湖の石像2
私が湖の底から引き上げられて、一年経った。横から研究成果を眺めていただけの私だったけれど、まあまあ暇つぶしになったわ。喋れないままだけれど、現代の言葉を覚えられたしね。
暇すぎて語学以外にやることがなかったのもあるけれど、私が生身の人間だった頃に覚えた、大国の言葉に似ているからあまり苦労しなかったわ。
研究一筋のアルフレッドはここで寝泊まりすることもある。毛布にくるまって硬い床で寝るのよ。信じられる?
放置されていた私ですら、ベッドは用意されていたのに。ちょっと彼の立場が心配になるわ。
虐待じゃないのよね?
ベッドまで行くのが面倒だから、床で寝ているのよね?
アルフレッドを狙っていた女性研究員は、あまりの手応えのなさに諦めていたわ。興味を持たれないって悲しいものね。
自由に恋愛できるなら、他の人に心変わりするのもいいと思うわ。だって願いが報われないまま生きるのは辛いもの。彼女には彼女の人生があって、出会いがたくさんあるのよ。待っていても幸せなんて来ないんだから、積極的に掴みに行かないとね。
研究室には色々な人がいるけれど、私が特に注目しているのは新人の研究員よ。好きだからじゃないわ。とにかくそそっかしいの。
掃除の最中に本棚へぶつかって本を散乱させること数回。
飲み物が入ったカップを落として、濡れた床で滑ったのが二回。
大切な研究資料にうっかり文鎮を落とす等々……思い出すだけで私の胃が痛くなりそうだわ。石化しているから痛む胃袋なんてないけれど。気分よ、気分。
ある日の夕方。その新人研究員は部屋に入ってきたハチを追い出そうとホウキを振り回していたわ。ハチはお構いなしに飛び回って、私の顔にとまったの。
もう分かるでしょ。その子、私へ向かってホウキを構えたわけ。やることは一つだわ。いくら石像になっているからって、ホウキで殴られるなんてあんまりよ。
「おい! 石像に触るな!」
アルフレッドは彼を止めようとしたけれど遅かったわ。もうすでに振り下ろす軌道に入っているんですもの。
だから私、思いっきり心の中で叫んだの。
――やめて!
私、石化しているし魔法の才能はないけれど、魔力の放出はできたみたい。研究員を弾き飛ばしてしまったわ。かなり痛かったでしょうね。ごめんなさい。でも私の顔面でハチを殺してほしくないの。
「今のは……?」
アルフレッドは私に近づいて、落ちているハチを拾った。興味深そうに動かないハチを観察して、ビンの中へ入れてしまった。まだ生きている、魔力の残滓がどうとか言っていたけれど、魔術理論は専門外だから分からないわ。
あの新人研究員は、研究資料に損害を与えようとしたという理由で、アルフレッドの研究室から追い出されたそうよ。性格は悪い子じゃなかったし、先輩たちから可愛がられていたから、他の職場を紹介してもらったみたい。
殴られそうになった私だけど、一つだけ彼に感謝していることがあるの。魔力を放出したことが原因で、少しだけ魔力で物を動かせるようになったわ。
石化されてしばらくは、もし体が動くようになったらって、何度も想像していたっけ。
まず花嫁衣装を脱いで、結婚式を待つエリンドラの姿を終わらせるの。だって王子はとっくに死んでいるから。生きていてもお断りだけど。
それから思いきり走りたいわ。大きな声で叫んで、歌を歌って、思いつく限り体を動かすの。アルフレッドたちが食べている現代のお菓子も食べてみたい。とにかく私が石化させられて出来なくなったこと全てを体験するのよ。
でもね、最初からそんなに上手くいかないわ。私にできるのは、せいぜい本のページをめくったり、窓の鍵を開け閉めすることぐらい。ずっと続けていたら、もう少し重いものも動かせるようになりそう。
私が魔力をおもちゃにして遊んでいる間に、アルフレッドは研究成果をまとめてどこかへ行っていたらしい。戻ってくるなりワインのボトルを開けて愚痴を言い始めた。
「みんな金にならない研究は要らないっていうけどさぁ……歴史から見えてくるものもあるんだよ」
お金になる研究って何かしら。食べ物を増幅させる魔法とか?
