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歳月が邪魔しなかった日  作者: 白瀬 柊


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第4話 感情の奔流

カンタータ初演の爆発的な成功から、フィレンツェの街は一種の熱病に罹ったかのような状態にあった。街を歩けば、どこからともなくルカのカンタータの旋律が聴こえてくる。職人たちが鼻歌でヴァイオリンの荒々しいソロパートを歌い、酒場の酔っ払いが、あの荘厳な**「終止和音カデンツァ」**を、いびつな音程ながらも口ずさむ。ルカという若き音楽家の名は、賛辞と議論、そして嫉妬の中心となっていた。


僕、ルカの居室には連日、街の若手音楽家や詩人、果ては裕福な市民からの手紙が山と積まれていた。多くは、僕の音楽が既存の教会音楽の重苦しさから魂を解放してくれた、という熱烈な賛辞だ。けれど、以前のような「騒音だ」という罵倒も、形を変えて続いていた。「彼の音楽は一過性の流行だ」「マルコ先生の教えを、派手な感情で塗りつぶしただけだ。あの若者に、真の**『品位デコールム』**はない」——保守派は、初演での敗北を認めず、新しい批判の矢を放ち続けていた。


僕は、これらの雑音を気にしないふりをして、日々、新しい作品の構想に没頭していた。次に書きたいのは、カンタータのような大きな枠組みではなく、もっと個人的で、感情を直接的に伝えるための室内楽曲だった。だけど、心の内側では、あの初演での感動と、批判の嵐の狭間で、細かく揺れる自分を感じていた。


「(本当に、僕はマルコの理性を、ただの『道具』にしてしまったのか?僕の弓を力強く振り、ヴァイオリンからほとばしる激しい音は、結局、あの老作曲家たちが言うように、数年で忘れ去られる自己満足で終わるのか?)」


僕は自問し、ヴァイオリンを弾く手が止まった。初演で、マルコが僕に握らせてくれた紙片。「和音を掴め。調和を忘れるな」その言葉が、まるで僕の魂の和声の骨格そのもののように、静かに、だが揺るぎなく響いていた。僕の感情の炎は、マルコという理性の枠なしでは、ただの虚しい衝動になりかねない。初演の成功が、皮肉にもそれを教えてくれた。


その頃、マルコは以前にも増して、静かに日々を過ごしていた。カンタータの成功以来、彼の居室には、僕の新しい作品を求める依頼や、僕の音楽に対する意見を求める音楽家たちが訪れるようになっていた。彼らはマルコに対し、「あの若者をどう制御すべきか」「彼の音楽は本当に正しいのか」と尋ねてきた。しかし、マルコはそれらを静かに断り、「私の弟子は、私の教えを超えて、彼自身の音楽を見つけた」とだけ答え、ひたすら古い譜面の整理に時間を費やしていた。


ある日の夕暮れ、マルコが居室の窓から広場を見下ろしていると、遠くで子どもたちが遊ぶ声に混じって、僕のカンタータの旋律が聴こえてきた。それは、正確な音程ではない。不揃いで、リズムも不安定。だけど、その歌声には、宮廷音楽には決して宿らない、生命力に満ちた、純粋な喜びが溢れていた。


「ルカの音は、こんな風に、街の深部にまで届いているのか…」


マルコは思わず、そう呟いた。かつてマルコが宮廷で奏でたリュートの音楽は、選び抜かれた少数の貴族のためのもの。その美しさは理性の枠の中で完結していた。それは、一種の完璧な、しかし冷たい城壁のようなものだった。けれど、僕の放った激しいヴァイオリンの音は、その城壁を超え、街の隅々にまで届き、老若男女の心を揺さぶっていた。


マルコは膝に置いたリュートの弦に、そっと指を滑らせた。その音は、いつになく柔らかく、そして温かい。まるで、硬い理性の殻を破って、ようやく内側から光が漏れ出たかのようだった。


「(私は、ルカの情熱を、ただの**『理性の城壁』で守ろうとした。**私は、古い美学を守ることしか考えていなかった。だが、ルカは、私の城壁を壊すんじゃない。その上に、街のすべての人のための、新しい時代の『広場』を築いたんだ)」


彼の目の奥に宿った小さな光は、かつての自己の音楽に対する嫉妬ではなかった。それは、自らの古典の美学が、僕という新しい才能によって、初めて時代を超えた生命を与えられたことへの、静かな、深い誇りだった。マルコは、僕に**「卒業」**の時が来たことを、直感的に悟った。


その夜、いつものように僕がマルコの居室を訪れると、マルコは蝋燭の炎の下で、静かに待っていた。僕は遠慮なく、書きかけの新しい楽譜を差し出した。それは、ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲で、題名は**「感情の奔流フラックス」**。


「マルコさん。次は、カンタータよりもっと大胆に、個人的な感情を、聴衆の心臓にぶつけたい。感情を、もっと直接的に伝える曲を作りたいんです」


僕の熱意に、マルコはため息をついた。その表情は、以前の厳しい師というよりも、人生を共にした年老いた友人のようだった。


「大胆すぎるな、ルカ。君の言う**『奔流』は、聴衆の心を満たす前に、ただの洪水として流れてしまう。感情は爆発させるだけでは弱い。必ず理性という支えが、聴衆をその感情へと導く『真理の光』**として必要だ。カンタータの初演で、君が身をもって学んだことだろう」


