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【完結】今日、旦那を崖から突き落とした。  作者: 逆立ちハムスター


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1

デスクの引き出しから、数ヶ月前から準備していた青いクリアファイルを引き出す。指先に触れるプラスチックの冷たさは、期待通りの無機質さだ。


私は使い慣れた事務用品を点検するように、中から書類を取り出す。リビングのテーブルに、三種類のパンフレットを並べる。右端の冊子の角が、わずかに反り返っていた。


私はタブレットの画面に、旦那の生年月日を入力していく。これはダイヤル式のようだ。カレンダー式にしてくれればいいものを、日本のアプリは使い辛い事が多過ぎて呆れる。


一、九、八、五。

くるくる無駄にスワイプ付き合わされたあと、決定を押し、画面が切り替わり、ローディングの円が回る。けれど、一向に進まない。長い。


なぜかエラーが出た。

この保険会社はダメだ。アプリをアンストした。


別の保険会社のアプリをインストールして、再度同じ手続きをしていく。入力もユーザーに配慮されていて、お金の使い道を心得ている感じで好感的だ。さっきの時代遅れの化石アプリのストレスを感じる事なく、手続きがスムーズに進んでいく。

人差し指の先で、画面上のチェックボックスを叩く。

「意向把握」「告知事項」「契約のしおり」。青いチェックマークが一つ増えるごとに、液晶のバックライトが私の指先を無機質に照らし出す。


ボールペンの芯を出す。念のために、手書きも用意しておくことにした。なにがあるか分からない。スマホを落として、壊してしまうかもしれない。崖から落として、紛失してしまうかもしれない。入念にしておかなければならない。


カチ、というボールペンの乾いた音が、静かな室内に響く。この音が子供の頃から、なぜか妙に好きだ。だけど、自分以外の他人がやると、その音はすぐに不快になる。


無意味なクリックをやめてペンを持ち直し、迷うことなく氏名欄にペン先を滑らせた。上質な紙の繊維をペン先が削る微かな振動が、指の骨に伝わってくる。住所、氏名、生年月日。一文字書き進めるごとに、インクが紙に沈み込み、定着していく。その黒い羅列が、ただの事務作業を超えて、着実にチャリンチャリンと、金銭へと変換されていく過程が心地よい。まるでインフラを牛耳る企業が、足掻く地上の企業がお金をせっせと納めにくるような感覚だ。


手元の比較表に、死亡保障三千万という数字を書き込む。

「万」の字の最後の跳ねが、紙の繊維に引っかかって少し歪む。

旦那と私の定期健康診断の結果を記した書類を、左手で手繰り寄せる。

ホチキスの針が、この間、変えたばかりのシーリングの光を反射して白く光っている。シーリングなんてどれも同じだと思っていたが、やはり大手が一番良かった。安物はリモコンの赤外線反応が悪い。声で操作というのも、結局、スマートスピーカーのように、数日で殆ど使わなくなった。

スマートスピーカーといえば、もはやキッチンでタイマー代りにしか使っていないガラクタだ。


ふと日差しが消えた。雲が日差しを覆ったのだろう。この突如変化する感覚は、子供の頃から意外と好きだ。


窓の外では、隣の家の室外機が低い音を立てて回っている。それは一定の周期で、わずかに高音を混ぜながら震えていた。

その室外機は、数年前の夏、旦那が「音がうるさくなった」と文句を言っていたものと同じだ。あの時、夫はベランダに出て、身を乗り出すようにして隣の家の様子を伺っていた。あの時も、不意に旦那を突き落としたい感情が突如湧いたが、なんとなく抑えた。今ではもう、旦那もその音について何も言わない。ただ、規則的に震える高音が、窓ガラスを介して私の鼓膜を一定の力で押し続けている。


視線を落とすと、テーブルの端に積もった埃が、再び差し込んだ日差しに照らされ、白く浮き上がっている。


さっき掃除したはずだが、ティッシュのせいだろう。粒子の集まりは既に薄い膜を形成しようとしている。指でなぞれば、おそらく指紋の溝にそれは入り込み、私の肌の一部になるだろう。後でまた拭かなければ。そう思うが、膝から下が床に張り付いたように重く、意識だけが埃の粒子を数えようとしている。


リビングの壁に掛かった時計が、低い音で一秒を刻んでいた。この時計は、結婚記念日に旦那の母から贈られたものだ。文字盤の書体が少し古臭いと二人で笑った記憶があるが、今はその書体の「4」の字の、鋭角な曲がり角ばかりが目に付く。

電池を替えてからどれくらい経っただろう。以前みたく、白いカピカピが電池から漏れ出ていないだろうか。秒針の動きが、ほんのわずか、磁石に引かれるような粘り気を持っているように見える。


