陸 須賀(スガ)
じゃぶじゃぶじゃぶ…
あたしは、目の前の小川の畔に腰を掛け、一生懸命に衣服を洗っている。使用している洗濯板も、既に山がほとんど擦り切れていて、洗濯板としての役目を果たさないまでになってきていた。
横に置いてある桶には、まだ山の様に洗濯物が積まれている。全部洗うには、相当な時間がかかりそうだ。
季節は秋から冬へ変わろうとしているが、額には汗が流れる。あたしは腕で汗を拭い、再び洗濯板へと向かう。この洗濯が終わったら、今度は屋敷内の掃除だ。今まで住んでいた屋敷にはお抱えの侍女もいたし、両親もいた。だから、まさかあたしが一人で住む屋敷の掃除をすることになるなんて、あたし自身が思ってもいなかった。
だけど、愛する方と一緒になり、生まれ故郷を出てしまったからには、あたしは全力であの方のお世話をしなくてはならない。最初はかなり戸惑ったし、失敗も多かったけれど、あの方はそんなあたしを責めもせず、ずっと見守ってくれた。
そしてようやくこの環境にも慣れてきた。掃除、洗濯に、食事の用意、今では、普通の女性と同じようにこなせていると自負している。
日はまもなく真上に差し掛かろうとしている。普段通りなら、あの方が狩りから帰ってくるはずだ。今日は何を捕ってきてくれるのだろう。昨日はウサギだった。一昨日は猪。二人で食べきれるだけを捌き、残りは近隣の村に他の品物と交換にいく。今の動物たちは、冬ごもりの前であるせいか丸々と太っている。しかし、そのせいか警戒心が強く、一日に狩りを出来る頭数などたかが知れている。だからこそ、そんなご時世に毎日、獣の肉を交換に来るあたしたちは、村々からかなり受けがいい。中には、村に移り住まないかと進めてくる長もいるほどだ。けれど、あたしと夫はこの須賀の地で生きてゆくと決めた。ゆくゆくはここに村を造り、人々が安寧にできる場所を提供出来ればいいと思っている。
そう、あんな、八岐大蛇に脅かされることのない、平和な地を。
考えながら洗濯をしていたせいか、あまり手が進んでいない事に気が付き、あたしは手を動かすペースを早める。すると、背後から声が聞こえた。
「おいおい、そんなに擦ったら、着物が破れてしまうぞ」
あたしが振り返ると、そこには大きな牡鹿を背負った男性が立っていた。腰には一振りの美しい直剣、背中には弓と矢。真っ赤な甲冑に、同色の具足。長い髪の毛を耳前で結わうその男性は、あたしに微笑んでいる。
「お帰りなさいませ、やく…」
言いかけて、すぐに訂正する。
「…あなた」
「ああ、今帰った」
その場に担いでいた鹿を下ろし、座り込む。
「そなたが我のことをそう呼ぶと言うことは、来客があったのだな?」
「はい、久方ぶりに、比女さんがお出でになったのですわ」
…比女?比女はあたしなんだけど…。
そっか、あたしは、また夢を見ているんだ。でも、あれ?一昨日に見た夢は、あたし、忘れてるんじゃなかったっけ。あたしが古代神話に登場する稲田姫だって夢。現に、昼間には思い出せなかったのに…。それに、今度の夢は、あたしが稲田姫そのものになっている。
「そうか、そなたと我の結婚の日以来だな」
「はい、あの時も、遠くからわたしと素戔嗚様をご覧になっていましたわ。声くらい掛けて頂きたかったのに」
と、あたしはころころと笑う。
結婚式…。着飾った稲田姫と、素戔嗚が手を取って駆けてゆく姿をあたしは思い出す。でも、なんであたしがそんなところに…。
「もう、半年も前の事になるか…。あの時、比女と八雲の力がなければ、我は八岐大蛇に敗北していたかもしれん。だが、まさか我とそなたが遠い未来に生まれ変わっていて、再びこの時代を訪れるなんて事になるとはな」
はい?何を言ってるのこの人。そもそも、あたしと誰だって?
