第2話.緑深きシリエール
耳元を風が駆け抜けていく。ウルは喚び出した霊杖ウラヌリアスで飛行魔法を発動し落下速度を調整した。そして空中でくるりと方向転換して、飛び出したばかりの故郷ユグラカノーネを振り返る。
その隣で悠々と大きな漆黒の双翼で風を弄んで飛んでいるシヴァが、ウルの動作に気づいて近づいてきた。
「どうした? もう寂しくなったか?」
「違うよ。こうして外からユグラカノーネを見ることになるなんて、小さい頃は思いもしなかった」
外から見るユグラカノーネは、教えられていた通り世界樹ユグドラシルに抱かれた国であった。巨大なユグドラシルの根が小さな大陸を絡め取って空まで持ち上げてしまったかのような姿をしている。
大陸の所々の端から水が滝の様に降り、途中で霧になって空気に溶ける様が美しい。大陸から飛び出たユグドラシルの根に巣を作った鳥が飛び回っていた。
「とても綺麗な国だ」
「そうだな」
「僕たちが、守る」
「ああ、そうだ」
ウルはウラヌリアスを握っていない方の手をユグラカノーネへ向けて伸ばした。それからくるりと再び方向転換して今度は地上に目を向ける。
ちぎった白綿の様な雲の間から微かに、広大で端の分からない大陸が見えてきた。先程ユグラカノーネを見上げたばかりだったので、ウルはその大きさに驚いた。
「これが地上?! すごく大きくて広い!」
「くくっ、そうだな」
子供の様なウルの歓声にシヴァは笑って頷く。ウルは魔法で、シヴァは翼で調整しているとは言え、ほぼ自由落下なので人間やエルフの住まう大陸はぐんぐん近づいてきていた。
ぽつぽつと辺りに散らばっている建物の群は人間の国。青い瞳の様な湖や、誰かが筆で描いた様に美しい曲線の川、切り立った山脈や木々の群生する森は深い緑色だ。季節は緑が深くなる夏である。
「シヴァ、エルフの国は?!」
「あれさ」
シヴァが指し示した先には、他の森と一見して変わらない深緑の森であった。しかしよく目を凝らすと、その地に巡る豊かで強い魔力が見える。
「何だか……すごい土地だな」
「やっぱり分かるんだな。森全体に目眩ましの魔法がかかってて、魔物や人間には見つけられないんだ」
シヴァは半霊半魔であるから運良く見つけることができたのだろう。
「あの森全体に目眩ましの魔法? それは誰がかけてるの?」
「エルフの国の女王様さ」
「すごい……あの大きな森を常に魔法で覆い続けるなんて……」
ウルはその女王がどんな人物なのか、とても気になった。怖い人だったらどうしよう、と少し不安になる。
眉尻の下がったウルの表情からその考えを読み取ったのか、シヴァが喉を低く鳴らして笑った。
「あの人はそこまで怖くないぞ。安心しろよ」
「君、会ったことあるのか……」
「当たり前だ。国に滞在する許可を貰いに異種族の客人は直接あの人に会うんだよ」
「へ? そんな、危険じゃないのか。よく分からない異種族の人と、いきなり女王様が会うなんて……」
片眉を上げてそう訊いた彼に、シヴァは溜め息をついて「やれやれ」と答えた。
「あの大きさの結界を一人で常時維持している人だぞ。霊王か冥界の皇帝でも来ない限り危険は無いさ」
ウルはもう何も言えなくなった。
――――………
エルフの王国シリエールは別名、緑深きシリエールとも言い、その名の通り地中深くを巡る豊かな緑の魔力が森林を育み、水を澄ませている。
この森の魔力を帯びた白岩や白木で建てられた住居はうっすりと緑の燐光を放ち、魔物から住人を守ると言われている。昔から、この森に満ちる緑の魔力は魔物を退けると伝えられているのだ。
大きな森の中央に女王の館があり、その東西に人々の居住区、南に軍の練兵場、北に魔法学園がある。
ついに地上に降りた二人は、シリエールの南側に立っていた。しっとりとした森の香りが辺りに満ちていて心地がよい。
「わぁ……こんな大きな森、ユグラカノーネには無いよ。すごいなぁ」
ウルは木々を見上げて呟く。自然が生み出した強い魔力が満ちる環境は精霊である彼にとってとても気持ちの良いものだった。
半霊半魔でも、その性質は若干精霊の方に傾いているシヴァも深呼吸をして空気の心地よさを味わっている。
「ユグラカノーネより肌に合う」
「僕はあんまり変わらないなぁ。ユグドラシルの力が遠のいて、少し身体が重い気もするけど……」
すぐ慣れそう、とウルは空を仰ぐ。こんなにユグドラシルから離れたのは生まれて初めてだが、何となく離れても平気だという気がした。
「それにしても、すごい結界だ」
さくさくと歩き始めるシヴァを追いかけながらウルはそう言う。好奇心に弾む彼の声にシヴァは振り返りもせず「そうかい」と適当な返事をした。
