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歳月が邪魔しなかった日  作者: 白瀬 柊


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第3話 信仰の炎

あの激しい口論から、僕とマルコは再び譜面に向かい続けた。夜明けの和音を交わした日から、怒涛のような数週間が過ぎた。マルコの居室は熱を帯びた工房と化し、僕たちは来る日も来る日も譜面に向かった。これは静かで内省的な時間というより、熱を帯びた集中と協働だった。


街の人々が僕のカンタータの話をしているのを聞いた。保守派は眉をひそめ、革新派の若者たちは僕を英雄のように讃えていた。僕たちの協働は、かつての師弟関係を遥かに超えた、二人の音楽家の魂の対話だった。


僕は、大司教から依頼されたカンタータの第一楽章、最も情熱的なテノールのソロパートを書き終えると、背中を丸めてマルコを見た。


「マルコ。ここの旋律、どうかな?故郷の祭りで聞いた、あの物売りの声のように、人々の渇望と喜びを剝き出しで叫びたいんだ。高音域で弦を激しくこすりつけるような、ヴァイオリンの荒々しい音を」


マルコは、その旋律をリュートでゆっくりと試した。


「『剝き出しの叫び』か。悪くない。いや、時代が必要としている音だろう」マルコは譜面を指差した。「だが、ルカ。これではただの『荒々しさ』で終わるぞ。神に捧げる音楽は、永遠に響くものでなくてはならん」


僕は身を乗り出した。「永遠に響かせるには、どうすればいい?」


「理性を仕込め。君が今、感情を高揚させようと不安定な調性に入り込むのはわかる。だが、その波が聴衆を捉えた直後、次の小節で必然的に『帰還』の和音を響かせろ。対位法を厳格に守ることで、君の情熱は衝動ではなく、聴き手の魂を導く真理の光となる」


マルコは譜面の隅に、厳格な移行を示す音符を書き加えた。それは、激しい光を収めるための、冷たい鉛の枠のようだ。


「『感情の爆発』を、『理性の城壁』で包み込む、ということか……」僕は呟き、感銘を受けてペンを走らせた。


「その通りだ。枠(理)がなければ、ただのガラスの破片だ」マルコは深く頷いた。「お前の音楽は、私に新しい時代の可能性を見せている。私も、古い理が、お前の新しい情熱でどれほど強く響くかを知りたい」


「これは、僕が一人じゃ絶対書けなかった曲だ」僕はヴァイオリンケースに手を置いた。「僕の『うるさい』ヴァイオリンの音を、マルコのリュートの静寂が、初めて真の音楽へと昇華させてくれる」


二人は夜が明けるまで、和声の均衡を探り続けた。リュートとヴァイオリン。二人の友情は、対立を経て、一つの「夜明けの和音」へと結実した。


夜明けの和音を交わした日から、さらに数週間が経過した。フィレンツェの街中では、僕の名が賛辞と罵倒、期待と嫉妬の渦の中で、その存在を大きくしていた。


当然、僕の音楽は、既存の音楽家、特に教会音楽の重鎮たちからの激しい批判にさらされた。街のカフェやサロンでの議論が、連日新聞の見出しを飾っている。


老齢の作曲家、マエストロ・ジョバンニは「あの若造ルカの曲は、まるで市場の騒音だ!品位デコールムを完全に欠いている!」と公言した。


オルガン奏者のバルトロメオも同意する。「あれは、聴衆の涙腺を刺激するだけの『劇場音楽』だ!」


保守派の若手たちからも批判が出た。「あの『うるさい』ヴァイオリンの多用は、構造の崩壊を招いている。彼はマルコ先生の教えを捨てたのだろう!」


「マルコの教えを捨てた」という批判だけは、僕の胸に鋭く突き刺さった。彼らが何を言おうと、僕の音楽にはマルコの理性が、確固たる骨格としてあるのに。


カンタータの初演まで残すところあと三日となった夜、僕は自室で譜面を前に、激しい焦燥感に襲われていた。批判の嵐が、僕の自信を削り取っていた。


(本当に、ただ感情を爆発させているだけなのか?マルコが教えてくれた理性を、実はどこかで蔑ろにしてしまったんじゃないか?)


僕は意を決し、マルコの居室へと向かった。扉を叩く手は、恐れと縋るような気持ちで震えていた。


マルコは蝋燭の炎の下で古い楽譜を整理していた。僕を迎え入れると、彼は静かに椅子を勧めた。


「どうした、ルカ。お前の顔は、まるで処刑台に向かう罪人のようだぞ」マルコは皮肉を込めて僕を見た。


僕は顔を伏せた。「マルコ。ジョバンニ先生たちが、僕の曲を『場末の騒音』だと罵っている。僕が弾きたいのは、人の心の叫びを写したヴァイオリンの音だ。でも、その叫びが、彼らに壊されてしまうのが怖い」


マルコはリュートに手を置き、低く澄んだ和音を弾いた。「『壊される』だと?それは、お前自身が自分の音楽が壊れやすいと信じているからじゃないか?」


僕は顔を上げた。「……どういう意味だよ?」


マルコはリュートを膝に置き、僕の瞳をしっかりと見つめた。


「聞け、ルカ。感情の爆発は、誰にでもできる。だが、あの夜、私たちは共にカンタータの譜面を完成させた」


マルコは深く息を吸い込んだ。「君のカンタータの旋律は激しく、情熱的だ。ヴァイオリンは人の心臓の音のように鳴るだろう。だが、その旋律を支える和声の骨格は、私の厳格な対位法で築かれている。君の叫びは必ず、私が教えた理性の和音へと帰還するように設計されているのだ」


