3-00『私怨』
「あげるよ。……いや、返すが正しいかな。君がくれた時間は、僕にとって大事な時間だった。そして僕が生きられなかった時間を、君が生きるんだ。これは僕の、僕と君の時間だ」
あぁ、またこの夢だ。私はひとり、いつか見たような夢の世界に浸る。
懐中時計を差し出すのは、私の兄とも言えるような親しい関係にあった小林かささぎだ。
彼は、この懐中時計を毎日肌身離さず持っていた。そんなものを、私に託してきたのだ。
これを渡された私は、彼が生きられなかった時間を私が生きないといけないと、強く実感した。だから、これは彼が生きられなかった時間であって、彼から貰った時間なのだと考えた。
でも、どうしてだろう。
こんなに鮮明な夢をずっと覚えていて、まるでそれは夢ではなくて、実際に経験したことのように思えていて……
銀色の懐中時計を握りしめて、私はふと、その針に目を落とした。
思えば、私が時計という代物を初めて見たのも、これだった。
彼はたしか、上級学校で書いた論文が表彰されて、その景品としてこれを貰ったという話だった。でも、私たちの生活に時計なんて活用される機会もなく、たいそう珍しい物であるわけで、実用性は全くといっていいほどにまで無いのだけれど、それでも“過ぎゆく時を刻む珍物”“来る時を覗く宝物”などと言われて、一定数この世に回っていると聞く。
言ってしまえば高級アクセサリーであり、持っていることで多少の権威を示せる物だと、彼から聞いたことがあった。
こんなに繊細に作られた小さな機械は、カチリ、カチリと音を刻みながら今も私の手の中で動いている。
それを見つめた私を見つめる私。
あぁ、そうか。夢だったなぁなんて、薄らと自覚が湧いてきた。
時計を見つめる私の背後に、色白で、色素の薄いヒョロ長な男が立っていた。
……お兄ちゃん。
そこにいた小林かささぎは、私が知っているままの姿で優しく笑っていて、でも懐中時計を手にした私は彼に気付いていなくて。
そっか。お兄ちゃんはいつも近くに居てくれていたんだ。私が気付いていなかっただけで、お兄ちゃんはずっと……
「おい、かささぎ。ダメだと言っただろう。喜々音を連れて来てはダメだ」
「ちょっと砂太郎、何を言うのさ。喜々音ちゃんはずっと僕に会いたがっているじゃないか。夢の中くらい、少し顔出したって怒られやしないさ」
「それでもダメなもんはダメだ。あいつにゃ、俺たちの分まで生きてもらわにゃならん。ほら、行くぞ」
「おいおい、そりゃあんまりじゃないか! って、おい! 手を引くな! 僕はまだ喜々音ちゃんに……」
お兄ちゃんは、またその後ろから現れた大柄な眼帯男に連れ去られていった。
相変わらず、将軍様はいつも余計なことしかしない。少しくらい、私とお兄ちゃんを会わせてくれたっていいじゃないか。
そんなことを思っていたら、懐中時計を見つめた私がふと顔を上げた。そしてそのまま顔を左に向けて、私と目が合った。
私はどうしてか、酷く恐ろしい気分になって……
「っ!?」
痛む体は不快なほどに汗ばんでいて、鼓動の速さに驚きながらも、整わない思考を頑張って落ち着かせながら、どこかも分からないような真っ白い無機質な空間で飛び起きた。
「いっ……!」
勢いよく起き上がったせいで激痛に見舞われて、私は涙を浮かべながらベッドに横たわった。
見慣れない空間は、病室のように見えた。暗く、何もないその場所で、私はただ眠っていたのだろう。
嫌な夢だった。でも、その内容は思い出せない。
私はただ、体の痛みに耐えながら、布団の中でうずくまることしかできず、未だにまとまらない思考を巡らせた。
その時、ふと自分が硬い平らな円形の何かを右手で握っていることに気がつく。
掌の中には、真っ黒い眼帯がひとつあった。
「……あっ」
そうして私は、あの日のことを思い出した。
語るに語れないほどの惨たらしい状況と、私の膝の上で息絶えた者のことや、その風景、その臭い、その音までも、何もかもを思い出した。
