第三章 「奈落」
本日最後の講義。終了の鐘が鳴ったとき、ナタリーから端末にメッセージが届いた。
[1F渡り廊下に集合!][食堂でミーティング!]
寮の自室に戻り、荷物を置いて集合場所に向かう。三人がクレアのことを待っていた。
「遅く、なりました」
「大丈夫よ、クレア。私も今ついたところ。ナタリーが唐突すぎるだけ」
「ミーティングが必要だって言ったのはルーティじゃん?」
「言ったけど、明日でもいい話でしょ!」
「まぁまぁ、いいじゃないですかっ。私お腹ぺこぺこです」
「明日と言えば……」ルーティが言った。
「前の任務で救出した三人の少女たちの聖杯検査があるわ。朝一番だから、忘れずに検査室に集合して。最後まで立ち合いよ」
あのイドラの襲撃が彼女たちのトラウマになりそうなら、聖杯連結で苦しみが軽くなるようにサポートをしなければならない。
ナタリーはしぶしぶ、リンは元気よく返事をする。クレアも短く「はい」と応えた。
四人そろって食堂へ向かって歩き出す。
一階の渡り廊下は壁や窓がなく、開放された作りになっている。午後からの強い風がごうっ、と横切り、髪を振り乱す。クレアは、ふと空を見上げた。
――あの日と同じ……
空は夕焼けだった。血に濡れたように真っ赤に染められていた。不安な気持ちが湧いてくる。目をそらせばいいのに、なぜか惹きつけられる。
「クレア!」
突然、後ろから名前を呼ばれた。プロダクションでは聞いたことがない声だった。
「クレア、だよね?」
その声がじわじわと心に、記憶に浸食し、何かにつながった。体が固まる。
ナタリーたちが後ろを振り向く。
「クレアの知り合い、かな?」
「あの子は、明日検査を受ける三人の……」
「先輩っ!? 大丈夫ですか? 顔が真っ青ですよ」
覚悟を決めて、うしろを振り向く。
同い年くらいの少女がいた。ミディアムボブの髪型で、一週間前の任務で救出した少女の一人だと思い出す。しかし、クレアはそれよりも前に、彼女のことを知っていた。思い出そうと記憶をたどっていく。その先には、ぽっかりと口を開けた奈落があった。進むべきではない。でも、止まれなかった。
「私は、メイです!」
目の前の少女が名乗ったとき、真っ赤な空が爆発し、目の前を紅く塗りつぶした。
麻袋越しの視界。ぬかるんだ泥の感触。土の臭い。嘲笑の声。ナイフの閃き。紅い血。全力疾走。弾む鼓動。真っ赤に燃える夕焼け――そして、浮遊感。
胃がふわっと浮くような怖気立つ感覚に、思わずお腹に手を当てる。気持ち悪さをこらえながら、クレアはメイに向かって叫ぶ。
「や、やめて……来ないで! もう、これ以上いじめないで!」
「クレア……?」そう言って、メイがもう一歩近づく。
「やめてぇっ!」
呆然と成り行きを見守るキャメロットの三人をおいて、クレアは渡り廊下を飛び出した。
夕日で紅に染まった中庭を駆ける。ぜいぜいと息が切れるほど全力疾走をつづけ、これ以上走れない、というところで立ち止まった。
見渡す限りに広がる暗闇の空。クレアが立つのは緋色の大地。割れるように痛む頭を抱えながら一歩踏み出すと、足元に突如、大穴が開いた。底は見通せない。どこまでも暗闇だった。緋色の大地が上方に遠ざかる。クレアは奈落へ落ちていった。
意識を取り戻したとき、クレアは薄暗い部屋に横たわっていた。
――ここは、どこ……
起き上がって深呼吸をする。嗅ぎなれたにおい。それで思い出した。ここは母親とともに生活していた家だ。クレアは、居間の隅にうずくまって眠っていたようだ。
目が慣れてくる。部屋の真ん中に一人、子どもがいることに気がついた。顔を伏せ一言もしゃべらず、じっと立ち、ときおり長い前髪越しに前を覗き見ている。
――あの子は、わたしだ。
十七歳のクレアが、五、六歳くらいの自分を目撃している。
