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歳月が邪魔しなかった日  作者: 白瀬 柊


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第5話 第三の音楽

「感情の奔流フラックス」の成功は、カンタータの初演とは比べ物にならない、静かで、しかし深い波紋をフィレンツェの街にもたらした。


カンタータが「時代への宣戦布告」という爆発的な熱狂を生んだとすれば、「奔流フラックス」は、人々の感情の深層にそっと入り込み、彼らの日常の風景そのものを、音の色彩で塗り替えていった。


初演から数週間が経過した。


僕、ルカの新しい音楽は、もはや貴族の音楽堂や宮廷のサロンだけの所有物ではなかった。


朝の散歩に出れば、パン屋の親父が、焦げ付いたパンを窯から出す拍子に、奔流フラックスの**「夜明けの鐘」**を模した高音を、鼻歌で口ずさんでいる。


市場では、行商人たちが、値踏みをする小気味よい手拍子に合わせて、僕のヴァイオリンの荒々しいリズムを叩いている。


そして、路地裏では、小さな子どもたちが、木の棒を弓に見立て、僕の激しいヴァイオリンの動きを真似て遊んでいた。


彼らが奏でるのは不協和音だが、その表情は純粋な喜びと、新しい音への探求心に満ちている。


僕の音楽は、単なる芸術作品ではなく、この街の生活の一部となったのだ。


僕は、街の喧騒の中で、自分の旋律が呼吸し、生きているのを実感し、胸が熱くなった。


「(これが、マルコの言う『時代を超えた和音』の力なのか?)」


僕のヴァイオリンの音が、フィレンツェの石畳に、新しい命の旋律を吹き込んだのだ。


しかし、この成功は、僕に新しい種類の不安ももたらした。


僕の居室に届くのは、かつてのような「騒音」という単純な批判ではなく、僕の音楽を**「単なる流行」**と断じる、より巧妙な言葉だった。


「彼の音楽は、マルコ先生の和声の骨組みを利用した、一時の感情の爆発に過ぎない。真の芸術は、時代を超越した**『永遠なる真理』**によって支えられなければならない」


僕は、書きかけの譜面を前に、ペンを持つ手が止まった。


自分の情熱が、マルコの理性の枠組みから解き放たれ、ただの衝動となって、虚しく消え去ることを、最も恐れていた。


僕の音楽は、この街の熱狂から生まれた。


だが、この熱狂が終わったとき、何が残るのだろうか?


「(僕は、この熱狂の波に乗るべきか、それとも…)」


僕は、夜の街角に出て、人目を避けて独奏を始めた。


弾くのは、奔流フラックスのヴァイオリンパート。


聴衆の拍手がない場所で、僕のヴァイオリンは、再び、僕自身の内面と向き合おうとしていた。


翌日、僕はマルコの居室を訪ねた。


彼は以前よりもずっと穏やかな表情で、僕が持参した次の室内楽の断片に目を落とした。


もう、そこには厳格な「師」の顔はない。


僕の奔放な音符に対しても、静かな笑みを浮かべる**「共創者コンパニオン」**の目線があった。


僕の新作は、**「奔流フラックス」**で得た、より個人的で直接的な感情表現をさらに深めようとしていた。


「次は、さらに大胆な不協和音を使いたいんです。怒りや、悲嘆といった、誰もが目を背ける感情の**『核心』**を、音で抉り出したい」


僕はそう熱意を込めて語った。


マルコは、僕の譜面のヴァイオリンパートの不協和音の直後、低音のチェロパートに、わずかだが、極めて重要な和音を書き加えた。


それは、僕の激しい感情を、**「聴衆の魂が受け止めるための準備」**のような、深く静かな和音だった。


「ルカ、君の感情は美しい。だが、それはあまりにも速すぎる。君の奔流は、聴衆の心を満たす前に、ただの**『流れ』として通過してしまうだろう。この和音は、君の情熱を、聴衆の心に一瞬留まらせるための、『静止点』**だ」


マルコの助言は、僕の感情の爆発を否定するものではない。


むしろ、その感情の力を、聴衆の心臓の鼓動と完璧に同調させるための、**「理性の定規」**だった。


「ありがとう、マルコ。僕の情熱は、常に、あなたの理性という骨格がなければ、ただの散逸で終わってしまう」


僕は心からそう言った。


僕たちの協働は、もはやどちらが主導権を握るというものではない。


僕の**「大胆な情熱」と、マルコの「調和を保つ理性」**が、相互に影響を与え合い、一つの新しい音楽を創造していくのだ。


僕たちの協働は順調に進んでいたが、街や音楽界の反応は、依然として複雑だった。


革新派の音楽家たちは僕を熱狂的に支持し、フィレンツェはルカという名の**「ヴァイオリンの時代」を迎えたと称賛した。


だが、一部の若手音楽家たちは、僕の手法、特に激しいヴァイオリンのソロと、マルコの厳密な和声の対比を、性急に「模倣」**しようとした。


彼らの音楽は、表面的な**「騒々しさ」だけを真似てしまい、マルコの理性がもたらす「構造の美」**を完全に欠いていた。


結果として、彼らの演奏は、真に感情を揺さぶることなく、すぐに聴衆から飽きられてしまった。


この状況は、僕自身に深く自己検証を促すきっかけとなった。


「(僕の音楽が、単なる**『流行』として消費され、模倣されて終わることを、僕は望まない。僕の情熱は、常にマルコの理性という『普遍的な真理』**によって支えられなければならない)」


