第4話 無能と呼ばれた理由
王城の会議室には、朝から湿った怒気が充満していた。
机の上には報告書が山のように積まれ、封蝋の切れた封筒が散らばっている。誰かが徹夜で走り回った痕跡が、そのまま形になって残っていた。
「……市場が暴れています。今朝はパン屋が襲われ、衛兵が負傷したと」
「穀物は? 備蓄はまだあるのだろう!」
「帳簿上はあります。しかし、現物が――」
現物。現物。現物。
その言葉だけが、会議のたびに刺のように飛び交う。
宰相グレゴールは、机の端で黙って資料をめくっていた。頭の奥が鈍く痛む。数字が嘘をついているのではない。数字は正しい。しかし、数字が“繋がっていない”。
繋げていたものが、いない。
「殿下をお呼びした方が――」
「呼ぶ必要はない」
乾いた声が、会議室を切った。
王太子レオンハルトは、扉を開ける音も荒く、椅子を引いて座った。いつもの自信に満ちた表情は薄れ、代わりに苛立ちが張りついている。
「要点だけ言え。どうしてこうなった」
役人たちが一斉に口をつぐむ。
誰も答えを持っていない。その事実が、さらに空気を重くした。
宰相は息を吐き、手元の紙を一枚取り上げた。
「まず、供給です。王都に流れ込む穀物と燃料の一部が、地方で止まっています。理由は不明。……そして税収が遅延している」
「督促したのか」
「はい。しかし返答がない。返答がないというより――」
宰相は言葉を選ぶ。
「……相手が“こちらを相手にしていない”」
レオンハルトの指が机を叩いた。
「ふざけるな。地方の連中が王都を無視する? そんなことが許されると思っているのか」
「許されるかどうかではなく、起きています」
宰相は淡々と言った。その淡々さが、逆に残酷だった。
王太子が口を開きかけた瞬間、別の役人が割って入る。
「宰相閣下、これを……!」
差し出されたのは、封を解かれた書状。宰相が受け取って目を通すと、眉がわずかに動いた。
「……商人ギルドが、臨時会合を要求しています」
「要求? 何様だ」
「要求の内容は、税の免除と取引条件の再交渉。応じなければ、王都への流通をさらに絞ると」
会議室がざわつく。
ここまで露骨な脅しは、前代未聞だった。
「潰せ。見せしめに逮捕しろ」
レオンハルトが即断する。
役人たちが顔を見合わせた。誰も動かない。
「……何だ」
宰相が、静かに言った。
「殿下。逮捕すれば、今残っている流通すら止まります。兵糧は、現時点で三週間分。下手をすれば――」
「黙れ!」
レオンハルトが机を叩く。杯が跳ね、誰かのインク壺が倒れた。
「俺は王太子だ。商人ごときに脅されるなど……!」
怒鳴り声の余韻が、会議室の天井に張りつく。
宰相は倒れたインクを見もしないで、別の資料を取り出した。
「殿下。もう一つ、問題があります」
「まだあるのか」
「帳簿の閲覧権限が失われています。財務庫の記録の一部が封印され、誰も開けられない」
「封印? 誰がそんな――」
レオンハルトの言葉が止まる。
宰相は、淡い疲労を滲ませて続けた。
「封印に使われている印章が、王城の正式なものではありません。……ただし、財務部の者たちは封印を見てこう言いました。『正しい手順です』と」
「意味が分からん」
「手順が“彼女の手順”なのです」
宰相がその名を口にした瞬間、会議室の空気が凍る。
「イリス・アルヴェーン」
レオンハルトの表情が、苛立ちから困惑へと移った。
「……あの女が、こんなことを?」
「こんなこと、ではありません」
宰相は言い切った。
「彼女がいなくなってから、調整が止まりました。税の優先配分、備蓄の放出時期、商会への支払い、軍需の支出……“判断”が必要な部分が、誰にもできていない」
役人の一人が、思わず呟く。
「……そういえば、以前は問題が起きる前に対処されていました。値上がりが起きる前に補填が入り、地方の反発が出る前に条件が整っていた」
別の者が言葉を継いだ。
「宰相閣下が全てやっていると思っていましたが……」
宰相は視線を上げない。
その沈黙は、肯定にも否定にも聞こえた。
レオンハルトの喉が、乾く。
「だが……あの女は何も――」
言いかけて、止まった。
“何もしていない”なら、なぜ今、国が揺れている。
問いが頭の中で膨らむ。
宰相は、最後の一枚を机に置いた。
「これは、婚約破棄の直前に提出された調整案です。税率の変更、穀物の放出、燃料の輸送……全て整っている。しかし、誰も決裁していない」
レオンハルトは紙に目を落とす。
そこに記された提案は、理屈が通っていた。いや、理屈というより、国の呼吸そのものを整えるような内容だった。
「……誰が作った」
宰相が、短く答える。
「イリス様です」
その一言で、会議室の誰もが息を呑んだ。
レオンハルトは笑おうとした。笑って、否定して、なかったことにしようとした。
だが、口角が動かない。
胸の奥で何かが、軋んだ。
自分は、何を根拠に“無能”と呼んだのか。
思い出すのは、舞踏会の夜。
彼女は泣かなかった。怒らなかった。縋りつかなかった。言い返しもしなかった。
ただ、静かに「承知しました」と言った。
それが――
今になって、異様に重い。
「……なぜ、あの女は言わなかった」
誰に向けた問いでもなかった。
宰相が、初めて視線を上げた。
「殿下。言ったところで、信じましたか」
返す言葉がない。
会議室の外から、遠くで鐘の音が鳴った。市場の鎮圧に向かう衛兵の合図だろう。
レオンハルトは、拳を握りしめた。
自分は、失ったのではない。
最初から、持っていなかったのかもしれない。
――その時、扉が開く。
「殿下!」
衛兵が駆け込んできた。顔面蒼白で、声が上ずっている。
「北門の倉庫で暴動です! 『王城が隠している』と民衆が押し寄せ――!」
報告の途中で、宰相が立ち上がった。
「隠している? 違う……」
彼は低く呟き、まるで自分に言い聞かせるように続けた。
「隠しているのではない。……もう、回っていないのだ」
レオンハルトは椅子から立ち上がれずにいた。
背筋を冷たいものが走る。
彼女を無能と呼んだ夜から、まだ日も浅い。
なのに、国はもう――
音を立てて、崩れ始めていた。