「ブランモールは都市の建設に魔術を使っていたんだぞ。現代にも活かせるかもしれないって、どうして分からないんだ」
そうね。あれは宮廷魔術師が中心にやることだったわ。敵が攻めてきたとき、町を壊して敵を潰せるようにね。私が生きている間は、一度も町が動いているのを見たことがなかったけれど。
「あとさ、古代文明ってなんかカッコいいじゃないか」
アルフレッド。あなたってそんなノリで私の時代を研究していたの?
「出土した土器とか武器を眺めてるときが一番落ち着くんだよ……文字の解読とか……他にも……」
指を折って数えるアルフレッドの顔は輝く笑顔になっていた。
本当に好きなのね。悪い気はしないけれど。
「絶対に、いつか認めさせてやる」
最後にそうこぼしたアルフレッドは、ワインのボトルを抱えてその場に丸くなった。
待ってちょうだい。そこで寝るつもりじゃないでしょうね。風邪を引いたら研究を中断しないといけなくなるわよ。
私は部屋の隅に置いてあったブランケットに魔力を送った。カメの歩みぐらいの速度でブランケットがアルフレッドへ向けて動く。途中で集中が切れてしまったけれど、魔力がなくなる前にブランケットを体の上にかけてあげることに成功したわ。
私だって頑張れば、これぐらいできるようになるのよ。アルフレッドは私以上に頑張っているんだから、出来ないことなんてないわ。
大仕事をやり遂げて気分が良くなった私は、収穫祭の歌を歌った。声なんて出せないから、歌う感覚を思い出しただけだったけれど。
***
翌朝、目が覚めたアルフレッドは抱えていたワインボトルを不思議そうに見た。あなたが自分で酔い潰れたのよ。あなたに覚えがなくても、私が覚えているわ。
「……いつの間に寝たんだ?」
正確な時間は知らないけれど、真夜中だったのは間違いないわ。
「まあいいか」
良くないわよ。次はベッドで眠りなさい。体を壊すわよ。
私の忠告はアルフレッドに届かない。彼はブランケットを雑に畳むと、顔を洗いに部屋を出ていった。
ブランケットという大物を運んだ経験は、私にとって自信に繋がったわ。だって私は今、訓練したい気持ちでいっぱいなんですもの。石化させられて挑戦することを諦めていた私がね。
私の訓練方法はこうよ。まず準備運動として窓の鍵を開ける。それから少しだけ窓を開けて、アルフレッドの代わりに換気してあげるの。研究資料に被害が出たらいけないから、風が強い日とか雨が降っている時はお休みするわ。
あと机から落ちそうになっている本を安全な位置まで動かしておいたわよ。アルフレッドは気が付いていないでしょうけど。
だいぶ慣れてきたころ、私はペンを持ち上げた時に閃いた。ペンが持てるってことは、アルフレッドと会話ができるということよ。会話に成功したら、私がブランモールのことを教えてあげられるわ。
さっそく床に散らばるメモに目をつけ、空白部分にあいさつを書いてみた。ペンが動かしにくかったけれど、久しぶりに人間と会話ができるのよ。それぐらいは苦労のうちに入らない。
――こんにちは。ご機嫌いかが?
書き終わった私は、メモをアルフレッドの目の前に落とした。予算の請求書を書いていたアルフレッドは、降ってきたメモを見るなり机の引き出しから紙の束を取り出す。
なるほど。あれは古代語の辞書みたいなものね。解読して判明している言葉をまとめているようだわ。
私が書いた文字と自分の辞書を比較していたアルフレッドは、真剣な顔でつぶやいた。
「お前を食いたい……? どういうことだ」
その辞書、今すぐ破り捨てなさい。今すぐにね。
よく見たらその手作り辞書は間違いが多いわ。文字の区切りを間違えているせいよ。こうなったら私が修正するしかないわね。ずっと研究室を観察していたから、現代の文章も分かるようになったのよ。
研究室を眺めるだけだった私に、新しい目標ができた。