「……死亡保険金、受取人」


入力欄の白い空白を見つめる。瞬きをすると、まつ毛が触れ合う微かな音が聞こえるような気がした。

自分の年齢の欄に指を重ねる。

保険料の試算ボタンをタップすると、指先の皮脂がタブレットのガラス面に白く残ていく。また……画面、掃除しないと。


「……五万、三千円」


声に出すと、その数字はただの音として空気に溶けていく。リビングの時計の秒針が、一段ずつ進んでいく音。

カチ。カチ。カチ。

その刻みに合わせて、夫の書類をクリアファイルに差し込む。

ビニールがこすれる摩擦音が、鼓膜の奥を短く刺激していく。意外と響くものだ。


私は資料の次のページをめくる。紙の端が指先に触れ、キッチンの方で、冷蔵庫がコンプレッサーを止める音がした。今までの低いノイズは冷蔵庫だったのか。急に訪れた静寂の中で、自分の呼吸の音だけが、ただただ、等間隔に繰り返されていた。


「カチリ」という小気味よい音が、静まり返った部屋で唯一の旋律となった。


紙と紙が擦れ合う「カサリ」という乾いた音が、完了の合図のように聞こえた。密閉された封筒の厚みを両手で確かめると、ようやく喉の奥の渇きが癒えていくような、確かな充足感だけが心に残った。


────


春の午後は、あまりに凪いでいた。

アスファルトの上を滑るタイヤの音だけが、密閉された車内に低い唸りとなって響いている。私は静かなドライブが好きだけれど、旦那はよく音楽をかけたがる。海外の激しいアップテンポの音楽だ。私が静かがいいというと旦那の返答はクラシックだった。安易過ぎて、私はあれから抗議をやめた。それが原因の一つだったのかもしれない。今ならそう思えてくる。


ハンドルを握る旦那の横顔は、いつものように穏やかだった。指先がレザーステアリングのステッチをなぞり、微かな衣擦れの音が重なる。


「ミュジニー、だったかな。この間の結婚記念日に開けたワイン」

彼が前を見据えたまま、ふと思い出したように口を開いた。

「ええ。2002年ものだったわね。あなたがセラーの奥でずっと寝かせていたものよ」

「あれは評判通り正解だった。重厚だけど、喉を通る時の滑らかさが、君の好みに合っていた気がするんだ」

「そうね。タンニンの余韻が長くて、少しだけ土の香りがした。あの夜の静けさにはちょうど良かったわ」

私はシャンパンの方が好きだけれど、今さら言うことでもない。とずっと引きずってきた。

「また秋になったら、似たような系統を一本探しておこう。今度はもっと、熟成が進んだものを」

心底どうでもいいけれど、いつものように愛想よく返す。


彼は滑らかにシフトレバーを操作し、車をさらに海沿いの高台へと進めた。カチ、カチ、というウィンカーの電子音が、一定の刻みで車内の空気を等間隔に切り分けていく。

窓の外では、陽光を反射した海面が、古い銀食器のように鈍く光っていた。まだ冷たそうね。


「それにしても、このルートはいつ通っても飽きないね。海の色が、空の階調をそのまま吸い込んでいるようだ」

「光の入射角の問題でしょうけれど。今の時間は、少しだけ緑が混じって見えるわね」

「相変わらず、君は夢がないな〜。そこは『私たちの冷めた関係を、太陽が温めようとしているからだ』とでも言っておけばいいのに」

「そんな感傷的な理由で物理現象は起きないわ。でも、悪くない景色よね。素敵だと思うわ」

彼は低く笑った。その笑い声は、サイドポケットに入れてあるミントタブレットの缶が、車の揺れでカタカタと鳴る音に溶けて消えた。


「ここ、覚えている? 五年前、君が大きなプロジェクトを終えた後に二人で来た」

「ええ。あの時はもっと風が強くて、波の花が舞っていたわね」

「君はシャンパンのグラスを傾けながら、仕事の話を一切しなかった。ただ、波の砕ける音をじっと聴いていた。あの時の君の横顔を見て、僕は、この人となら静寂を共有できると思ったんだ。言葉を尽くさなくても、沈黙が苦にならない相手というのは、そういないからね」

「私はただ、耳鳴りがひどかっただけよ」

「ふふ、君らしいな。でも、その素っ気なさに救われてきたのも事実だよ」


バックミラーの中、私の背後に広がる後部座席には、彼がさっき馴染みの店で買った海外の経済誌が、無造作に置かれている。車がカーブを曲がるたびに、紙が擦れる乾いた音が微かに響いていた。