体の痛みなど気にならなくなるほどの心の痛みに襲われて、私の目からは涙が流れ落ち、ただひたすらに何もできなかった自分を悔いる感情が、「ほら、お前だけが生き延びやがって」と嗤って来る。
「嫌……、嫌……、嫌だ……、嫌だ……!」
もう何も分からないまま、私はただ、泣くことしかできなかった。
枕元に置かれた銀色に光る硬い小さな円盤が、カチリ、カチリと、ただただ静かに音を刻んでいた。
気付けばどうやら、いつしか私は眠ってしまった。
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神紀5001年、冬至後3日。
濱竹国浜松神社の書庫に、靜国からとある一冊の機密文書が寄贈された。否、寄贈というより返却という方が正しいかもしれない。
濱竹安久斗はそれを“国家一級秘匿書物”とし、臣と巫女の他には安久斗が許可した者しか読めない物とした。
その題は『かささぎ手記』。後々、そう呼ばれるようになる。
この手記は、神紀4997年に起きた日渡国臣殺し事件の犯人として靜国に収容された小林かささぎが獄中で自身の考えやその生涯を振り返ったものである。
最初こそ安定した精神で書かれていたこの記録だったが、牢の劣悪な環境と靜国の厳しい尋問によって心身を破壊され、徐々に正気を失って狂っていく様が生々しく残されている。
安久斗は、この手記の内容が世間に出回ることを恐れ、濱竹国の最上級厳戒資料と位置付けられる“国家一級秘匿書物”とし、遺族や親族に戻さなかった。それどころか、存在そのものを隠して、なかったものとして扱おうとした。
なぜ安久斗は、これほどまでしてこの手記の内容を秘匿としたのか。
それは、死を前にしたかささぎが抱いた“怨”の感情が、濱竹にとってみれば不都合極まりないものだったからだ。
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『獄中に入る事、はや数日が過ぎて、徐々に此処の生活にも馴染みて、私の思考も随分とまとまりつつある。安久斗様をはじめ、ひくま様、おな様、下池川卿、砂太郎、綴さん、様々な御方が私を科者として仕立て擁護する事を放棄したというのは、余に悲しく心が引き裂かれんとす計なるが、其にも如何様かの故あらむと量るに至りては、私も彌平静の装いにて、清く気を鎮めんと努む。而してみればどうだろう、不思議と心に余裕が生じ、嗚呼そうか国の為に死する事など栄誉なる物か、と思われて、自然と笑みの溢れるは心より納得できる行為となれり。』
小林かささぎは、薄暗くじめりとした劣悪な地下牢で、天窓から僅かに差し込む日の光を頼りに自身が書いた手記を読み返した。
「……」
淡々と、淡々と。彼の目に、その文字が刻まれているのかは些か不明な点ではあるものの、確かに己が書き記した手記を見返していた。
「……は、あはは……はは…………」
かささぎは虚な目をしながら手記に向けて笑う。
「……き、喜々音ちゃんも、こ、これから、生きて、いくんだよな、ぼ、僕の、分まで、い、生きて、く、くれ、るんだ、だだだ、もんな。あ、あはは。心配なんて、いいい、いらない、はずだ、よ。こ、こんな、日記なんて、残すの、も、む、無意味なこと、かも、しれないね」
震えた声でかささぎは呟いた。彼が開くページは、いつの日か喜々音と安久斗が直接見舞いに来た日の記だった。
彼は、安久斗から直接言葉をもらえたことや、喜々音に渡したいものを渡せたことを、非常に嬉しく思っていた。
当時の彼には、幸せな記憶として記録された。
だから笑っているのだ。そのとき、喜々音がどれだけ泣き喚いていようが、自分がどれだけ安久斗に憤慨していようが、そんなものは関係ないのだ。既に心が死にかけた彼にとってみれば、あのとき直接伝えたいことが伝えられたことは、非常に幸せなものだったのだ。
しかしながら、かささぎにはどうしても納得できない事案があった。