僕は、夜、街角での独奏を続けた。


それは、**「評価や批判」に揺れる自分の感情を鎮め、僕の音楽の真価、つまり「感情の爆発を理性で支える」という、僕とマルコの「第三の音楽」**の本質を、再確認するための儀式だった。


ある日の昼下がり、僕はマルコの指示で、街の広場を通りかかった。


そこで目にした光景に、僕は思わず立ち止まった。


広場の噴水の周りで、子どもたちが即興の演奏をしていたのだ。


一人は、小さな木の笛でカンタータの旋律を吹き、もう一人は、鍋を叩いて**「奔流フラックス」の激しいリズムを刻んでいる。


そして、そこに居合わせた市民が、自然と手拍子を加え、即興の「合唱」**を始めていた。


それは、完璧な音程でも、理論的に正しい和音でもない。


不揃いで、雑然としている。


しかし、そこには、宮廷音楽には絶対に存在しえない、「街全体の共鳴」、そして、誰もが参加できる**「公共の喜び」**が満ち溢れていた。


この光景を、たまたま僕の後ろを歩いていたマルコも目撃していた。


彼は、膝に置いた杖を握りしめ、静かに、だが深い感動を覚えた。


マルコの音楽は、完璧な理性の枠組みの中で完結していた。


それは美しく、厳格だったが、このような**「街全体を巻き込む、生命力に満ちた音楽の力」**を、彼の理性の城壁は、決して捉えることができなかった。


「ルカ…」


マルコの声は、かすかに震えていた。


「私の理性の城壁は、少数の貴族のためのものだった。だが、君の情熱は、その城壁を壊すのではなく、**街全体を包み込む『新しい時代の広場』**を築いたのだ…」


彼は、僕の音楽が、彼自身の古典の美学に、時代を超えた生命を与えたことを、この街の雑然とした、しかし生命力に満ちた「共鳴」の中で、実感したのだ。


その夜、僕たちは初めて、**「街全体を巻き込む音楽」**を構想した。


これまでの僕たちの協働は、カンタータという大きな形式から、室内楽という個人的な表現へと向かっていた。


だが、今、僕たちの目は、街の「共鳴」という、新しい公共の空間に向けられた。


「マルコ。次の作品は、室内楽の枠を超え、街の誰もが参加できる音楽にしたい」


僕は熱に浮かされたように語った。


「市民を巻き込んだ演奏イベント、あるいは、カンタータの壮大さと奔流フラックスの個人的な情熱を融合させた、まったく新しい**『市民のための組曲セリエ・チヴィーレ』はどうだろう。僕のヴァイオリンが、『市民の魂の叫び』となり、あなたの和声が、その叫びを支える『時代の理性』**となるんだ!」


マルコの目には、僕と同じくらい強い光が宿っていた。


「私の理性の城壁は、君の情熱の光によって、もはや単なる防御ではない。街全体の和音を響かせるための**『共鳴板』となるだろう。ルカ、君の情熱は、私の理性の城壁をも超えた。私たちは、どちらの時代にも属さない、『第三の音楽』**を、このフィレンツェの街で、さらに拡張させるのだ」


僕たちは、新しい楽譜を広げた。


市民の即興的なリズムを取り入れた大胆な構成。


僕のヴァイオリンとマルコのチェロ・リュートだけでなく、街の誰もが参加できるパートの構想。


僕たちの協働は、「個人→師弟→街→時代」へと、その領域を拡張し始めたのだ。


夜が更け、フィレンツェの街は静寂に包まれた。


マルコの居室から、静かなリュートの和音が響く。


それは、僕の激しい旋律を待つ、揺るぎない理性の骨格だ。


やがて、その和音に、僕のヴァイオリンの音が重なった。


それは、激しい情熱ではなく、マルコの理性を骨格とし、街の共鳴を血肉とする、静かで、しかし力強い旋律だった。


二人の和音は、友情と協働、そして新しい時代への誓いの象徴として、フィレンツェの夜に静かに響き渡った。


「(僕の情熱は、常にあんたの理性と共に生きる。師弟関係は終わった。でも、僕たちの協働は、永遠に始まったのだ)」


僕の独白が、夜の闇に吸い込まれていく。


マルコは目を閉じ、静かにその音を聞き入っていた。


「(弟子を越えた彼の音楽は、私の理性の城壁をも超えた。私たちの**『第三の音楽』**は、もはや私や彼の個人的なものではない。この街全体、そして、来るべき新しい時代のための音楽となったのだ)」


一一僕たちの新しい和音が、夜明けの鐘のように、静かに、しかし力強く響き続けていた。

フィレンツェの新しい夜明けは、もうすぐだ。

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