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もう保険金の手続きは、数ヶ月前に済ませてある。書類に不備はない。受取人の氏名には、私の名前が端正な楷書で記されている。しばらく待てば、私の銀行口座には、一人の人間の生命と引き換えに算出された、無機質な数字が並ぶことになる。
そんなことを考えながら深夜二時、自動ドアが開くと、私は防犯カメラの壊れたコンビニに立ち寄った。死角の多い店内は、どこか現実味を欠いている。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った店内は、どこか現実味がない。私は買い物カゴを手に取ると、まずは日用品のコーナーへ足を向けた。
切らしていたシャンプーの棚の前で、手が止まる。いつも使っている詰め替え用を探したが、あいにく在庫がなかった。隣に並んでいる、少し高めの「ダメージリペア」と書かれたボトルに目が向く。ボタニカル、アミノ酸配合、ホワイトムスクの香り。パッケージの洗練されたデザインが、深夜のぼんやりした頭には魅力的に映った。
たまには、いいかな。そう自分に言い聞かせるようにして、重みのあるボトルをカゴに入れた。
そのままスキンケアの棚へ移動する。
買う予定はなかったが、ふと鏡に映った自分の顔が、ライトの下でひどく疲れているように見えた。シートマスクのバラ売りが目に入る。「集中保湿」「翌朝の肌にハリを」といった言葉が、今の自分には必要な救いのように思える。三枚入りのお手頃なパックを手に取った。
食品売り場へ向かうと棚の空きが目立つ。
おにぎりやサンドイッチはほとんど残っていない。不味そうなお弁当や整頓されていない総菜が並んでいる。代わりにスイーツの棚を覗くと、新発売のシールが貼られた「苺のレアチーズタルト」や「チョコメロンパン」が一つだけ残っていた。このメロンパンは以前、有名なドーナツ同じ味がして、好きなやつだった。
深夜に食べる罪悪感はあるけれど、今日一日の『仕事』の理不尽さを思い出すと、それくらいのご褒美は許される気がした。ダイエットのことは、また明日考えればいい。
レジへ向かう途中、飲み物のコーナーで無糖の紅茶を一本手に取る。
会計を済ませると、店員が手際よくレジ袋に商品を詰めていく。若い女の子だったが、見た目より随分と愛想がよく驚いた。ずっしりと重くなった袋を手に、店を出る。
外の空気は、店内に比べていくぶん生ぬるい。
袋の中で、シャンプーのボトルと紅茶のペットボトルがぶつかって、カツンと乾いた音を立てている。
家に帰ったら、まずお風呂に入ろう。新しいシャンプーの香りを確認して、パックをしながら冷たいデザートを食べる。
そんな些細な予定を頭の中で組み立てるだけで、さっきまでの重たい疲れが、少しだけ軽くなったような気がした。私は街灯の下、自分の長い影を踏まないように気をつけながら、家路を急いだ。
レジで会計を済ませ、自動ドアを出て数歩。背後からひどく焦ったような足音が追いかけてきた。
「お客様、お忘れ物です! お釣り、千円札が残っていましたよ!」
あの愛想良かった店員の女性は、肩を上下させ、必死の面持ちで私に紙幣を差し出した。私はそれを受け取り、短く礼を言った。
胸の奥に、わずかな刺さるような感覚があった。悪いことをした、という自覚。
しかし、それは今頃冷たくなった旦那のことではない。この見ず知らずの店員に、店の外まで走らせるという余計な手間を負わせたこと、その一点に対しての申し訳なさだった。
そういえばもう梅雨だから葬式の日は高確率で雨だろう。
ただ「足元が汚れるな」という気だるさが心を支配していく。
私は葬式という儀式が嫌いだ。死を悼むための場所だというが、実際には煩雑な手続きと、予想を遥かに上回る額の請求書が積み上がるだけの空間に過ぎないのだから。
香典の計算、読経の布施、火葬場の予約。
一人の人間が消えるために、これほどまでの金と労力が費やされる。
暗い空を見上げても、湿った風が頬を撫でるだけだった。
家に戻ると、心地よい静寂が私を迎えた。
キッチンへ向かい、やかんに水を入れ、ヒーターのタッチパネル押して火を点ける。ウーンというファンの音が響く。
旦那との生活は、平穏だった。彼は私を愛していると言い、私はそれに対して適切な角度で微笑みを返した。旦那は私のことを「穏やかで芯の強い女性」だと定義していたらしい。私はただ、外部からの刺激に対して、最も摩擦の少ない反応を、ロボットのように選択し続けてきただけだ。
旦那が崖の縁に立ったとき、旦那は何を考えていたのだろう。
「絶景だね」
それが彼の最期の言葉だった気がする。もうどうでもよくて、あまり覚えていない。私は旦那の、その背中を見つめながら、何を思っていたのか……。
────
数日が過ぎた。
警察の事情聴取は、簡潔だった。
私は「悲劇の未亡人」という役割を演じる必要すら感じなかった。
旦那はよく景色をカメラで撮影していたからだ。旦那の趣味の残骸が山のようにデータとなって残っている。不慮の事故。必然だった。犯罪の9割は自白で解決するらしい。幸い、私には感情が人より薄く、自慢や後悔、動揺で自滅する事も、なにが語ろるということすら、微塵も思わなかった。