「確かに、命の恩人であることには代わりありませんが。ですが、彼らもわたしとあなたなのですよ。未来でも、きっとなにか重大な理由があったのですわ」
ぜんぜん話が見えない…。稲田姫と素戔嗚は、一体何を話しているの?あたしと八雲が稲田姫と素戔嗚の生まれ変わり?八岐大蛇って、あの八岐大蛇?あたしと八雲が、この時代で八岐大蛇を討伐したってこと?
「そうであろうな。そなたが度々比女と会うように、我も八雲とは何度も会っている。だが、奴は奴の時代のことは何一つ喋ろうとせぬ。歴史に干渉したくないとの、奴なりの気配りなのだろうが…この時代に現れる時点で、既に干渉していることを分からぬのかな。我が文に書き記すだけで、後世での歴史も変わってしまうだろうに」
素戔嗚は、腕を組んで豪快に笑った。あたしも釣られて笑う。
「八雲さんらしいですわね。でも、あなたはそれをするおつもりはないのでしょう」
「当然だ。この出来事は、我らが墓まで背負ってゆく。そう二人で決めたではないか」
素戔嗚は、鹿を抱えて立ち上がる。
「さて、早めにこいつを捌いて、交換に行かねば日が暮れてしまう」
「よろしくお願い致します。わたしは洗濯を終わらせてしまいますわ」
「わかった。今夜のメシも期待しているぞ」
素戔嗚が行ってしまう。あたしの視線も、再び洗濯物に向かった。
ちょ、ちょっと待って、もう少し話を聞かせて!もう少しで、何かを掴めそうなの!あたしに失われているものが何なのか、もう少しで!
「ま、待って!素戔嗚、稲田姫!」
あたしは腕を伸ばして叫んだ。目の前には、驚いている八雲の顔がある。
「び、ビックリした…。どうしたんだよ、いきなり叫んで…」
「あ、あれ…八雲?」
上体を起こし、周囲を見る。そっか、ここはあたしの部屋だ。朝に体調を悪くして、眠ったんだっけ。窓を見てみると、真っ赤な西日が差し込んでいる。夕方か、結構寝ちゃったなぁ。
「ちっとうなされてたみたいだが、大丈夫か。由女ちゃん帰ってきたぞ」
「えっと…今何時…?」
八雲があたしの部屋の時計を見て呟く。
「五時半…だな。オレ、バイトが入ったからこれで行くけど…いいよな?」
「うん、ありがとね。ずっといてくれたんだ」
あたしは上着をいそいそと着込む八雲に微笑んだ。すると八雲はちょっと顔を赤くしてそっぽを向く。
「そう約束しただろ。それに、お前が手を放してくれなかったしな。どこにも行けやしねえよ」
「そっか…」
八雲の手を放さなかった…だから、あんな夢を見たのかな。あたしと八雲…じゃなく、稲田姫と素戔嗚の夢。須賀の地で二人きりになった後の稲田姫と素戔嗚。
今度はきっちり覚えてる。一昨日、あたしがどんな夢を見たのか、そして、あたしが何者なのか。
目が覚める直前、あたしは確かに素戔嗚と稲田姫の名前を叫んだ。それについて、八雲は言及しないんだ…。全く関係のない話なら、八雲から相応の突っ込みが入っても良さそうなものなのに。
ということは、夢の中で話していた、八雲が素戔嗚の生まれ変わりだっていうのもあながち間違いでないのかも。あたしと八雲は、稲田姫と素戔嗚の生まれ変わりであり、八岐大蛇討伐に何かしらの関与をした…か。今世でもこうして素戔嗚と稲田姫が出会ってる、あたしと八雲の繋がりは、ずっと昔に約束されたものだったんだ。
