湖の石像4
私が生きていた頃は学会なんてなかったし、昔のこと調べようとする人もいなかった。学者といえば占星術や魔術を研究している人のことだったのよ。算術を研究している人もいたわね。
時代が変われば学者の種類も増えるというのは、アルフレッドが教えてくれたこと。その本人は今、大勢に祝福されている最中だった。
アルフレッドはブランモール語だけでなく、他の未解読言語の解読にも成功したんですって。ブランモールにいた魔術師は翻訳作業が趣味だったから、彼が書き残した本を手がかりに読み解いていったの。その功績が認められたのよ。ブランモール語の先生として誇らしいわ。
彼はね、ずっと頑張ってきたのよ。いつか世間が彼の素晴らしさに気がつくと思っていたわ。むしろ遅い方じゃないかしら。
もし私が喋れるなら、きっと他の研究者にこう言っていたわ。あなたたち、ちょっと遅いんじゃないの、って。
「おめでとう殿下。君の夢が叶ったようだね」
「先生。ありがとうございます。ですが、まだ全て叶えたわけではありませんよ」
私の目の前で、アルフレッドはお世話になった教師と話していた。この高齢男性がアルフレッドに知識欲を与えたのね。
「ほう。夢があるのはいいことだ。君は昔から学問には貪欲だったからね」
ところで、と教師は声をひそめた。これは秘密の話をする前兆ね。私が聞いてもいいのかしら。動けないから盗み聞きすることになるけれど。
「君に秘密の恋人ができたという話は本当かね?」
なぜかしら。動いていないはずの心臓が大きく鼓動した気がするわ。
「恋人?」
「研究一筋だった第三王子が急に人前に出るようになったそうじゃないか。今までは代理人に任せて、研究室にこもっていたのに。どんな心境の変化があったのかね?」
「その……」
アルフレッドは教授を連れて私の前から離れた。あなたは知らないでしょうけど、この室内なら全て聞こえているのよ。
「ずっと俺を支えてくれている、大切な人に情けない姿を見せたくないんです。研究ばかりで身だしなみを気にしない自分が恥ずかしくなって」
いつの間にそんな人が現れたの?
「なるほど。その様子だと、縁談を紹介しても断られそうだな。今まで君に見向きもしなかった奴らが群がってくる前にと思っていたのだが」
「すみません。誰を紹介されても、俺はあの人以外の女性は考えられないと思います。近いうちに自分の気持ちを伝えるつもりです」
「謝ることはないよ。君は素敵な人を見つけたのだね」
もし私が石像じゃなかったら、外に出て風に当たっていたわ。
どうして私はショックを受けているのかしら。アルフレッドは自由に動ける人なのよ。この研究室が世界の全てじゃないわ。私が知らないところで、誰と出会うかは彼の自由。
アルフレッドに恋人ができたなら、素直に応援しなさいな。石像の私が人間の彼に「恋人を作るな」なんて言うのは滑稽よ。
私は一人で過ごすのは慣れているの。でも、できることなら今後は誰も来ない場所に置いてほしいわ。周りに人がいると、動けない自分の体に嫌気がさすのよ。
泥の中から出てこなければ、この感情は知らないままでいられた。アルフレッドはどうして私を見つけてしまったの?
翌日から、私はアルフレッドとの会話をやめたわ。一人に戻る練習よ。
「エリンドラ。君は今もそこにいるのか?」
言葉を書き残さなくなった私に、アルフレッドが話しかけてくる。そんな日々が何日も続いたわ。彼って諦めが悪いのね。
「君と話したいことが沢山あるんだ」
もう私が教えられることは無いと思うわ。辞書ができるほど言葉を教えたし、当時の生活について細かいところまで話したからね。政治はちょっと疎いけれど、覚えている限りのことは言ったわよ。
「俺の研究が認められたのは君のおかげだ。湖で魔力反応を見つけたときは、こんなことになるなんて考えもしなかった。毎日のように新鮮な驚きがあって、他人と交流する楽しさを思い出した。だから君にお礼がしたい」
魅力的な言葉だけれど、私は施しが欲しくてやったわけではないわ。自分が生きていた時代が勘違いされていることに我慢できなかったのよ。
「でも、何をすれば君が喜んでくれるのか分からない。君は……その、普通の女性とは違うから」
ええ。貴金属を贈られても嬉しくないわ。自分で選んで身につけることができないもの。
「そもそも、俺は女性が好きなことを知らない。知ろうとしなかった。皆が皆、地位を目当てに寄ってくると思い込んでいて」
あなたの周囲にいる女性ってろくでもない……と言いたいけれど、権力者に近寄ってくる人なんて、いつの時代も似たり寄ったりなのね。従兄弟の一人はそんな人たちに破滅させられていたっけ。
アルフレッドは私の左手を握った。もう温度なんて感じないはずなのに、彼の体温が伝わってくる気がするわ。
私の姿って、左手が少し前に出ているのよ。訪問者の口付けを受ける像だなんて推察したのは、あなたの助手だったっけ。本当はね、婚約者の愛人に何かされそうだと感じて、逃げようとした瞬間に石化させられた姿なの。真相なんてそんなものよ。
「これからも一緒にいたいと願うのは贅沢だろうか」
でもあなたには恋人がいるんじゃないの?
