幕間 百年の計
「わざわざ来てもらって悪いわね、フルフル」
出立の二日前、フルフルはシュレディンガー家別宅に呼び出されていた。エリーザをわざわざ別件で遠ざけてまで対面を指定してきた意味と、ジークリンデの傍らに音もなく控える父・ムルムルの姿に、フルフルは緊張を禁じ得ない。
「……本日は、どういったご用件で?」
「これに目を通して」
ジークリンデは古びた一冊の大学ノートをテーブルに滑らせた。表紙には何も書かれていない。
「こりゃまた、年季の入った御品ですね」
「曾々祖父様から伝わる、『業務』の引き継ぎノートよ」
「このノートが?」
「自分の代で完遂出来ない長期計画は、こうやって次代以降に引き継ぐの。そして今、私の手元にある。……もともと百年程度かかるだろうとお考えだったみたいだから、当然ね」
「いえ、引き継ぎがあることは存じております。ただその……」
そこら辺の売店で売ってる大学ノートだったことが、フルフルには衝撃的だっただけだ。
「こんなふつーの、やっすいノートでいいんですかね?」
「一計画につき一冊なのよ?仰々しいものなんか使ってられないわ。嵩張るし高くつくじゃない」
「もしや、閣下も……?」
「私はルーズリーフ派ね。進捗に合わせて差し替えられるし、終わったものを逐次焼却しやすくて。私に何かあったとして、引き継ぐ相手はムラサメかお祖父様になるから、要点だけ書いておけば伝わるし」
「さようで……。では、拝見します」
フルフルはテーブルに飛び乗り、前脚を添えて、慎重にノートを鼻先で開く。
容易く読める程度の乱雑な文字で、一つの自治政府をその根幹から終わらせる計画が書き綴られていた。
時折、別の筆跡で書き足されている部分は、引き継いだジークリンデの曽祖父や祖父によるものであろう。赤インクでびっしりと書き込まれた筆跡は、ジークリンデのものである。
――ヴィレンが気に入らん。ゆえに消し去る。
「……なんですかぃ、この『気に入らん』ってのは」
「さぁ?そのままの意味じゃないかしら」
「仮にも他国の……世直しに乗り出す策が、気に入らぬの一言で済むとも思えません。実のところは?」
「多分、本当に気に入らんとしか言わなかったんじゃないかしら。ヴィレン支配階級にも、あちらなりの正義があるのでしょう。でもね、それが我々とは相容れぬというだけ。だからひいひい爺様は、正義だの道理だの人倫だの、そんな屁理屈を捏ねなかったと思うわ」
「……『相容れない』から、『潰して排除する』、と?」
「彼らの流儀そのままでしょ?文句を言われる筋合いは無いわ」
フルフルは氷姿玉骨の静謐な佇まいの下に、明確な怒りが澱んでいるのを嗅ぎ取った。
ジークリンデの苛烈さは、一族の、あるいは「己の中の理」を侵された時に牙を剝く。
「金と因習で歪な統治をしていた政体が、もはや配る金も無いのにその体制を続けてきた――それがヴィレン。外に金をせびり、内では信仰とやらで民を縛る。なんて醜い、なんて卑しい。ヴィレンの中だけで完結するならば、どうでもいいけど」
ムルムルは鼻を鳴らし、「身も蓋もねぇな」と笑った。
フルフルは黙ったまま、ぱらり、ぱらりとページをめくって読み進める。
「……薬物?洗脳?」
「工作員というか、ほぼテロリストね。我らが王国に、そんな汚物を流出させられても迷惑です」
「だから、地図からヴィレンを抹消すると仰せですかい。しかし、この計画では――」
「詰めの部分を、私好みに改変しました。これは、ひいひい爺様への意趣返しです」
「ヴィルヘルム様はとうの昔に亡くなっておいでですぜ。意趣返しも何もないんじゃござんせんか?」
「だってあの方、他にも丸投げ案件があるんですよ?いい感じによろしくって遺言は許されるの?ねぇムルムル、どう思います?」
「実にあの御方らしい言い草で。こればかりは、よぅくご当主に似ていなさる」
返す言葉もないジークリンデは、むぅ、と大人気なく口を尖らせた。ブーメランがざっくり刺さった形だ。
「ご当主が信じて任せるのと同じでございやすよ。先々々代も信じて託したのでございましょう?」
「それは――そうかもしれないけど」
「ご当主が今の時代、最善と信じて成すことです。ヴィルヘルム閣下と異なるやり方であっても、最終的に同じ結果に辿り着くのなら、閣下も本望なのでは?」
そもそもワダツミ重工は、ヴィルヘルム・シュレディンガーの手によって産み落とされた企業体だ。正確には、前身のワダツミ造船を核として金属メーカーや重機メーカーらを吸収合併し、「ワダツミ重工」へと改組したのが実質的な創業である。
ヴィルヘルムは、テウメッサ族の語り草によれば、『歴代で三番目に金を稼ぐのが上手い』当主であった。彼がワダツミ重工会長として、最初に開発・建造した軍艦がローレライ級だ。
そしてジークリンデもまた、TKGグループという食の巨大企業体を創設し、ワダツミ重工と共にヴィレンのインフラ・生活基盤に深く根付かせ、現在に至っている。
「ひいひい爺様は単純に経済崩壊を狙ってらしたけど、私は違います。彼らの神が偽物なのか、信仰心が偽物なのか、あるいは両方とも偽物なのか。――それを突きつけます。彼らの『聖なる経典』を都合よく切り貼りして、欺瞞を貪り続けた罪は、支配階級だけに留まらない。ですから、社会構造そのものを崩壊させるんですよ。上も下も、寄生虫体質ごと腐り落ちるように」