「わかってる。けど、やるんだ」僕は頷き、マルコの向かいに座り、ペンを手に取った。「だから、僕はもう、自分の音を恐れません。前回の曲で、僕は学びました。僕の**『うるさい』**ヴァイオリンの音は、マルコさんの和声がある限り、破綻しない。だから、今回は、城壁をただの『防御』ではなく、『跳躍台』として使いたいんです」


僕の言葉の力強さに、マルコは顔を上げた。僕の音楽が、彼の教えを単に利用するのではなく、完全に消化し、次の段階へと昇華させていることを、彼は理解した。


マルコは僕の楽譜を受け取ると、ヴァイオリンの最も激しいパッセージの直前、チェロのパートに、新しい和音を書き加えた。それは、激しいヴァイオリンのパッセージの直後、一瞬だけ聴衆の耳を冷却するような、清澄なリュートのアルペジオを模した、深いチェロの響きだった。


「これだ。君の情熱の炎を、この一瞬の静寂が内側から煽る。そうすることで、君の感情の爆発は、衝動ではなく、より強烈な**『必然』の音となる。これは、君が感情の限界まで到達した瞬間、聴衆に『帰還』**の安堵を与えるための和音だ」


僕は、マルコの書き加えた音符を見て、戦慄した。この一瞬の静寂の美学は、僕一人では絶対に辿り着けない境地だ。僕の奔放さと、マルコの緻密な構造美学が、ついに完璧に融合した瞬間だった。


二人の手が、譜面の上で交差する。マルコの古典的な理性の線と、僕の奔放な感情の線。それは、もはや師弟の指導ではない。お互いの音楽を尊重し、高め合う、対等な音楽家同士の、緊張感のある協働だった。リュートの古い秩序と、ヴァイオリンの新しい感情の融合が、街の夜に柔らかく、しかし力強く響いた。それは、フィレンツェの誰もが聞いたことのない、**「新しい時代の和音」**だった。


数週間後、僕の新しい作品**「感情の奔流フラックス」**の初演が決まった。場所は、前回よりも遥かに大きな、貴族や富豪が集う音楽堂だ。観客席の熱気はカンタータの時を優に超えており、その場の空気は、まるで嵐の前の静けさのようだった。


聴衆は熱狂し、議論はさらに激しくなった。保守派と革新派が、今度は僕の曲を巡って、さらに熱心に議論を交わす。だけど、僕はもう恐れない。僕の音楽は、僕自身とマルコの築いた友情、そして変わりゆく時代の証だからだ。


初演の日、僕は舞台袖で、冷静に、それでいて情熱的にタクトを振った。今回の主役は僕のヴァイオリンそのものだった。


**「奔流」**は、僕のカンタータよりもさらに激しく、ヴァイオリンが主導する、感情の爆発の連続だった。僕の弓は、怒り、悲しみ、歓喜、そして故郷への渇望という、人間の持つ剥き出しの感情を、寸分の狂いもなく描き出していった。聴衆は、何度も感情の頂点へと引き上げられ、息を呑んだ。


そして、初演の終盤。ヴァイオリンが高音域で、フィレンツェの**「夜明けの鐘」の音色を模した、突き抜けるような高音を奏でた。それは、僕の魂が、僕の故郷への渇望と、未来への希望を込めて放った、「時代の叫び」**だった。


その時、舞台下手の一角、僕のヴァイオリンの音色を追いかけるように、静かに、しかし深い響きでチェロがマルコが書き加えた和音を奏でた。彼の和音は、僕のヴァイオリンの激烈な旋律を遮断することなく、むしろそっと、でもしっかりと音が包んでくれた。


それは、まるで僕の激しい光を、彼の静かな影が包み込むような、完璧な調和だった。


遠くからその音を聞いたマルコは、客席の隅で、微かに、そして決定的に笑った。彼の目の前には、かつて厳しく指導した弟子ではなく、共に新しい音楽を生み出す**「仲間コンパニオン」**が立っていた。


「(お前はもう、私の弟子ではない。共に未来を奏でる**仲間コンパニオンだ。私の教えは、もはやお前を縛る鎖ではない。お前を高く飛ばせるための『跳躍台』**となった)」


彼の微笑みは、僕への卒業証書であり、そして僕たちの協働の始まりを宣言する、静かな誓いだった。


僕は指揮を終え、溢れんばかりの拍手の中で、客席に座るマルコを見つめた。僕たちの目線が交差した瞬間、僕は彼に深々と頭を下げた。それは、師への感謝と、仲間への敬意、その両方を込めた、新しい時代の挨拶だった。


僕は自室に戻り、興奮が冷めやらぬうちに、譜面の余白に、次の旋律の断片を書き込んだ。**高音の和音が、聴衆の胸に静かに染み渡った。それは、マルコの理性を骨格とし、僕の情熱を血肉とする、二人だけの和音。それは、二人の音楽が生み出す、時代を越えた、新しい「夜明けの和音」**だった。


一一これで、僕たちの師弟関係は終わりを告げた。そして、ルカとマルコの、新しい時代の音楽を創造する**「協働」が、永遠に始まったのだ。僕の情熱は、常にマルコの理性と共に生きるだろう。そして、マルコの古典は、僕の旋律によって永遠に新しい光を浴び続けるだろう。私たちは、どちらの時代にも属さない、私たちだけの「第三の音楽」**を、このフィレンツェの街に響かせ続けるのだ。

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