子どものクレアの傍らに、母親が現れる。椅子に腰かけて、憎しみに満ちた顔で子どもを見下ろすと、テーブルを、ばんっ、と叩く。クレアは身をすくませて、縮こまった。
「なんであなたはこんなに育てにくいの!」
母親がクレアに向かって、毎日のようにぶつけていた言葉だ。「あぁ~もぉ~」と、髪をかき乱しながら、彼女はさらに顔を歪ませる。
「どうして、こんなことに……!」
突然、母親が悲鳴のような金切り声を上げた。ぎりぎりと歯を食いしばる。
「なにか言いなさいよっ! 私のことを見なさいよっ!」
母親がクレアの肩をつかみ、必死にゆする。母親の変貌が恐ろしくて、顔を上げられない。そのうち、ゆすられることも、聞くに堪えない悲痛な声もなくなった。
その代わり……初めて、母親に殴られた。
クレアが小学校から帰宅すると、母親が蝋で固めたような表情で、玄関口にたたずんでいる。それを見ると、心が、ぎゅっと音を立ててしぼむのがわかった。
――痛いのは、もう嫌だ……
いつものように、小さな希望を抱くが、それが叶ったことなんて一度もなかった。
「おかえりなさい。遅かったのね。早く家に入りなさい」
張り付いた笑顔のまま母親がそう言うと、背中を押されて、家の中に押し込められる。振り向くと、彼女はどこか遠くを見つめる虚ろな表情をしていた。
「どうして、遅かったの」声が冷たい。「どうして、遅かったのって聞いているでしょ!?」
「……先生に、呼び止められて――」突然、脇腹に痛みが走る。「いぅっ!」
母親の手がそこにあった。親指と人差し指で皮と肉をつまみ、思いきりひねっている。クレアの体には、これによってできたあざや叩かれてついた手形が無数に残っていた。歯をきしらせながら、彼女が言う。
「先生と私、どっちが大事かわかってるでしょっ? 何度言ったらわかるのよ!」
クレアは痛みを懸命にこらえながら、「ごめんなさい」と途切れとぎれに伝える。
それで、母親は気が済んだのだろう。手がクレアの脇腹から頭へ移り、撫でまわす。下から覗いた彼女の顔は穏やかだった。
「さぁ、今日も私をたすけてね」
クレアは、母親が放棄した炊事・洗濯・掃除を行って、毎日「たすけていた」。
母親は、父親との間で「とても悲しいこと」があり、クレアも「母親の気持ちや言うことが理解できない悪い子」だったため、一日中元気が出ないことが多かった。クレアの帰宅後、ようやく動きはじめ、得意だという料理に取り掛かるが、そこでガス欠になってしまうのだ。
夕食後、お酒に酔った母親は父親を呪い、近所の人をののしり、悲劇の中にいる自分を慰めながら、いつのまにか眠ってしまう。その後片づけを行うのもクレアだった。
あるとき、母親の料理をたすけることになった。
料理をする母親はとても楽しげで柔らかい表情になる。クレアは、それに安心して、つい口を滑らせてしまった。
「お父さんにも作ってあげたいな……」
母親が遠くを見るようなあの虚ろな顔をした。
「なに、それ…………」
問答無用に、ばちんっ、と平手打ちをされた。
「あの男の話はしないでって何度も言ってるでしょ!? どうして、いつも私に同じことを言わせるのよ? 私の話、聞こえてないの? もっと大きな声で言わないとダメ!?」
「き、きこえています……」
クレアはうつむき、軽率な行動を反省する。母親は早口でまくしたてた。
「それなら、なんで理解できていないの! どうしてそんなに頭が悪いのよっ!」
感情的になって口答えしたり、泣いたりしたら、いつものようにもっとひどいことになる。クレアは心を自分から切り離すようにじっと我慢する。
「聞いてるの!?」
右手の親指に、すっと冷たい感覚が通りすぎた。なんだろうと思い、親指の付け根あたりを見る。ひとすじの線があった。それが紅く染まっていく。
