第1話 無駄を省くことにいたしました
「クラウス様のご指導に従い、無駄を省くことにいたしました」
リーゼロッテは食堂の椅子の背に手を置いたまま、完璧な笑顔でそう言った。クラウスのために整えられた朝食の席。銀器の配置、ナプキンの折り方、窓から入る光の角度まで計算された空間。五年間、毎朝リーゼロッテが整えてきた空間を、クラウスは一度も褒めたことがない。
「やればできるじゃないか」
書類から顔を上げずに答えた。満足そうですらあった。朝食のパンはリーゼロッテが吟味した小麦粉で焼かれている。紅茶の茶葉はリーゼロッテが産地から取り寄せたものだ。リーゼロッテの指先が、テーブルの縁を一瞬だけ強く掴んだことに、この男は気づかない。
一時間前のことだ。
客間の花を活けていた。季節は初夏に変わったばかりで、庭のラベンダーが色づき始めている。先週いらしたベルクハイム子爵夫人はラベンダーの香りを好まれた。食後のお茶の席で、花瓶の方に少しだけ体を傾けて息を吸ったあの仕草を、リーゼロッテは覚えている。
花瓶に淡い紫の花を選んだ。茎の長さを揃え、葉の向きを整え、花瓶の水を新しくした。食堂には香りの控えめな白い花を。客間には来客の好みに合わせてやや華やかなものを。廊下の花瓶には季節感だけを。居室には、何も活けない。クラウスが花の匂いを嫌うことを五年前に知ったから。
花は季節ごとに替え、来客の好みに合わせて香りの強さまで調整する。どの花を、どの花瓶に、どの高さで。この屋敷の客間に通された人が「良い雰囲気ですね」と言うとき、その「良い」を作っているのはリーゼロッテの手だった。
「また花か」
クラウスが廊下を通りがかった。花瓶を一瞥して足を止める。花の種類も色も見ていない。
「花にかける時間があるなら、領地の出納記録に目を通してくれ。非効率だ」
「かしこまりました」
ラベンダーの位置を最後に直しながら答えた。クラウスはもう背を向けて歩いている。出納記録なら朝食前に確認を済ませてある。先月分の差異をまとめた表も、クラウスの執務机に置いた。三日経っても表の位置が動いていなかったことを、リーゼロッテは知っている。
それでも翌月また表を作る。読まれなくても作る。五年間ずっとそうしてきた。
厨房に降りた。今日はベルクハイム子爵夫人の午後の来訪がある。夫人は甘味が得意でない。前回は柑橘の焼き菓子を召し上がり、その前はジンジャーの薄焼きをお持ち帰りになった。リーゼロッテは三種類の茶菓子を選んだ。柑橘の焼き菓子、ローズマリーの塩ビスケット、それからアーモンドの薄焼き。銀の盆に紙敷きを整え、焼き色を確かめ、並び順まで決めた。甘いものが苦手な方にも一口目を楽しんでいただけるように、塩味のビスケットを手前に置く。
「茶菓子に三種類も用意する必要はない。一種で十分だ」
クラウスが厨房の入口に腕を組んで立っていた。盆の上を見下ろしている。
「ベルクハイム夫人は甘味がお得意ではございませんので、お好みに合わせて」
「客の好みに合わせて三種類選ぶ手間を、年間で換算したことがあるか。その時間で書簡が二通は書ける」
書簡二通。来客ごとに出身地の菓子を調べ、前回との重複を避け、季節と体調と嗜好を考慮して三種を選ぶ。その配慮を書簡の通数に変換する。
リーゼロッテは口を閉じた。
「かしこまりました」
盆の上の二種を下げた。柑橘の焼き菓子だけが残った。年配の料理人が黙ってビスケットの皿を受け取る。その目に何かが光ったが、リーゼロッテが静かに首を横に振ると、料理人は唇を結んで頷いた。
リーゼロッテは料理人の名前を知っている。ギーゼラ。二十年この屋敷の厨房を守ってきた人だ。ギーゼラの孫が今年学校に上がることも、先月腰を痛めたことも知っている。クラウスはギーゼラの名前を知らない。「厨房の者」と呼ぶ。
午後。使用人頭のマルタが、二階の廊下で壁に手をついていた。リーゼロッテが声をかける前に、マルタの肩が小さく揺れたのが見えた。
「マルタ、顔色が悪い。今日は休みなさい」
「お嬢様、申し訳ございません。夕方の銀器の磨き出しがまだ残っておりまして」