これについて、今八雲に話しても、はぐらかされるんだろうなぁ。だったら、自分で何とかしてやる。きっと、昨日の夢も、一昨日の夢も、何処かで道が交差するはず。あたしが身につけてる竹櫛…湯津爪櫛にしてもそう。これは稲田姫の持ち物であり、あたしが稲田姫だっていう証拠なんだ。でも、おばあちゃんの遺品って聞かされてるけど、これはどういうことなんだろう。
「今夜もバイト?また、怪我とかしないでよ」
あたしが言うと、八雲はコッチを見て笑う。
「そこまでドジじゃねぇよ。あん時は、ちょっと気が緩んだだけだ。すまんが、明日の朝はまた一人で学校行ってくれよな」
「う~…仕方ないなぁ。いってらっしゃい」
「おう、行ってきます」
八雲があたしの部屋のドアを開け、出て行こうとして立ち止まり、ゆっくり顔だけでこっちを見る。
「…なあ、今のやりとり、おかしくねぇか?」
「え…なんで?」
「いや、ここはお前の家で、オレは帰るだけなのに"行ってきます"とか…」
ああ、そういうことか。ついあたしも言っちゃったけど、そこまで気にする?
「別に、いいじゃない。将来の予行練習だと思えば?」
「ちょ、おま…」
八雲が顔を真っ赤にした。
だから、いい加減慣れなさいって。いいじゃないこれくらい。どうせ素戔嗚と稲田姫よろしく、あたしと八雲もいずれそうなるんだから。
……まだ、そうなれるといいな、かな。
「ま、まあ、行ってくる」
「はーい、早く帰ってきてね、あ・な・た!」
今度は八雲は振り返らなかった。その代わり、そそくさと逃げるように部屋を出て行く。あたしはそれを見て、声を殺して笑った。
八雲が玄関を出る音を確認した後、あたしはのそりとベッドから起きあがった。ずっと制服のまま寝ていたから、ずいぶんとシワになっている。部屋着に着替えて、一階へと降りてゆく。
ダイニングキッチンの扉を開けると、毎日の例に漏れず、お姉ちゃんが夕飯を作っていた。醤油の焦げるいい香りがする。煮物か何かを作っているのかな。
「おかえり、お姉ちゃん」
あたしが声を掛けると、お姉ちゃんが振り返った。
「ただいま。もう身体は大丈夫なの~?」
「うん、もう大丈夫だよ。ごめんね心配かけて」
食卓に座って、机の上に置いてあった麦茶をコップに注いで口に運ぶ。
「ほんと、心配したわよ。お母さんから連絡貰って、比女ちゃんが倒れたって聞いたときには、どうしようかと思っちゃったわ。大学休もうかってお母さんに言ったら、八雲くんがいるからいいって言われて。ほんと、いい人拾ってきたわね、比女ちゃん」
「どっちが拾って、どっちが拾われたんだか覚えてないけどね」
あたしは一気に麦茶を喉に流し込むと、食卓を立つ。
「もうちょっと眠るね。目が覚めたら、夕飯食べる」
「そうねぇ。お母さん、今日も遅くなりそうだから、それに合わせてもいいわよ」
「じゃ、それで~」
あたしは曖昧に返事を返すと、再び自室に戻る。
後ろ手にドアを閉め、床に落ちていたベレー帽に目をやる。稲田姫の夢、あたしが八雲に刺される夢。全ては、あの噂話からきているものだ。だったら、今夜も同じ事を繰り返せば…。
でも、勇気がいる。こうして八雲との関係を確かめ合って尚、あたしの足は震える。
…大丈夫、八雲はあたしを裏切ったり、欺いたりはしない。
何度も心に言い聞かせ、あたしはふたたび、枕の下にベレー帽を敷いた。そして、ベッドに横になり、掛け布団を被る。
目を閉じ、あたしは昨日と同じように、八雲の数を数え始めた。