それから
―― ねえ、私の両親ってね。
少し良くなってきた頃、十日市くんにようやく話してみた。
「何かの記念日だって言ってさ、うちでごちそうを作ればよかったのに、たったひとりの娘を置いて、予約していたレストランに行ったのよ、ふたりっきりで。結婚記念日とか? あるじゃんね、そんで娘も『いいよふたりっきりで水入らずで行っておいでよ』なんて言うんだよ。でさ、浮かれて出かけたわけよ。いつも二人とも仕事が忙しくてなかなかそんな機会もないしね。またそこがけっこう評判の店だったらしくてね。メールでごちそうの写真が送られてきて、『今度は連れていってあげるからね』そう書いてあった。で、その帰りに事故にあって、死んじゃったんだ、そろって」
うん、と簡単な返事をしただけで、彼はまたその時もコンロに向き合っていた。
「今日はようやくレベル10のコールスローサラダです」
そう言っていたが、コールスローって何なのかも知らなかった私はそのまま話を続ける。
「両親の車、急ブレーキと急ハンドルでガードレールに突っ込んで、そのまま崖を落ちて行ったんだって、でね、たまたま目撃した人から聞いたんだけど」
うん
「どうも、飛び出してきた猫を避けたんじゃないか、って……馬鹿だよね」
それから猫は余計に、苦手になったのかも、そうつぶやく私に彼はやっとこちらを向いて、こう告げた。
「新村さんのご両親てさ、馬鹿でも何でもないと思うよ」
「そうかな」
そんなことは重々承知だ。ただ、そう思っていたかっただけ。
「それにさ……」十日市くんは、しごくまじめな顔でつけ足す。
「やっぱり何だかんだ言っても、ご両親の愛をひしひしと感じるよ、オレは」
まともに彼の顔を見られない。喉に熱くて苦い塊がこみ上げている。
目を伏せたままの私に、更に彼の声は続く。
「オレんちさ、きょうだいも多いし、ばあちゃんも何故か二人いるし、出戻ったオバサンもいるしで家族が多くて、うっとうしいと思っている、正直早く家から出たいとも思っているけど、やっぱりオレも、愛して、愛されているのかな、と思うし、それに」
急に言葉を切った彼を、つい見上げて鼓動がはねた。
彼が、すぐそばにいた。
「オレも、まだ愛とか語るのは早いとは思うんだけど……幸せになってほしいんだ、し、しんむ」
「え」
すぐ近くで十日市くんは、オタマを持った手を宙ぶらりんにして、目を彷徨わせている。
「あの、オレ、新村さんのこと」
「……あのさ」
とりあえず、彼の手からオタマを外して、そっとテーブルに置いた。
彼はおずおずと、私の手に触れた。私は両手でその手を包む。
「十日市くん……チエ、でいいから、あの」
「こっちもさ、トオルでいいから」
トオルの手はやっぱり、思ったとおり温かかった。
あの猫はそれから、一度も通ってくることはなかった。
どこか安住の地を見つけたのだろうか。
今度あの猫が来たら、これを少し上げてもいいかな? とトオルがおずおずと出してきた猫缶は、まだ開けることなく戸棚に入っている。
実は私も、首輪を買ってあった。
それでも、猫を家族とするのには抵抗があったのは否めない。
猫が苦手だから、という理由ではない。
もしかしたら、と床に伏している間に思ったのだ。
例えば、あの猫は何かの匂いを探して彷徨っていたのかも、とか。
例えば、昔、この家の人に飼われていた、とか。
そして、この家が、そしてご主人との暮らしが離れがたく、いつか新参者の私を獲って喰ってやろうと待ち構えていたとか。
―― でも、新参者は何だか弱々しくて、しかも、家にどんどんなじんでいるようだ。
少しだけ……様子を見てやろう。
と思っているうちに、わずかに情が移ってしまった、とか。
猫には猫の事情があったのだろう。
それはもう少し、彼にも黙っていよう。
孤独はどこか、落ち葉を焚く煙の匂いに似ている、それもまた悪いものじゃない。
でもこれから、白粥の湯気の匂いがするたびに、私は、ひとりぼっちではない満ち足りた喜びを真っ先に、思い出すだろう。
(了)