<第一足>片結び
──二〇二二年、三月。
夜明け前の大阪市西成区、あいりん地区。
薄暗い路地裏を、一人の少女がふらつくように歩いていた。
「お腹……減った……」
足元をネズミが駆け抜ける。
鼻を突くのは、生ゴミと排水溝の腐った臭い。耳元ではハエの羽音が絶え間なく響いていた。
少女──如月夢玖は、コンビニのゴミ袋の中から、おにぎりの袋を拾い上げる。
「……あ。」
袋の隅に、ほんの少しだけ白いご飯が残っていた。
「いただきます……」
誰に言うでもなく呟き、その小さな欠片を口へ運ぶ。
夢玖はゆっくりと噛み締めた。
「……足りひん。」
食べ終えると袋を丁寧に畳み、近くのゴミ箱へ捨てる。
辺りでは、闇市が開かれ、怪しげな売買が行われている。
道路脇では日雇い労働者たちが段ボールを布団代わりに眠っていた。
「うっ……」
汗と酒、生ゴミが混ざった強烈な臭いに耐えきれず、夢玖はさっき口にした僅かなご飯まで吐いてしまう。
胃の中は、もう空っぽだった。
それでも涙は出なかった。
夢玖は壁にもたれ、そのまま目を閉じる。
夜が明けるまで、それが彼女の眠りだった。
* * *
朝日が昇る。
夢玖は立ち上がり、自分の足元を見た。
「……靴、ボロボロやん。」
何年履いているのか思い出せないスニーカー。
靴底は擦り減り、靴紐は何度も結び直した跡が残っている。
千切れかけた紐を握り、しゃがみ込む。
「……これでええ。」
夢玖は靴紐を片結びにした。
* * *
大阪市福島区。
古びたアパートの一室。
部屋には酒瓶や督促状、パチンコ店のチラシが散乱し、足の踏み場もない。
父は競馬新聞を広げたまま。
母は酒瓶を抱えたまま眠っていた。
夢玖が帰ってきても、二人は一度も顔を上げない。
──最初から、そこにいない子どもだったように。
冷蔵庫を開く。
何もない。
蛇口をひねる。
水は出ない。
電気も、ガスも止まっていた。
夢玖は何も言わず、静かに冷蔵庫の扉を閉めた。
* * *
その夜。
夢を見た。
白い雪。
澄んだ空気。
大阪とは違う、静かな街。
一人の青年が笑っている。
その隣には、一人の女性。
二人とも、夢玖へ優しく手を差し伸べていた。
『如月、一緒に来い。』
『夢玖ちゃん。一緒に食べよう?』
聞いたことのない声なのに、不思議と懐かしかった。
そして、最後に聞こえた一言。
『福島。』
夢玖は目を覚ます。
胸だけが、不思議なくらい温かかった。
* * *
翌朝。
道頓堀の巨大ビジョンに、一つの観光CMが映し出される。
『ようこそ、福島県へ。』
流れた景色に、夢玖は息を呑んだ。
「……あの夢と、一緒や。」
雪景色。
山。
空気。
全部、夢で見たままだった。
夢玖は立ち止まり、小さく笑う。
仲の良い日雇い労働者から譲ってもらった数万円。
古い地図。
穴の空いたスニーカー。
何も揃ってはいない。
それでも。
「歩けば着くやん。」
誰に教わった言葉でもない。
誰かに励まされたわけでもない。
それは、今まで誰にも頼れなかった少女が、自分だけを信じて見つけた、生きるための答えだった。
小さなリュックを背負う。
靴紐を見る。
またほどけていた。
夢玖はしゃがみ込み、もう一度だけ片結びにする。
そして、振り返る。
長く過ごした、あいりん地区。
「……じゃあな。」
少女は歩き出した。
大阪から福島まで。
まだ、その先で待つ運命を知らないまま。
……To be continued
改めてまして、初めまして。
第一足(第一話)を読んでいただきありがとうございました。
夢玖の旅はここから始まります。
次回は福島で暮らす青年・生野希望の視点です。
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