「……そ、それでも、ぼ、ぼぼ、僕は、こ、殺してなんて、い、いないんだ。だ、だれか、誰かが、いいい、いわ、磐田、た、たた、大貴を、こ、ころ、殺したから、ぼぼ、僕は、こんな目に、遭ってるんだ。ぼ、僕を、く、くく、苦しめているのは、あああ、安久斗様でも、は、濱竹でも、なくて、ほ、本当に、こ、ここ、殺した奴、なんだ!」
ぬあぁぁあ、と、ボサボサな髪を激しくむしりながら、かささぎは叫んだ。目をギロギロと血走らせながら、口から唾液を垂らしながら、荒い息遣いで怒りを露わにした。
「誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ誰だ…………」
視線を硬い石造りの床に落としながら、ひたすらにぶつぶつと呟いてから、いきなり地走る眼を天井に向けて大声で叫ぶ。
「だーれーだーよー、僕をこんな目に遭わせた奴はっ!」
そこから「死ねッ、死ねッ!」と何度も繰り返して、拳を床に叩きつけた。
かささぎの手は血に塗れていく。しかしそんなことなど気にする素振りを全く見せず、彼は一心不乱に拳を床に叩きつけていた。
「おいっ、うるせぇぞ! 静かにしろっ!」
かささぎの異様な有り様に看守が出てきて、かささぎの胴体を掴んで立ち上がらせた。
彼の拳は床から強制的に引き離され、何度も空を薙いだ。
しばらくして、立たされたことに気がついたかささぎは、目の前にいた看守の胸ぐらを、血塗れの手で格子越しに掴んで激しく揺さぶり、
「誰だよッ! 僕を、僕を! こんな目に遭わせたのは誰だッ! 誰だッ!」
看守の顔面に唾の飛沫を飛ばしながら迫る。
「うるせぇ、黙れっ!」
看守はかささぎの手を振り解き、肩を突いた。
かささぎは床に倒れた。
「静かにしてろ! ったく。これだから……」
かささぎの唾を被った顔を拭きながら、看守はぶつぶつと言いながら部屋に戻った。
倒れたかささぎは、床に倒れた時に頭を打ちつけ、しばらく目を回していたが、何を思ったか数分後にいきなり飛び起きて、
「そうだっ! そうなのかっ!? 奴だ、奴なんだ、奴が殺したんだッ!!!」
などと叫んで、もう赤黒く乾燥した右手で筆を執って、手記に何かを書き込んだ。
「……あ、い、つ、だ……僕、を、こ、ん、な、に、追、い、込、ん、だ、の、は……」
そして、恨めしく嗤って、
「死ねばいい。僕が死んでも、呪い殺してやる……! 死ねッ、死ねッ、死ね死ね死ねッ! 僕が絶対に、呪い殺してやるッ!!!」
地下牢に、しばらく高笑いが響き渡り、再び看守が叱りに来ると、今度は酷く悪い笑顔で、かささぎは「死ねばいいのだっ! 死ねばいいのだっ!」と、繰り返し言ったという。
この言動に対して靜軍の頂点、軍総長の松野曙は、看守に対する極めて悪質な暴言行為だと判断し、かささぎの食事に精神安定剤を混ぜて提供することを決定した。
その精神安定剤は、精神を衰弱させることで大人しくさせるというもので、いわゆる毒に分類される。
功を奏してかささぎは大人しくなったが、今度は酷く体調を崩して、彼の中の癒しであった極峰くれはを妄想で補って、己の療養に励みだした。
「……くれは、くれは……」
終日ずっと極峰くれはの名を呼んで、ニタリと笑みを浮かべていた。
看守から報告を受けた松野は、かささぎの精神は完全に狂い、尋問する価値もないため、これ以上かささぎを牢獄で養うことは税の無駄遣いになると判断し、靜あおいに刑の執行を奏上した。
あおいはそれを受理し、日渡萌加に通告。
そうして、神紀4997年の夏至後38日。
小林かささぎは、尊厳も、精神も、何もかもを失った状態で、日渡萌加に焼却処分されたのだった。
若干24歳という若さでこの世を去った彼だったが、彼が残した手記には、確かにこう記されていたのだ。
あいつだ 僕をこんなに追い込んだのは あいつだ
ウサギヤマ メイ
殺す
濱竹安久斗は、この記述があったが故に、手記を遺族の元へと返還しなかった。
安久斗は日記で、
『非常に残念な記述だ。たった三行あったせいで、彼の字は、想いは、家族の元へ帰れなかった。帰せなかった。心が痛む事この上なし。』
と綴っていた。