「磨き出しは明日で構わない。エルマに引き継ぎしておくから。白湯を持たせるわ」
マルタの額に手を当てた。じんわりとした熱がこもっている。リーゼロッテは使用人部屋までマルタを付き添い、毛布をかけ直した。厨房のギーゼラに白湯と薄い粥を頼み、エルマに銀器の磨き出しと夕刻の見回りの手順を伝えた。マルタの午後の持ち場を巡る分の時間を、贈答品の発注を後回しにすることで捻出した。贈答の期日は三日後だ。明日やれば間に合う。
「使用人が一人休んだくらいで騒ぐな。甘やかすから付け上がる」
振り返ると、クラウスが階段の上に立っていた。腕を組み、冷めた目でリーゼロッテを見下ろしている。
「使用人は代わりがいる。一人欠けたところで屋敷は回る」
リーゼロッテは何も言い返さなかった。
代わりに、午後の段取りを頭の中で並べ替えた。マルタの見回り。来客への確認の手紙。季節の贈答品の手配。先月クラウスが「書簡で済む」と言った近隣貴族への挨拶回りの代替として、リーゼロッテが手配していた品物の発注。社交の場でクラウスが言い落とした話題を拾うための事前の情報整理。
これだけのことを、毎日、五年間。
屋敷は回る、とクラウスは言う。花は替わり、茶菓子は選ばれ、使用人は辞めず、来客は笑顔で帰る。クラウスはその全てを空気のように吸い込んで、空気だと思っている。
リーゼロッテは五年間で一度も「ありがとう」と言われなかった。
一度も。
花を活けたときも、茶菓子を選んだときも、マルタの代わりに見回ったときも、社交の場で失言を拾ったときも。「かしこまりました」とリーゼロッテが言うたびに、クラウスの返事は「やればできるじゃないか」か「当然だ」か、沈黙か。そのどれかだ。
五年。千八百余日。千八百余日分の花と、千八百余日分の声かけと、千八百余日分の茶菓子の三種盛り。来客台帳の記録と、贈答品の手配と、使用人の体調への気配りと、クラウスが数えもしない根回しの全て。
それを一度も認めなかった千八百余日。
リーゼロッテは長い時間をかけて、この数字にひとつの名前をつける。
諦め、だ。
怒りではない。怒りならもっと早く声を上げていた。言っても聞かれない。見せても見えない。差し出しても受け取られない。その確認を繰り返した果てに、静かに手が下りる。
だからあの朝、食堂で微笑んだ。
クラウスの言うとおりにしよう。花も、茶菓子の三種盛りも、使用人への声かけも、社交の根回しも。全部やめよう。
翌朝。
リーゼロッテは三十分遅く目を覚ました。使用人たちの部屋を回って一人ひとりに声をかける習慣を、今朝からやめた。その三十分は、五年間で初めてリーゼロッテのものになった。
廊下を歩く。誰にも声をかけない。すれ違ったメイドのエルマが不思議そうな顔をしたが、リーゼロッテは「おはよう」も言わずに通り過ぎた。厨房に寄って段取りを確認しない。ギーゼラが厨房の入り口から顔を出したが、リーゼロッテは歩調を変えなかった。
客間を通るとき、昨日のラベンダーが花瓶にあった。水を替えなかった。花弁の先がわずかに褐色に変わり始めている。明日にはもう少し色が進む。明後日にはしおれる。花は手をかけなければ枯れる。
朝食の席に着いたクラウスに、「おはようございます」とだけ言った。来客の予定も、贈答品の進捗も、マルタの容体も話さなかった。普段なら朝食の間にその日の段取りを三つは伝えている。今朝は何も言わない。
クラウスは書類を読み、紅茶を飲み、「今日の予定は」と聞いた。
「特にございません」
嘘ではない。花を活けることも、茶菓子を選ぶことも、使用人に声をかけることも——全て、クラウスが「無駄」と呼んだものだ。無駄を省いた一日は、空だった。
クラウスは「そうか」と言って書類に目を戻した。何も気づかない。
窓の外で庭師のフリッツが花壇に水をやっていた。先月、妻が子を産んだ。名前はまだ決まっていないと言っていた。リーゼロッテはそれを覚えている。今朝は声をかけなかった。フリッツは水をやりながら、一度だけ食堂の窓を振り返った。
さて、一つ目の『無駄』を省きました