「血っ……!」
「ようやく反応した」母親がクレアに包丁を突きつける。「こうでもしないとダメなのね」
流れる血の赤さに驚き、包丁を持つ母親の姿に戦慄した。涙があふれ、声が震える。
「そんな傷、すぐに治る!」母親は包丁を置いてクレアの肩をつかむ。「うるさいっ! 泣き止めっ!」
背中や脇腹、上腕に太もも。他人からは見えづらい箇所を執拗に叩き、いつものようにつねる。どこにそんな力があるのかと思うほどの強さだった。
こうして罰を与えられている間に泣き止まなければいけなかった。謝罪し、すぐに過ちを正すことができれば、母親はやさしい顔をしてくれる。それを見れば、安心できる。正せなければ、彼女の苛立ちは増していく。痛みと恐怖も大きくなる。
しかし、どうすれば涙を止められるのか。自分のことなのに、わからなかった――
親指からの出血は、圧迫をつづけることでようやく止まった。
叩かれて腫れた肌が熱をもち、頭がぼぉっとする。全身がとてもだるかった。それでも、母親は休ませてはくれない。クレアは、こぼれた血の後始末をして、母親の何度目か忘れてしまった説教を聞いている。
「クレアは、私から産まれた。だから、私の分身。私を愛して、私の気持ちがわかるのもあなただけなの。だから、クレアは私をたすけなきゃいけないのよ。私もね、お母さんをたくさんたすけてきた。私のお母さんはね、すごく厳しくて、最初は何度もなんども怒られたわ。でもね、いつでもどこでもお母さんのためにって、考えて行動してきたからちゃんと愛してもらえていたのよ。子どもはね、親の言うことがすべて。必ず優先すべきこと。親に恩返ししないと幸せになれないのよ。お母さんが病気で死んで……入れ替わるようにあなたが産まれて……。私にようやく幸せがおとずれたって、うれしかったわ。私の子どもは、きっと優秀なはず。よく笑ってかわいくて、私の気持ちを理解して、私を愛してくれて……だから、私も愛することができる。そんな幸せな親子になれる。そう思っていた。だけど、あなたはそうじゃない。気持ちをわかってくれないし、愛してくれないし、私の味方になってくれない。だまされた。裏切られた。あなたは、私の幸せを脅かす存在。私を困らせ、悩ませる障害……。それでね、私は決意したの。お母さんみたいに、あなたをお説教したり、痛いことをしたりして厳しくしようって。正しい形に戻して、幸せになるためだから、我慢してね」
クレアは一言も口をはさむことなく、約三時間、ひたすらに母親の話を聞いた。基本的には今の話の繰り返しだった。そのおかげで、幼いクレアにも、母親が「親子」をどう考えているのか、なぜこんな仕打ちをするのかを理解できた。
この状況はいつ終わるのだろうか。いつまで、こんなに痛くて苦しい思いをしなければならないのだろうか。母親の周りには、父親も親しい友人も近所の人もいない。子どもであるクレアだけだった。だから、彼女から逃れることなんてできない。
そう考えると、目の前が真っ暗になった。
母親をたすけ、おしおきとお説教を受ける、そんな毎日がクレアから睡眠時間を奪っていく。その影響は、学校生活にも現れた。何をしても癇に障る日や、どうしても元気が出ず、何もできない日が増えていったのだ。
そんな日に同級生と上手に話すことはできなかった。きつい言葉に反感を抱かれたり、卑屈な言葉を嘲笑されたりして、教室全体から腫れ物に触るような扱いを受けはじめる。
そうやって、クレアは「空気が読めない子」となり、無視されたり、持ち物を隠されたり、壊されたりするようになった。
しかし、家での母親との生活に比べれば格段に楽だった。同級生なんて赤の他人。何より痛くないから、いくらでも耐えられる。そんなことよりも、クレアが気にしなければならないことがあった。この状況をどうやって母親に隠すか、だ。