やがて道は細くなり、ガードレールの向こう側には切り立った断崖が見え始めた。

波が岩に砕ける音が、低い重低音となって足元から伝わってくる。

「あそこの展望スペースで少し停めようか。エンジンを休ませたいし、潮風を吸いたい」

彼が速度を落とし、舗装の剥げかけた駐車スペースに車を滑り込ませた。

サイドブレーキを引き上げるガチガチという硬い音が、密室の平穏に区切りをつけるように響いていく。


エンジンを止めると、急に静寂が訪れた。

ただ冷え切っていないエンジンが、カチッ、カチッ、と金属の収縮する音を立てている。


「降りよう。あそこの先端まで行くと、水平線が少しだけ湾曲して見えるんだ。昔のように眺めよう」

彼はスマートにドアを開け、外に出た。

ドアが閉まる「バタン」という重厚な音が、海風に吸い込まれていく。

私もシートベルトをゆっくりと外し、助手席から降りる。


潮風がカシミアのコートを揺らし、頬を撫でる。砂利を踏む感触が、靴の裏を通して直接脳に伝わってくるようだった。

ジャリ、ジャリ、ジャリ。

彼は崖の縁に立つ、古びた鉄柵の前まで歩いていき、両手を広げて深く息を吸い込んでいた。

私は風で煽られた髪を整えるように、何度も耳へかける。しかし、すぐに乱れてしまう。ショートヘアーにすべきだったわね。旦那を始末した後に、いつもの美容院でバッサリ頼もうかしら。


「いい空気だね。都会の排気ガスとは密度がやっぱり違う。今なら、自分の中の淀みがすべて洗い流されそうな気がするよ」

私は感傷に浸っている旦那の背後に立った。

彼のジャケットの背中が、風を孕んで微かに膨らんでいる。

足元では、砕けた波が白い泡となって霧散していた。

ザザァという波の音が、すべての思考を塗りつぶしていく。


遠くでカモメが鳴いた。鋭く、空を切り裂くような声。しかし彼は振り返らずに、海を見つめたまま呟始めた。


「ねえ、来月の休暇のことだけど。スコットランドの蒸留所を巡る旅はどうかな? 君が好きな、あの煙たいピートの香りがするウィスキーの本場だ。二人で古城のホテルに泊まって、暖炉の前で本を読もう」

「……スコットランド?」

「ああ。君なら、あの荒涼とした風景を気に入ると思う。予約は僕が済ませておくよ。楽しみだな〜。君と新しい景色を見て、またこうして、取り止めのない会話を積み重ねていくのが、僕の人生で一番の……」


彼の言葉は、突風にかき消された。

いや、私がそれを遮ったのかもしれない。

私の手のひらが、彼の背中の温かい布地に触れた。

体温が伝わってくる。上質なウールの質感が指先に残る。

一瞬の静止。

風景は、昨日も、一昨日も、その前も、ずっと変わらずそこにあったものだ。

海は青く、風は冷たく、砂利は硬い。

私はただ、そこにある質量を、本来あるべき重力に従わせただけだった。


「あ──」

短い吐息のような音がした。

それは驚きというよりは、あまりに呆気ない物理現象への戸惑いに近い響きだった。

視界から、彼の背中が消えた。

視界に残ったのは、ただどこまでも続く水平線と、西に傾き始めた太陽の、暴力的なまでの黄金色の光。

重力に引かれた旦那が、空気の壁を切り裂いて落ちていく、微かな風切り音。

それから、数秒の空白のあと。

波の音とは異なる、重苦しい「何か」が水面に衝突した音が、崖の下から舞い上がってきた。

ドプンという、石を池に投げ入れた時のような、けれどそれよりもずっと深く、重い音。


私はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。

鉄柵の錆が指先に付着し、赤茶色の汚れを作っている。

風が吹き抜け、私の髪を乱す。

耳の奥で、まだカモメの声がリフレインしている。

それから私はゆっくりと翻り、車へと戻った。

砂利を踏む音は、さっきよりも少しだけ軽くなったように感じられた。

ジャリ、ジャリ、ジャリ。


運転席に移り、鍵を回す。

エンジンが始動し、オーディオからは先ほどの続きの……好きな音楽の穏やかな室内楽に変えて、音楽が心地よく流れ始めた。

助手席には、旦那の飲みかけのミネラルウォーターが一本、置かれたままになっている。

彼はもう、スコットランドの航空券を手にすることはない。

バックミラーを調整する。そこには、ただ静かな空が映っていた。

アクセルを軽く踏む。車は滑らかに動き出し、来た道を戻る。


タイヤがアスファルトを噛む音が、再び心地よいリズムとなって車内を満たしていくようだ。

そういえば、帰りにクリーニング店に寄らなければならなかった。

明日の仕事に着ていくためのシルクのブラウスを、受け取る約束になっていたはずだ。


空はひどく突き抜けて青く、あの背中を押した瞬間の感触は、驚くほど希薄だった。まるで、読み終えた本のページをめくる程度の、あるいは机の上の埃を指先で払う程度の、ごくありふれた些細な日常に過ぎないほど、呆気なかった。

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