋敷に響き渡る。
「こ、この小娘を捕らえろォ!!」
屋敷の扉という扉から、武装した男達が飛び出してきた。革鎧に身を包み、剣、斧、弓――その数、およそ20人以上。訓練された傭兵だった。あっという間にルミナを取り囲み、槍の穂先が四方から突きつけられる。
ゴードンの顔には余裕の笑みが戻っていた。
「へへ……ヴィクトリア家のお嬢様か。こりゃあ好都合。上級貴族の令嬢となら人質としちゃ最高だ。身代金をたんまり搾り取ってやるよ。」
太い指でルミナの顎を掴み、顔を覗き込み。
「しかし上玉じゃねえか。貴族の小娘ってのも案外悪くない。なあお嬢様、大人しくしてりゃ痛い目には――」
顎を掴まれたまま、ゴードンを見上げる。その表情は恐怖でも怒りでもなく、ただ純粋な軽蔑だった。
「あら、もう終わり?」
「……あ?」
ゴードンの指を扇子で払い除け、囲まれてなお背筋を伸ばしたまま、周囲を見回す。20を超える武器の切っ先が自分に向けられている。その状況で、ルミナは扇子をパチンと開いた。
「フフッ、20人?たったのそれだけ?」
嘲笑が唇の端に浮かんだ。
「わたくし、これでも手加減が苦手ですの。壊しても泣かないで頂けるかしら、この旦那様と……犬畜生共。」
ルミナが扇子を振ると、袖の中から滑り出たのは――黒い金属の光沢を放つ籠手だった。指の一本一本まで覆われた精密な造り。表面にはヴィクトリア家の紋章である翡翠色の百合花が刻まれている。
それをルミナは慣れた手つきで、ゆっくりと両拳に嵌めた。ギン、と金属が噛み合う音が静寂に響く。
一瞬たじろいだが、すぐに鼻で笑う。
「は、はあ? ガントレット?お嬢様の玩具か?おいお前等、さっさと取り押さえ――」
ゴードンが言い終わる前に、一番近い傭兵が動いた。剣を振りかぶってルミナに斬りかかる。
鈍い音がした。金属と肉がぶつかる、湿った音。傭兵の剣がガントレットに弾かれ、手が痺れて剣を取り落とす。次の瞬間、ルミナの右拳が傭兵の腹に沈んだ。
革鎧が凹んだ。文字通り、凹んだ。傭兵は声もなく3メートル吹き飛び、地面を転がって動かなくなった。
「な――」
『__え?』
ガントレットを嵌めた右手をゆっくり開閉し、残りの傭兵たちを見回す。
「さぁ、お次は何方がお相手で?」
「や、やっちまえぇぇぇ!!」
四方から傭兵達が一斉に襲いかかる。正面の剣、左右から斧、背後から槍。統率の取れた連携攻撃だった。
だがルミナは避けなかった。
まず正面から振り下ろされた剣をガントレットで受け流す。金属音が火花を散らす。そのまま踏み込み、傭兵の顎にアッパーを叩き込んだ。歯が数本飛び、男が宙を舞った。
左から斧が迫る。ルミナは身を半歩だけずらし、斧の柄を掴んだ。持ち主の傭兵が目を剥く。その体格差、三倍はある男が――引き寄せられ、膝が顔面に突き刺さった。鼻骨が砕ける音。
右からもう一本の斧。今度は避けきれず、ルミナの左腕を掠めた。袖が裂け、薄く血が滲む。
ちらりと傷を見て、それから斧の男を見た。笑っていた。
「あら、やってくれましたわね。」
直後、ルミナの回し蹴りが男の側頭部を捉えた。衝撃で首が横に折れ曲がり、そのまま崩れ落ちる。
残り15人。槍部隊が距離を詰め、一斉に突きを放つ。ルミナは3人目の槍を掴んで引き寄せ、盾にした。悲鳴が上がり、仲間の槍に貫かれた傭兵が地面に倒れる。
4分。たったそれだけで8人が沈んだ。ルミナの呼吸はまだ乱れていない。
すると、ルミナの視界の外から、屈強な傭兵2人がルミナの両腕を掴み、背後からねじ上げた。
「捕まえたぞ! ガキがっ、大人しくしてろ!」
「おい、誰かロープ持ってこい!早く縛っちま――」