クレアが登校しようと、靴を履いているとき、母親が呼び止めた。
「学校の誰にも、家のことを話したらダメよ」
「はい」
毎日同じ言葉だった。次の言葉も決まっていた。
「それから、学校で問題を起こさないで。もし、起こしても自分で解決して」
クレアはお腹を一度さすって立ち上がる。
「はい」
今のところ、クレアが学校でいじめられていることは、母親に伝わっていない。学校からの連絡もないようだ。認識していないのか、見て見ぬふりをしているのか。どちらかはわからないが、好都合だった。それに、母親の味方としてがんばってきた結果、いろいろなことに注意が行き届くようになった。母親の心労が減って、暴力もお説教も少なくなった。
今の生活が普通になってきた。あともう少しで、きっと楽になる。しかし……
――うぅ、また。
学校に行こうとすると、お腹が痛みだす。行きたくない、と体が反応しているのだろうか。しかし、この腹痛に負けたら、いじめられていることが母親にばれる。彼女は混乱し、クレアを味方だと思えなくなるだろう。そうなれば、痛くて苦しい時間が再び増える。
大きく息を吸って、止める。全身に力を込めたあと、息を吐きながら力を抜いた。いろんな痛みが少し気にならなくなる。ささやかなおまじないだった。
――わたしが我慢すれば、なにもかもが上手くいく。それでいい。
やがて終わりが来ることも知らず、心と体をすり減らしていたとき、
クレアはメイと出会った。
それは、夏の下校中だった。
顔を伝う汗さえすぐに渇いてしまいそうな炎天の下、全身のあざを隠すために、長袖のシャツに長ズボンをはいたクレアが家路を走る。吐き出す息は、蒸気のように熱かった。
――あと……もう少し……
自宅近くの公園が見えた。しかし、クレアはめまいを感じてその場に座り込んでしまう。このままでは帰宅が遅れる。何とかして立ち上がろうとしても、全身に力が入らない。立ちくらみで倒れそうになる。
「大丈夫!?」
後ろから声がかかり、しっかりと抱きとめられた。クレアと同い年くらいの少女だった。
意識がもうろうとする中、その少女はクレアを公園の木陰に運び、服をはだけさせた。飲んでいた水を、露出させたお腹や腕にかけ、かばんから取り出したノートであおぐ。木陰のひんやりとした空気がとても心地よかった。
ようやく身体が冷えて意識がはっきりする。クレアは、されるがままになっていたことを後悔した。お腹や腕のあざを見られた。起き上がって服装を元に戻す。
「もう起き上がっても平気?」
ミディアムボブの少女は、たくさんの異様なあざを見たのに驚いていないようだった。あおいでいたノートを置いて、心配そうにクレアを見つめる彼女はすごく大人っぽく見える。
「あざのこと……誰にも言わないで」
「とても痛そうだった……」
「全然……痛くないから。それより――」
「誰に……やられたの?」
「えっ」クレアは身構える。「それは、自分で……」
「もしかして、お母さん、かな?」
息が止まりそうだった。母親の怒る顔が脳裏に浮かぶ。どうやってこの場を切り抜けるか、考えつかずにパニックになりかけたとき、メイがおもむろにシャツの裾を出して、たくし上げる。彼女のお腹には、その白い肌には似合わない、青黒いあざが無数にあった。
「私もね、お母さんにやられているの」
クレアは、思いもしなかったこの状況に平静を失って、話してしまった。
「わたしのも……お、お母さんに……」
「そう、なんだ……」あざだらけの脇腹をシャツ越しになでられる。「痛かった、よね」
――がまん、していたのに……。
誰もわかってくれない。だから、必死に痛さと苦しさを我慢してきたのに。