「俺は君に嫌われるようなことをしたのか? もし沈黙の理由が嫌悪なら、そう言ってくれ」
嫌いになったわけじゃないのよ。そうね、いきなり沈黙するのは卑怯だったわ。私の気持ちの問題なのにね。不安にさせたことは謝るわ。
私は久しぶりに羽ペンを動かした。アルフレッドに非はない、沈黙していたのは彼に恋人が現れたと聞いたから。もし石像と会話をしているなんて知られたら、変人扱いは避けられないと。
「恋人? 誰がそんなことを言っていたんだ」
考えこんだアルフレッドは私を見て、まさかとつぶやく。
「……あの時の会話を聞いていたのか?」
そうだと答えると、目に見えてアルフレッドがうろたえだした。そんなつもりじゃなかった、違う、と弁解のようなものを言っていたけれど、やがて決意したのか真っ直ぐに私を見る。
アルフレッドの顔をしっかり見たのは、これが初めてかもしれない。初対面の時は髪が邪魔で、身だしなみを整えるようになってからは、あまり顔を見せてくれなかったから。
「あれはエリンドラのことだったんだ」
アルフレッドが喋るたびに、心に響くものがある。先を知りたいのか、言ってほしくないのか、自分でも分からなかった。
「君がいない生活は、もうありえない。自分でも不思議なんだ。石像にこんな気持ちになるなんて」
私も同じだわ。心が死んで消えてしまうまで、泥の中に閉じ込められたままだと思っていたのに。アルフレッドが私を地上へ引き上げてしまったから、人間らしい感情が戻ってきた。
石化が解けたら。自分の意思で動けたなら。数百年前に諦めたことなのにね。思い出してしまったわ。
「石像に興味がある変人と思われてもいい。君以外の女性には興味がない。この先もずっと、俺が好きなのは君だけだ」
アルフレッドは握っている私の手に口付けた。
同じことを返してあげられないのが残念ね。いくら相思相愛でも生身の人間と石像では、見つめ合って会話をするぐらいしかできないのよ。
本当に残念。触れている手から体温が伝わる幻覚までするわ。意外とごつごつしたアルフレッドの手の感触とか、指先が冷えているところとか、まるで本物みたいな。
私は自分の体を支えきれなくなって、その場に座りこんだ。
「エ、エリ……」
体に感じる重力が違う。待って。私、石化が解けてない?
慌てて見下ろした体は、灰色ではなく血が通った色をしている。白い花嫁衣装に赤や黄色の柄がはっきりと見えるわ。装飾品も金の輝きを取り戻している。
どうして?
私、呼吸しているわよ。自分の意思で見たい方向が見える。
アルフレッドが信じられない顔で私を見ている。言いたいこと、伝えたいことがたくさんあるのに。どれから言えばいいの。さっきまで話していたこととか、なんでもいいのよ。紛らわしい言い方で誤解させるんじゃないわよ、とかね。アルフレッドの告白に対する返事でもいいわ。
ほら私、ちゃんと答えなさいよ。
「は、初めまして。不法投棄された石像です」
私って肝心な時に駄目なのね。挨拶してどうするのよ。アルフレッドも呆れて……いなかったわ。私の手を握ったまま、アルフレッドの頬がゆっくり赤くなった。
情けないなんて思わない。だって私の顔も同じぐらい赤くなっているのが、自分でも分かったから。




