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それからランドルフ公爵邸の庭園では、カーディナル侯爵家のご令嬢が行方不明になった――とちょっとした騒ぎになっていた。
ヴィンセントが年齢よりもしっかりしていて、子供達のそばにはエステファニアの侍女モニカが付き添っていたため、ランドルフ公爵家の使用人は少し離れたところに控えていた。子供達の交流の妨げにならないように、という使用人達の配慮がこの時は裏目に出てしまったらしい。用事を済ませ庭へ戻ってきた侍女モニカは、事の経緯を聞き狼狽していた。
「どうだ、見つかったか?」
「いいえ。先程ご案内した場所にはいらっしゃいません」
「念のため屋敷の中に戻っていないか確認してくれ。オスカー様のところに行ったのかもしれん」
「かしこまりました。すぐに向かわせます」
ヴィンセントは眉間に少し皺を寄せ、壮年の執事に指示を出した。公爵家の使用人が慌ただしく行き来するなか、侍女モニカは未だ見つからない小さな主人の身を案じ涙ぐんだ。
「……え、エステファニア様にもしものことがあったら、私――」
「何だお前たち、騒がしいな。何かあったのか?」
覇気のある声とともに颯爽と姿を現したのは、先代公爵夫人ブレンダ・ランドルフだった。孫がいる老齢の女性とは思えない騎士のように力強い足取りで、ブレンダは喧騒の中心へと近づいた。
「お祖母様……なぜこちらに?」
「ん?ああ、私はレディを追いかけてきた。屋敷に着いたとたん走り出してしまってな」
その一言で、ランドルフ公爵家の面々に緊張が走った。
「……不味いな。人手を増やすか」
「そう致しましょう」
「あの……一体、何が……」
状況が飲み込めないモニカをよそに、ヴィンセントと執事は速やかに手筈を整えていった。その様子を見たブレンダは、毅然とした態度で説明を求めた。
「ヴィンセント、説明を。今日はカーディナル侯爵家の娘と顔合わせだったんじゃないのか?」
「はい。そのエステファニア嬢と庭に出ていたのですが、私が庭師と話をしている間に彼女がいなくなりました。私の失態です、申し訳ありません」
歯切れのいい会話は、まるで上司と部下のそれだった。
「それで?」
「そう長く離れていたわけではないので、使用人と手分けをして近くを探しています。私が案内した庭の東側と中央付近はすでに確認済みです。念のため、屋敷と温室、迷路にも人を向かわせました」
「ふむ……私は西側からここまで来たが、それらしい子供は見ていない。レディの姿も見えないし……」
口元に手を当て少し考えるような素振りを見せてから、ブレンダはあっさりと言い放った。
「もう手遅れかもな」
「言葉を選んでください、お祖母様」
手遅れという言葉に衝撃を受けた侍女モニカは、その秀麗な顔を強張らせた。
「とりあえず私は奥へ向かう。レディを先に押さえておこう……きっと遊び場にいるはずだ」
その場を執事に任せ、ヴィンセントは庭の奥へと駆けていった。もしかしたらエステファニアもそこにいるかもしれない、という使用人達の言葉を受けて、モニカも少年の後に続いた。
◇
――時は少し遡る。
美しい蝶を追いかけ行きついた先で、エステファニアは緑の壁に囲まれていた。すでに蝶は空の彼方へ消え去り、周りには誰の姿も見えなかった。どちらから来たのかも分からず、どこまで歩いても見えるのは緑の壁ばかり。エステファニアは途方に暮れて、袋小路でうずくまっていた。
(……ヴィンセントさま……今頃、怒っているかしら……)
ようやく打ち解けてきたと思っていたのだが、これではもうヴィンセントに嫌われてしまったかもしれない。お友達への道のりが遠ざかるばかりだ、とエステファニアは嘆いた。
その時、風もないのにどこかで葉が擦れるような音がした。
耳を澄ますと、何やら軽快な物音が微かに聞こえる。
それはどんどん大きくなり、エステファニアに迫ってきた。
不思議に思ってそろりと顔を上げると、エステファニアの前方に毛に覆われた大きな動物が立ち塞がっていた。
(こ、これは……!)
はて、これは何だろう。
驚いてはみたものの、エステファニアは首を傾げた。
こんな動物、初めて見た。でも何となく見覚えがあるような気もする。
大きくて、尻尾があって、淡い茶色の毛がフサフサしている。
ああ、そうだ。本の挿絵にこんな動物が載っていた。
そう、これは……
(これは…………狼です!!)
「ワンッ!」
こうして、少女と一匹の狼(仮)は出会った。
ゆっくりと近づいてくる巨体に、エステファニアは怖くて立ち上がることができなかった。狼は人を食べると本に書いてあったのだ。体を小さく丸め、きつく目を瞑り、エステファニアはその時を待った。
だが、狼はエステファニアを食べなかった。命の代わりに帽子を奪い、少し離れたところから、じっと此方を見つめていた。
(どうしましょう……)
エステファニアはうずくまったまま、狼と睨み合いをしていた。
もしかしたら狼はお腹がいっぱいなのかもしれない。帽子を返してくれる気はないだろうか。行く手を立ち塞ぐ巨体に困り果て、エステファニアがそんなことを考えていると、いきなり狼が身を翻し駆けだした。
「あ……ま、待って!……帽子を……」
エステファニアは思わずその姿を追いかけた。走ったことなどなかったが、必死に足を動かした。途中でエステファニアが転ぶと、狼がそばに来て微かに鳴いた。そのあとも何度か転んだが、なぜか狼の姿を見失うことはなかった。エステファニアは無我夢中で狼を追いかけた。そして辿り着いたのは、野花が咲き渡る草原だった。
「ワン!ワンッ!」
少し離れたところから狼の鳴き声が聞こえた。辺りを見回すと、緑の中にぽつんと白い帽子が放り出されていた。近くに狼の姿はなく、エステファニアは大喜びでお気に入りの帽子に駆け寄った。
(今のうちに……)
帽子に手を伸ばした瞬間、大きな影が襲い掛かってきた。
「きゃあっ!」
突進してきた狼の勢いにあらがえず、エステファニアは草原に倒れこんだ。柔らかい草のおかげで痛みはなかったが、体にかかる重みで起き上がることが出来なかった。
「ワン!ワフ……ワンッ!」
「ひゃ……ふふっ、やめっ」
狼は楽しげに鳴きながら、エステファニアの頬を舐めた。そのくすぐったさにエステファニアは思わず声をあげて笑い、じゃれついてくる狼から逃れようと草の上で身をよじった。柔らかな毛並みの心地良さに気づき、そっと撫でると、狼の尻尾が勢いよく揺れた。心なしか狼が喜んでいるような気がした。
(この子は……きっと『いいやつ』なのかもしれません……)
少女と狼が心を通わせはじめた、その時――
雷が、落ちた。
「何をしているんだ!レディ、やめなさい!!」
ヴィンセントの怒声が響くと体の上から重みが消えた。自由の身となれた筈なのだが、エステファニアはその叩きつけるような大声に驚き固まっていた。
ブックマークありがとうございました!
この頃はモニカもまだ幼さを残していました。
彼女のお話も後々出てきます。