マルコは僕の胸に冷たい真実を突きつけた。


「君の曲は、単なる『感情の放出』ではない。それは、『感情の爆発』を、『理性の制御』の下に置いた、新しい時代の音楽だ。ジョバンニたちが批判するのは、彼らの慣れた枠を超えた音だからだ。君の音楽は、彼らの城壁の外側にある」


僕の瞳に光が灯った。「僕たちの友情の和音が、僕の曲の骨格になっている……だから、壊れない」


「そうだ。批判を恐れるな、ルカ。お前の旋律を、思い切り叫ばせろ。そして、その叫びの深みに、我々が共に作り上げた不変の調和があることを、聴衆に示すんだ」


僕は立ち上がり、迷いは完全に晴れた。「ありがとう、マルコ。僕の音を、彼らに届ける。それが、あんたの古い美学に対する、僕の新しい時代の答えだ」


フィレンツェ大聖堂の礼拝堂は、カンタータの初演を前に異様な熱気に包まれていた。最前列には、保守派の重鎮たちが腕を組み、座っている。


僕は、指揮台に上がる直前、舞台袖で深く息を吸い込んだ。手は冷たく湿っていた。


(城壁を活かすんだ。壊すんじゃない。)


その時、マルコが静かに近づいてきた。


マルコは僕に小さな紙片を握らせた。「初演、成功を祈る」


僕が紙片を開いた。そこには、簡潔な言葉が書かれていた。


「和音を掴め。調和を忘れるな」


それは、彼が僕に教えた対位法の真髄であり、あの夜の友情の誓いだった。


「マルコ……」僕は声を詰まらせた。


「君の音楽の骨格は、我々が共に築いたものだ。私は、君の音楽が壊れないことを知っている。自信を持て、ルカ」マルコはそう言い残し、客席の隅へと去っていった。


僕は静かに指揮台に立った。力強くタクトを振り下ろした。


カンタータの冒頭は、古い時代の厳格な教会の和声で始まった。重厚な響きは、保守派を安堵させた。


だが、安堵は長く続かなかった。


テノールのソロが始まると、僕はヴァイオリンパートに、これまでの教会音楽ではあり得ないほどの激しい装飾と、大胆な不協和音を指示した。それは、まさに故郷の酒場で聞いた、「理性を持たない獣の叫び」を写した音だった。


ヴァイオリンの弓が弦を激しくこすり、軋むような嘆きの旋律が響き渡る。


ジョバンニ:「何ということだ!調和が完全に崩壊している!」


保守派は顔を歪め、席を立とうとする者も現れた。


だが、その時、僕の緻密な構成力が、聴衆の心を見事に捉えた。


ヴァイオリンが最も激しい感情の頂点に達し、僕の魂が叫びを上げた瞬間、僕はタクトを振り下ろし、全ての楽器を一瞬、停止させた。


そして、その静寂を破るように、オルガンとチェロが、マルコが教え込んだ、絶対的な終止和音カデンツァを、荘厳に響かせた。


その和音は、それまでの感情の奔流を、すべて一つの「真理の調和」の中に収束させた。聴衆は、感情の爆発の直後、理性の光によって救済されたような感覚に陥った。


テノール歌手:(ルカの音楽は、荒々しいのに、決して破綻しない……!)


僕は、マルコの教え通り、自分の感情の炎を、崩壊しない理性の城壁でしっかりと支えた。僕のヴァイオリンは人の心臓の音を叫び続けながらも、マルコとの友情の和音へと、常に帰還し続けた。


クライマックスでは、ヴァイオリンが再び高揚し、その音色は怒りから、圧倒的な歓喜へと変化した。僕の目からは、とめどなく涙が溢れていた。


最後の音が鳴り止むと、一瞬の静寂の後、礼拝堂全体が爆発的な歓声に包まれた。保守派の重鎮たちは、抗議の言葉を失い、ただ呆然と座り込んでいた。


初演が終わった深夜、僕はマルコの居室を訪れた。


「成功だったな、ルカ」マルコはワインを飲みながら言った。


「ああ、マルコ。僕のヴァイオリンは、思い切り叫んだ。彼らは、僕の音楽を受け入れてくれた」


マルコは静かに首を振った。「彼らが敗北を感じたのは、君が自分の音楽を、単なる流行で終わらせず、彼らが信じた『不変の調和』の上に新しい時代を築いたことに気づいたからだ」


僕は深く息を吸い込んだ。「僕が、あんたの教えを、ただ捨て去ったわけじゃないと……示せたかな?」


マルコは立ち上がり、僕の肩に手を置いた。


「君は、私の教えを捨てたのではない。受け入れ、そして昇華させた。私の和声の城壁は、君の激しい旋律によって、初めて新しい時代の光を浴びた。これが、新しい音楽だ。ルカ」


彼は言った。「もう、私は君に教えることは何もない。君は、君だけの音楽を築き上げた。だが、忘れるな、ルカ。お前の音楽の骨格には、常にあの夜、我々が共に交わした友情の和音が響いている」


僕は深く頷いた。「わかっているよ、マルコ。僕は、どちらの時代にも属さない、僕たちだけの音を見つけた。僕の情熱は、常にあんたの理性と共に生きる」


二人の音楽家は、ワインを飲み干した。マルコの居室で、古い時代の美学と、新しい時代の情熱が、静かに、そして決定的に新しい時代の和音を結んだのだった。


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