2人の腕がルミナを掴んだまま、その身体が回転し始めた。
最初は小さく。次に加速。さらに速く。
人間の身体が独楽のように回り始め、掴んでいる傭兵たちの足元が地面を離れた。
「は?え、ちょ、待っ――」
砲弾のような風切り音。ルミナの細い身体が、大人の男2人を振り回しながら回転している。スカートと髪が水平にたなびき、ガントレットが陽光を反射する。
そして――投げた。
2人同時に、屋敷の壁に向かって。石壁に人間の身体がめり込む轟音が響き渡り、壁にクモの巣状の亀裂が走った。2人の身体は壁にめり込んだまま、ぴくりとも動かない。
顔が引きつり、後ずさる。
「ば、化け物……!弓兵ッ!射ち殺せ!!」
残った傭兵のうち5人が弓を構え、矢をつがえた。狙いはルミナの胴体。
5本の矢が同時に放たれた。風を切る音が重なる。
ルミナは止まらなかった。むしろ回転の速度を上げた。ガントレットが矢の側面を叩く。一本目、弾いた。二本目、掌で軌道を逸らす。三本目、四本目――指先で触れ、流すように受け流す。
五本目。最も速く、最も鋭い一矢がルミナの顔面めがけて飛んだ。
ルミナの手が閃いた。矢の軸をガントレットの指で掴み取る。回転の中で、ぴたりと矢が止まった。
「う、嘘だろ――」
ルミナの身体が回転を緩め、その勢いのまま――腕が振り抜かれた。
矢は射手の3倍の速度で飛んだ。先頭の傭兵の喉を掠め、革鎧を貫通し、その後ろの傭兵の太腿に突き刺さった。悲鳴。2人目の男が膝から崩れる。
回転を止め、髪を軽く払う。息はほとんど乱れていない。手には矢がまだ一本握られていた。
「弓?このわたくしに?」
矢を指でくるくると回し、残りの射手達に向けてにっこり微笑んだ。
「もう少し練習なさっては?」
地面が揺れるほどの勢いで、巨体の傭兵が飛び出した。身長は優にルミナの倍近い。筋肉の鎧を纏ったような腕で、人間の胴体ほどもある大戦斧を振りかぶっている。
「お嬢様ごっこは終わりだァ!!」
大戦斧が弧を描いて振り下ろされる。風圧だけで周囲のゴミが吹き飛ぶほどの一撃。地面が砕け、土煙が舞い上がった。
ルミナはその場にいなかった。
半歩。たった半歩の横移動。大戦斧が地面を抉り、石畳が砕け散る。
顔を上げる。目に映ったのは、籠手を嵌めた小さな拳。
「大きな的ですこと。」
ルミナの右拳が傭兵団長の膝を打った。鈍い音。巨体がぐらつく。続く左拳が脇腹に突き刺さり、肋骨が軋む音。さらに籠手での肘打ちが鳩尾に入った。
3連撃。巨漢が膝をつき、大戦斧が手から滑り落ちる。地面に突き刺さった。
「が……ぁ……」
倒れた巨体を見下ろし、髪をかき上げる。
「あら、もう終わり?大口叩いた割に脆いですわね。それにしても__」
籠手の嵌まった手をひらひらと振って、地面に這いつくばる傭兵団長を見下ろす。
「ごめんなさいね。私てっきり貴方の事を森から逃げ出したゴリラかと思いましたわ、いえ、ゴリラに失礼だったかしら。寧ろゴリラの方がまだ賢いですわ。ゴリラって少なくとも群れのルールは守れますもの。」
くすくすと笑い、扇子で口元を隠す。
「そうそう知っていますか?野生のゴリラって絶滅危惧種なのよ?森に帰れば保護してもらえるかもしれませんわ。貴方に似てるでしょ? 大きくて、粗暴で、脳味噌の代わりにプロテインが詰まっていて。」
傭団長の顔が紫色に変わった。膝の痛みなど吹き飛んだ。怒りで理性が焼き切れ、地面に落ちた大戦斧を掴み直す。
「このクソガキがァァァッ!!!」
横薙ぎ。縦斬り。突き。振り回し。怒涛の連続攻撃が襲いかかる。一撃一撃が石壁を砕くほどの威力。風圧で周囲の傭兵すら近づけない。