ウルはドキドキしながら結界を越える。シヴァは慣れたものだ。ふわりと空気の膜を通り抜けるような感覚の後、二人の前に淡い緑の光粒がふわふわと飛び交う、シリエールの森の真の姿が現れた。
様々な種類の木々が立ち並んでいる中、一番多いのは幹や葉が白緑っぽいこの森特有の木である。そんな森の中を大地から生まれた薄緑の魔力粒子が漂っていた。神秘的な光景だ。
「すごい……なんて綺麗なんだ」
足下を魔力が巡る。その緑の力はまさに命の脈動。一歩、地を踏むごとにふわりと魔力粒子が舞った。
ウルの身体から時折ほわりと舞う薄紫の魔力粒子が吸い寄せられるように、木々に地面に沈み込んでいく。
「わっ!」
「どうした?」
そこで突然ウルがそんな声を上げたので先を歩いていたシヴァは怪訝な表情で振り返った。
「……何してる」
「わ、分かんないよ! なんか、勝手に寄ってくるんだ!」
シヴァに軽く睨まれたウルはそう反論して腕を振る。彼に纏わりついていたふわふわしたものが飛ばされて、そしてすぐに戻ってきた。
そのふわふわしたものは、薄緑や薄青、薄赤や薄黄と淡い色をした球体で肌に触れるとふわふわの綿毛の様な感触だ。しかしウルが掴もうとするとその手はふわふわを通り抜けてしまう。
「何これ! 君、よく見れば睨んでいるようで笑ってるじゃないか! 知ってるんだろう!」
彼の言葉の通り軽く睨むふりをして笑いを噛み殺していたシヴァは「はいはい」と肩をすくめて、ふわふわに取り囲まれたウルのところまで歩いてきた。
「困ってるだろ。やめてやれ」
そうして彼が声をかけると、ふわふわたちは素直にウルから離れる。そしてシヴァに集り始めた。
その様子をウルは目を丸くして眺める。
「君の言うことを聞いた……なんで?」
「興味が移っただけだ。こいつらはそう言うものだから」
「この……この子達は何なの?」
シヴァは霊弓テンペスタに集るふわふわを眺めながら答えた。
「地霊だよ」
豊かな自然の魔力から生まれる魔力生命体である。
――――………
さて、ふわふわした地霊を引き連れながら二人がしばらく進むと唐突に開けた場所に出た。軽く整えられた道の先に、淡い緑を帯びた白岩の堅牢な砦が建っている。
「建物だ……上から見たときは見えなかった。やっぱりすごい目眩ましなんだなぁ」
「これは『獅子弓軍練兵場』。この国の兵士たちが鍛えてる」
「へぇ……」
その時、ガサッと背後の木の枝が微かな葉擦れの音を立てた。シヴァの翼の上をころころ移動していた地霊たちが、わぁっと逃げていく。と同時にシヴァはテンペスタを引き絞って、現れた青雷の矢の先を背後へ向けた。
「……リンだな。出てこい」
「…………」
パシッと弾ける青雷の鏃に負けぬ鋭さでシヴァはそう言い放った。そして数呼吸の後、枝がガサガサッと動く。シヴァは弦を戻した。
「はぁーつまんないの。何で気づいちゃうかなぁ?」
そう言いながら、ストンッと体重を感じさせない軽やかさで着地したのは、しなやかな身体に深緑の衣装を纏ったエルフの少年であった。
リン、と呼ばれた彼は白い肌に映える長い赤毛を項で結び、先の尖った耳にその瞳と同じ蒼穹色の耳飾りを着けている。
着地した姿勢から身を起こした彼は、手足がすらりと長い。生成りのズボンに茶革の編み上げブーツを履き、水竜の素材で作られた蒼い弓を背負っている。
(弓引きだから腕が長いんだなぁ)
ウルはそんな感想を抱きながらその少年を眺めていたが、楽しげにシヴァと二言三言交わした彼の蒼い瞳がふいにウルの方を向いた。
「何、これ精霊? しかも羽根が無いってことはアルタラの一族とか言う、絶対自国から出てこない引きこもりみたいな奴じゃん! どうしたの? あ、可愛いから誘拐しちゃったとか?」
「人聞きの悪いことを言うな! ちゃんと許可はとって連れてきてる」
(まあ最初は誘拐だったけどな)
内心そんな言葉を付け加えながらシヴァが答える。ウルとしてはそんなところよりもっと否定してほしいことがあるのだが。
唇を引き結んで握り拳を震わせるウルの様子に気づかない二人の間で話は進んでいく。シヴァの答えにリンは目を丸くした。
「じゃあ霊王公認ってこと? そんなことってあるの?」
「まあ、あったからこうしてここにいるわけだ」
その答えを聞いた後、リンは「へー」とウルを上から下まで観察して頷くと微笑んで再び口を開いた。
「僕はリンドリス・ユレイグ。獅子弓軍の穿爪将軍だよ。よろしくね、精霊のお嬢さん」
ぷちん、とウルの中で何かが切れた。
「僕はっ、男だぞ!!」
目を見開いて固まったリンの隣で、シヴァが「くくく」と口を覆っていた。彼は勿論気づかないふりをして話を続けていたのである。この後二人が隠すことなく笑い始め、ウルはしばらく機嫌を直さなかった。