こんなところまで近づいてくれた。心をつないでくれた。じわじわと目から涙が湧いてくる。手で顔を覆い、どうしようもなくなって、泣きじゃくる。
「う、うん……」肩とともに喉もふるえた。「いた、かった……い、痛いって言っても、お母さんは、やめて、くれなくて……」
「痛いよね。お母さんはひどいね。苦しかったよね」
彼女はクレアの頭を撫でる。その手がとてもやさしくて、涙が再びあふれ出てきた。
クレアがようやく泣き止んだあと、互いに自己紹介をした。彼女の名前はメイ。クレアとは違う学校に通う子で、この辺りに住まいがあるそうだ。クレアはもう一度、口止めを行う。
「お母さんが誰にも言うなって……秘密にしないと」
「うん、大丈夫。実はわたしも同じ。お母さんにずっと言われている。クレアのこと絶対に誰にも言わないよ。その代わり、わたしのことも黙っていてね?」
「わかった」
メイも学校のクラスでいじめられ、家の中では母親に虐げられている、と話してくれた。いつも下を向いて誰とも話さず、ただひたすら苦しみに耐えているそうだ。
お互いに似た境遇。だからこそ、この苦しみがわかって、心をつなぐことができた。それがうれしくて、ちゃんと大事にしたかったクレアは、今度は自分から彼女に会いに行った。
クレアとメイの交流は少しずつ増え、二人は放課後の帰り道で待ち合わせるようになる。
帰宅までの少しの時間で、たくさんの話をした。クレアは得意な料理のことを。メイは最近読んだ小説のことを。二人は相手の話を夢中になって聴いた。それだけでとても楽しかった。
――この時間がつづいたらいいのに……
クレアのその願いは思いがけずに実現する。
進級したタイミングで、メイがクレアの学校に転校してきたのだ。両親が離婚し、父親がメイを引き取った結果、このようになったらしい。さらに、同じクラスになれたこともあり、二人は抱き合って喜んだ。クレアをいじめる加害者たちも同じクラスだったが、そんなことは、メイとは関わりのないことで、もうすぐこの苦しみから解放される。そう確信していた。
しかし、その希望はあっけなく打ち砕かれてしまった。
一人で帰ることになった放課後、クレアは教室に忘れ物を取りに戻った。
開放されたままの扉から自分の机が見える。その中を誰かがあさっているのを目撃した。
――あれは……メイ?
思わず、息を呑んだ。
メイは、クレアの忘れ物だったテキストを机の引き出しから取り出して、じっとそれを見つめたあと、きょろきょろと周囲を確認する。彼女の顔がクレアのいる廊下に向けられる寸前、隣の教室に滑り込み、扉の影に隠れた。
心臓の音がメイに聞こえてしまうかもしれない、そう思えるほどの静寂のあと、廊下を駆けていく足音が聞こえた。クレアは教室に入って、机の引き出しを確認する。
「ない……」
メイがクレアのテキストを持ち去ったのだろうか。しかし、なぜこんなことをするのか、理解ができなかった。
「昨日、忘れていたよ」そう言って、メイが直接渡してくれる。そう信じていたが、翌日登校すると、そのテキストは手洗い場で濡れてよれよれになっていた……
その日から、メイは遠ざかっていった。クレアをいじめるグループの輪の中で、仲良さそうに話し、笑い合っている。その光景を見ているだけで心が痛いのに、いっしょになって無視されたとき、心の中で何かがぷつり、と切れた。
同級生や先生に無視されたり、ものを隠されたり、壊されたり、傷つけられたりしてもいい。彼ら彼女らに期待していない。我慢すればいつか終わる。そう思っていた。
しかし、メイだけは、違う。彼女にもいじめられている。たったそれだけで、我慢できていた強い自分は打ちのめされてしまった。
あんなに通じ合っていると思ったのに、こんなに簡単に人の心は変わってしまう。
あの夏の日の大切な思い出さえも壊れてしまいそうで、メイに尋ねることもできない。