だがルミナは踊るように避けていた。一歩、半歩、身を逸らし、時には籠手で弾く。
涼しい顔で攻撃を捌きながら。
「あら、やはり怒ると語彙力が完全に消えますわね。やはりゴリラ以下かしら。」
大戦斧が唸りを上げて横薙ぎに襲いかかる。空気を断つ轟音。当たれば胴体が両断される一撃。
ルミナの左手が滑った。ガントレットの指先が、斧の分厚い刃の両面に添えられ――止まった。
鉄と鉄が擦れる甲高い音。火花が散る。巨漢の全力の一撃が、片手で、ぴたりと静止している。
「な……んだと……!?」
傭兵団長の目が見開かれた。腕に全力を込めている。筋肉が膨れ上がり、血管が浮き出る。だが斧は1ミリも動かない。まるで万力に挟まれたように。
「う、動かねぇ……!なんだこの腕力は……!」
刃を摘んだまま、退屈そうに爪先で地面を叩く。まるで道端の虫を眺めるような目だった。
「ねえ、1つ聞いていいかしら?」
籠手の指で斧の刃を少し押し込んだ。金属がみしりと軋む。
「貴方、今どの状況か理解出来て?」
さらに一歩近づく。傭兵団長の顔が目の前にある。
「わたくしを怒らせようとしている?この手で握ったもの、どうなるか教えてあげましょうか。」
金属がぎしぎしと悲鳴を上げた。斧の刃ではない。それを握るの方だ。
違う。籠手が軋むのではない。ルミナの左腕が、大戦斧ごと、巨漢を持ち上げていた。
傭兵団長の足が地面から離れた。
「は――?」
100キロを優に超える筋肉の塊が、片手で宙に浮いている。斧の柄にぶら下がった大男。重力に逆らい、足がぶらぶらと空を蹴る。滑稽な光景だった。だが誰1人として笑えなかった。
周囲の傭兵達は石像のように固まっている。目の前の光景が理解出来ない。人間の腕力で可能な動作の範疇を、完全に超えていた。
「ば、化けも――」
片手に戦斧を、その先にぶら下がる大男を。まるで買い物袋でも持つような気軽さで。にっこりと微笑んだ。
「あら、ゴリラって握力どれくらいだったかしら。300キロくらい?」
籠手の指に力を込め、斧の刃がめきめきと歪み始める。
「わたくし、ゴリラ以下に負けた事など一切ありませんのよ。」
みし、という音がした。メキ、バキ、と続く。大戦斧の分厚い鋼の刃に、蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
砕けた。
金属の破片が四方に飛び散る。傭兵団長の手に残ったのは柄だけだった。刃があった場所を呆然と見つめる大男の顔に、影が落ちた。
「あ――」
落下。重力が傭兵団長の巨体を捉えた。ルミナの右拳が振りかぶられていた。ガントレットが陽光を反射し、一瞬だけ白く輝く。
「拳が顔面に突き刺さった。」
音は聞こえなかった。いや遅れてきた。轟音。衝撃波が砂埃を円形に吹き飛ばし、周囲の傭兵たちがよろめく。
傭兵団長の身体が打ち上がった。垂直に、悲鳴を上げる事も無く。天井の石天井を突き破り、瓦礫と粉塵と一緒に二階へ、三階へ。屋根の一部が吹き飛んだ。
数秒後、遥か上空から何かが落ちる音が微かに聞こえた。
残されたのは、崩落した天井を見上げたまま動けない傭兵たち。誰1人として武器を構えられない。膝が笑っている者すらいた。
そして腰を抜かし、地面に座り込んでいた。
「な、なんだ……あれは……人間じゃ、ない……。」
残った傭兵は半分。弓兵も居らず、剣士が三人、槍兵が2人。どれも腕は立つはずだった。グレイモア家が破格の報酬で雇い入れた元軍属の猛者達。だが今はその全員が武器を持つ手を震わせていた。
1人の傭兵が武器を取り落とした。拾い上げない。剣士は剣を構えたまま、切っ先が定まらない。槍兵は槍を握り直し、一歩後ずさった。*