ただ、事実を事実として語ればよかっただけだ。
刑事たちは私の静かな佇まいを「深い悲しみによる憔悴」と解釈したようだった。人間という生き物は、空白を見つけると、そこに自分の都合の良い意味を書き込む性質があるらしい。
「奥さん、お辛いでしょうが……」
刑事が差し出した温かい茶を一口飲む。温度以外の感想はない。ただの変哲のないお茶だった。
私は年配の刑事さんのネクタイのほつれが気になっていた。それと若い刑事さんの結婚指輪。日焼けと、指輪跡が、微妙に噛み合っていなかった。仕事で? それともプライベートで? 面白い空想が広がっていく。
退屈な様式会話を済ませ、私は警察署を後にした。この県の警察は適当で有名だから、いつも通り自分たちのプライベートを優先して、適当に片付けてくれるだろう。
────
夜、私は一人で食卓につく。
献立は、いつもと変わらない。焼き魚、お浸し、味噌汁。
旦那がいなくなったことで、好きな献立で好きな時間に食べれるようになった。そして作る分量が半分になり、それだけが、私の生活に訪れた唯一の決定的な変化だった。
私は箸を動かしながら、ふと考えた。
もし、あの時、旦那が振り返っていたら。
もし、私の手に力がこもらなかったら。
そんな仮定には、何の意味もない。事象はすでに確定し、過去という名の地層に埋もれている。
窓の外では、また雨が降り始めていた。
雨粒が窓ガラスを叩く音は、メトロノームのように正確だ。
私の鼓動もまた、それに呼応するように一定のリズムを刻んでいる。
────
一週間後、保険会社から連絡が届く。
手続きは順調に進んでいるという。担当者の声は、訓練されたありきたりな同情のトーンに調整されていた。
「この度は、誠に……」
その定型句を最後まで聞かずに、私はブチッと電話を切った。結果だけ知れればそれでいい。
私は書斎へ行き、旦那が遺した日記帳を開いた。
そこには、妻の私への感謝や、将来の計画、些細な日常の不満などが、乱雑な文字で綴られていた。旦那は私との老後を、温かな光に満ちたものとして夢想していたようだ。
ページをめくる指が、ある箇所で止まった。
『妻は時折、どこか遠くを見ているような目をすることがある。その瞳の奥には、私には決して届かない冷たい深淵が広がっている気がして、少しだけ怖くなる。だが、それも彼女の魅力なのだと思うことにしている』
私はその記述を、三度読み返した。
旦那は気づいていた。私の欠落に。あるいは、私の本質に。
それでもなお、旦那は崖の縁で私に背を向けた。それは信頼だったのか、それとも諦念だったのか。あるいは、彼もまた、何かを終わらせたかったのだろうか。
私は日記帳を閉じ、ゴミ箱へ捨てた。
不要な情報は、処理しなければならない。
ふと、鏡に映った自分の顔を見た。
そこには何の変哲もない、一人の女が立っていた。
泣いているわけでも、笑っているわけでもない。
ただ、そこに配置されているだけの無意味な透明な器。
私は指先で、自分の頬に触れてみた。
体温は正常だ。
血圧も、心拍数も、おそらく理想的な数値を維持している。
私は自由になった。
旦那という重りから解放され、漂流する木の葉のように、この世界の海を彷徨う権利を得た。
手に入れた大金は、そのための燃料に過ぎない。
────
一ヶ月が経過した。
海沿いの町は、季節の変わり目を迎えようとしていた。
私は再び、あの崖の上に立っていた。
波の音は相変わらず激しい。
崖の下を覗き込んでも、彼の形跡は何一つ残っていない。
海はすべてを飲み込み、消化し、また新しい一日を繰り返している。
私はポケットから小さな石を取り出す。
それは、かつて旦那が旅先で拾ってきた、何の価値もないただの小石だ。
私はそれを、空に向かって放り投げた。
石は放物線を描き、重力に従って落下していく。
それは、あの日、旦那が辿った軌跡と全く同じだった。
「さようなら」
口から出た言葉は、風にさらわれて霧散した。
それが愛の言葉だったのか、あるいは単なる吐息だったのか、私自身にもわからない。しかしわからないことに、不都合はない。
私は背を向け、歩き出した。
新しい靴の音が、アスファルトを硬く叩く。
そして空は、今日もどこまでも青かった。
これから、何をしようか。
どこへ行き、誰と会い、どのような「役割」を演じて生きていこうか。
選択肢は無限にあるようでいて、その実、私にとってはどれも無価値に思えた。
この静寂の檻の中に住んでいる。
ここは過剰な光もなければ、深い闇もない。
ただ永遠に続く均衡と、冷徹な物理法則だけが支配する世界。
私はその世界の住人として、これからも移動を続けるだろう。
今日という日が、昨日と同じように過ぎ去り、明日という日が、今日と同じように訪れることを確信しながら。
歩き続ける私の足取りは、驚くほど軽やかだった。
崖から吹き下ろす風が、私の髪を乱していく。
私は一度も振り返ることなく、光の射す方へと進んでいった。
この背中に、意味のある重荷はもうどこにも見当たらなかった。
(完)