クレアはもう、あきらめた。家にも学校にも関わろうとしてくれる人はいなかった。クレアの味方は一人もいない。
そして、クレアは限界を悟った。
ある日のことだった。
母親に疑われないように、沈んだ心を必死に引き上げて、クレアは学校へ行く準備をする。
玄関で、いつもの腹痛に襲われた。強く締め付けられて立っていられなかった。壁に寄りかかって、その痛みをぐっとこらえる。
お腹から何かが込み上げてきた。あわてて玄関を出て、近くの公園へ急ぐ。人目につかない遊具の裏へ駆け込んで、のどに上がってきたものをすべて吐き出した。口にまとわりつく甘いような、苦いような酸味とむせかえる臭いに包まれる。
――もう、がまんできそうにない……
壊れてダメになる前に、母親にばれる前に、なんとかしないといけない。
――あいつらに大きなけがをさせたら……
いじめがなくなるかもしれない。母親に包丁で切りつけられたことを思い出した。その痛さと流れる血の衝撃的な光景。これなら、彼ら彼女らを黙らせることができるはず。
――わたしが事故にあえば……
ここからいなくなれる。痛みも苦しみもきっとなくなる。高いところから飛び降りるなら、道具いらずで、一瞬だ。
――でも、そんなことしたら……
絶対に騒ぎになる。そうなれば母親にすべてを知られてしまう。痛いのは、もう嫌だ。
クレアは、堂々巡りの思考を延々と繰り返していた。
「むずかしい顔して、なに考えてんの? きもちわるい」
今話しかけてきた、いじめグループのリーダーにあたる同級生に、けがを負わせる方法を考えていたクレアは、顔を上げた。頭の中で、彼女にやったこと思い出す。それが現実になればいいのに、とがっかりした。
「なによ、その顔……なまいきなことでも考えてた? 言ってみなよ。確認するから」
「……わたしをいじめる他に、することないの?」
クレアはそう言って、席を立つ。
「はぁっ? なによそれっ!」
ワンレングスの髪を振り乱して、同級生がつかみかかってくる。とっさに避けたクレアは、その勢いのまま廊下に飛び出した。
「捕まえて!」
廊下にいた、いじめグループのメンバーが、進路を妨害しようと左右から次々と手を突き出す。必死に避けながら廊下を駆ける。
「逃がさないから!」
ワンレングスの同級生が追い付く。三階から二階への下り階段で、彼女の手がクレアに迫る。ちょうど階段に足をかけたとき、背中を押された。バランスを崩して階段を踏み外す。
体が宙に投げ出された。姿勢を変えて、階段の中腹に背中から落ちる。すぐさま体を回転させて、転げるように踊り場へ落ちた。両腕、両脚がとても痛かったが、頭は無事だった。
クレアは何事もなかったように立ち上がる。階段の上には、追いかけてきた同級生を筆頭にいじめグループが集まり、踊り場を見下ろしていた。人だかりの向こうにはメイもいる。
「これで大けがしてたら、これ以上いじめられずに済んだかもね!」
上にいる誰かの声。見上げる顔すべてが唇をゆがめて忍び笑いをした。クレアは、すべての視線から逃げるように顔を伏せる。
「今のは『前方不注意の事故』だよね?」追いかけてきた同級生が長い髪をかき上げる。「しかも、クレアはお母さんが怖いから、このこと誰にも言わないんだよね?」
母親という言葉で動揺する。ばれてしまうことを考えると、恐怖で落ち着かない。
「…………今のは、事故です」
「なにか言った? 声が小さくて聞こえなーい」
踊り場に涙がこぼれる。
三階に群がる同級生たちが口々にクレアをなじりはじめた。その言葉に押し出されるようにして二階へ降りた。
どこを向いても行き止まりだった。それでも逃げなければいけない。
目を凝らすと一本の道が現れた。クレアはその道に足を踏み入れる。