小声で隣の剣士に囁く。
「お、おい……あれ見たか。あの百人隊長だったガイルが天井ぶち抜いて飛んでったぞ……あんなの人間じゃねぇだろ……」
別の剣士の男が唾を飲み込む。顔が青い。
「割に合わねぇ……こんな話聞いてねぇぞ……」
傭兵達の視線が一斉にゴードンに向けられた。助けを求める目ではない。責任転嫁の目だった。「こんな話聞いていない」「金は命より重いのか」と。
籠手を嵌めた手を軽くはたき、粉塵を払う。それから周囲を見回した。傭兵達の怯えた顔を眺め、扇子をパチンと開く。
「あら。もう終わりですの?」
一歩、彼女が前に出た。同時に、傭兵全員が一歩退いた。
「つまらないですわね。」
『うわあああああっ!!!』
傭兵達は恐怖しながら一斉に逃げ出す。
地面に座り込んだまま、必死に声を張り上げる。
「お、おい!お前ら逃げるな!武器を取れ! 契約金払っただろうが!戦え!」
誰1人として止まらなかった。
最初の1人が踵を返した。それが合図だった。剣士が剣を投げ捨て、槍兵が武器を地面に置き、我先にと屋敷の入口裏口に向かって走り出す。
「知るかよ!あんな化け物相手にできるか! 命あっての物種だ!俺はもう降りる!!」
「契約金何ているかぁ!!あんなの聞いてねぇぞ!殺されるのは御免だ!!」
傭兵達が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。屋敷の外へとバラバラに、あっという間にゴードンの周りには誰もいなくなった。
静寂が残った。
ぽかんと口を開け、誰もいない周囲を見回す。それから、ぎぎぎ、とゴードンはルミナの方を振り返った。
腕を組み、ゆっくりとゴードンに歩み寄る。ヒールの音が石畳に響く。
「あら、随分と慕われていますのね。部下に愛される上司ですこと?」
にっこり。
「さて、ゴードン・グレイモア。やっと、2人きりになりましたわね。」
ルミナのヒールが一歩、また一歩と近づく。ゴードンは地面に座り込んだまま後ずさる。尻が地面を削り、惨めな姿だった。
「ひ、ひいいいっ!!ま、待て!待ってくれ!話し合おう!金なら出す!幾らでも!!」
両手を前に突き出し、懇願の姿勢。口髭の下の唇が震え、目は涙で潤んでいた。
立ち止まった。ゴードンを見下ろす。身長差がある筈なのに、座り込んでいるゴードンの方が遥かに小さく見えた。
「___金?」
籠手の指を一本ずつ鳴らす。パキ。パキ。パキ。
「ひ、ひいぃ……」
しゃがみ込み、ゴードンと目線を合わせた。エメラルドグリーンの瞳が至近距離で覗き込む。
「ねえ、ゴードン。1つ聞いていいかしら?」
声が甘い。甘すぎるほど甘い。
「貴方、わたくしに『身代金をたんまり搾り取る』って言いましたわよね?」
右の籠手をゴードンの頬に添えた。金属の冷たさが肌に伝わる。
「それから、『上玉』とも。」
指に力が入る。ゴードンの頬が歪んだ。
「わたくしに。」
囁くような声。
「ねえ、誰に向かって口を利いたか、まだ理解できていないのかしら?この……豚。」
立ち上がり、籠手の拳を天に掲げた。声が屋敷の中庭に響き渡る。
「ヴィクトリア家の掟は3つ。1つ!」
右の拳を振り下ろす。石畳が砕け、地面に拳の形の亀裂が走った。
「守るべき者を傷つけた者には、相応の報いを。」
首をすくめ、両腕で頭を庇う。
「2つ!」
左の拳を握り、ゴードンの顔の前に突き出す。
「権力を笠に着て弱者を踏みにじる者は、その権力ごと叩き潰す。」
ゴードンの歯がガチガチと鳴っていた。全身が痙攣し、股間に染みが広がっていく。失禁していた。
それを見下ろし、眉ひとつ動かさない。
「そして3つ目。」
両手を合わせ、ガントレットの金属が軋む音が響く。
「ヴィクトリアの名を侮辱する者は何者だろうと――」
ゆっくりと拳を開き、再び握る。
「この世から消す」
ゴードンの顔を覗き込む。微笑んでいた。
「さて。あなた、3つ全部に当てはまるけれど。どれがお好みかしら?」
ルミナの手がゴードンの胸倉を掴んだ。恰幅のいい中年男の体重は優に100キロを超える。
持ち上がった。
「ひっ――ま、待っ――」
ゴードンの足が地面を離れる。片手で成人男性をぶら下げたまま、ルミナの視線は天井に向いていた。先ほど傭兵団長ガイルが突き破った大穴。その向こうに屋根裏の天井が見える。
ルミナの身体がゆっくりと回り始めた。最初は小さく。ゴードンの腕が振り子のように揺れる。
「や、やめ――止めてくだ――」
回転が加速する。ゴードンの身体が水平にたなびく。遠心力で顔が歪み、口髭が真横に引っ張られた。
回転の中で、涼しい声。
「ねえゴードン。あなた、子供達にこうやって遊んだことがあって?」
さらに回転速度が上がる。
「投薬して、切り刻んで、泣き叫ぶのを笑って見ていたんですって?」
「許し――許して下さ――」
回転が止まった。一瞬の静寂。ルミナの右足が床を踏みしめ、腰に捻りが生まれる。投擲のフォーム。完璧な。
「許す?」
にっこり。
「却下ですわ。」
回転が加速した。もはや残像しか見えない。ルミナのヒールが大地を蹴るたびに、石畳が砕け、粉塵が渦を巻いて舞い上がる。
ゴードンの身体は完全に水平だった。腕が垂れ、頭が下がり、まるで洗濯物の竿に吊るされた旗のように揺れている。遠心力で血流が止まり、顔が紫色に変色していく。
「あ゛あ゛あ゛あ゛――」
回転数が増す。ヒュンヒュンと風を切る音が、やがてブオオオオという低い唸りに変わった。ゴードンの口から涎が飛散し、目が白目を剥きかける。
屋敷の柱がびりびりと振動していた。壁際の装飾品がカタカタ鳴る。残っていた窓ガラスが振動で一枚割れた。
回転の中で、息一つ乱れていない。ゴードンを掴む手は万力のように微動だにしない。
「まだまだ。あの子たちの痛みはこんなものじゃなかったでしょう?」
さらに半回転。速度が上がり、もはや小さな竜巻のようだった。
「い゛や゛だ゛あ゛あ゛死ぬ゛う゛う゛う゛」
彼女は天井を見上げた。投擲口がぽっかりと空いている。
「さて。何処に投げて差し上げましょうか?」
回転したまま、ルミナの透き通った声がカウントを刻む。
「3。」
「やめっ――止めて下さいいいい!!」
「2。」
回転が最大速度に達した。ゴードンの身体が引き千切れそうなほど伸びる。もはや悲鳴すら遠心力に潰され、ひきつった呻きしか出てこない。
「ひ――ぎ――」
口角が吊り上がる。エメラルドグリーンの瞳が氷のように冷たく輝いた。
「1。」
腰が沈み込んだ。投擲の予備動作。全身のバネが一点に集中する。天井の穴が、ゴールのように口を開けていた。
ルミナの手がゴードンの胸倉から離れた。いや、離れたのではない。撃ち出されたのだ。
砲弾だった。100キロを超える人間の砲弾が、垂直に天高く打ち上げられた。ゴードンの身体は回転を保ったまま天井の穴を通過し、3階を貫き、屋根をぶち抜いた。
轟音とともに2階部分の天井が崩落する。瓦礫が降り注ぎ、粉塵が屋敷全体を包んだ。
落ちた天井の破片を払い、髪を整える。何事も無かったかのように。
「あら、思ったより飛びましたわね。」
そう言い残すと令嬢は用を済み終えたか、グレイモア邸を後にする。
こうして、また1人の悪逆非道な貴族は、1人の令嬢の手によって葬られたのであった。




