花畑と花の精霊
森はさらに深く、そして神秘的な様相を呈し始めていた。
木々はより一層高く太くなり、まるで巨人たちが立ち並んでいるかのようだ。
地面にはシダ植物が生い茂り、空気はひんやりと湿り気を帯びている。
時折、見たこともない奇妙な鳴き声の鳥が頭上を飛び去り、木々の間を素早く駆け抜ける小動物の影が見え隠れする。
明らかに周囲の森の様相が変わってきていた。
「そろそろ噂の『入り口に戻る』ってポイントを過ぎたあたりだね」
ブルが周囲の景色を見回しながら呟く。
村長のリストによれば、このあたりからが『迷いの森』の真骨頂、不可思議な現象が起こり始める領域らしい。
だが――。
「別に戻ったりしてなさそうですねえ。噂は噂ってことでしょうか」
メリアは肩をすくめる。
そう、今のところ道に迷っている感覚はないし、強制的に引き返されるような気配も感じられない。
おそらく道に迷ったのが大袈裟に伝わっていたのだろう。
「でも方位磁石が利かないのは確かだよ、ほら」
ブルが懐から取り出した方位磁石の針は、まるで狂ったようにぐるぐると乱回転を続けている。
どうやらこの森が何らかの異常な魔力や、あるいは未知の磁場に影響されていることは間違いないようだ。
「あらら。普通に迷う感じなんですかねー」
「僕らは大丈夫?」
「スフィアさんが森の入り口から目印になる木にナイフで傷を付けながら来てますんで、帰り道は大丈夫かと」
ブルも森歩きに慣れてはいるが、方位磁石が狂うのは予想外だった。
それを見越したかはわからないが、スフィアの周到な準備にブルは安堵の息をつく。
ふと、メリアはそうやって先頭を歩くスフィアの様子がおかしいことに気づいた。
「……スフィアさん大丈夫です?」
彼は時折、まるで我慢できないといった様子で立ち止まっては、近くにある手頃な太さの木の幹に、背中を力強く擦り付けている。
ゴシゴシ、ゴシゴシと、まるで野生の熊が身体を掻くかのような仕草だ。
その姿は、小柄な体躯と相まって妙に可愛らしくもあるのだが、本人は相当辛そうだ。
「超かゆい」
どうやら、ウルスの果汁による痒みが森を進むにつれて悪化しているようだ。
回復薬の効果は一時的なものだったのかもしれない。
「うーん、一度戻るべきだったでしょうか」
「でもここまで来て戻るのもちょっとね」
「こうなったらさっさと目的の果実を探してさっさと戻るっきゃねーだろ。行くぞ」
スフィアは痒みに顔をしかめながらも、先を急ぐことを選択する。
その時だった。
うっそうとした木々が突然途切れ、目の前が明るく開ける。
三人が足を踏み入れたのは、森の中にぽっかりと空いた陽光降り注ぐ広場。
そして、そこは――。
赤、青、黄色、紫、白――色とりどりの花々がまるで絨毯のように咲き乱れる、世にも美しい花畑だったのだ。
「うわあ……」
「綺麗だね……」
メリアとブルはその美しさに、思わず感嘆のため息を漏らす。
見たこともないような珍しい形の花、花弁が煌めく花、宝石のようにキラキラと輝く花粉を散らす花。
それらが互いに寄り添い、あるいは互いを引き立てるように美しく咲き誇っている。
甘く芳しい花の香りが広場全体に満ち満ち、蝶がひらひらと舞い、蜜蜂が羽音を立てて飛び交う。
その光景はまるで、御伽噺の世界に迷い込んだかのような錯覚すら覚える。
ブルはふらふらと花畑に近づくと、花を踏まないように細心の注意を払いながらその場にしゃがみ込む。
「見て見てメリアさん。このお花可愛いよ」
彼が指差したのは、露草のように小さな青い花。
メリアも隣にそっとしゃがみ込み、その可憐な姿に静かに見入る。
「本当、綺麗だし良い匂いもしますね」
「そうだねー」
二人は顔を見合わせ、うふふ、と穏やかに笑い合う。
しばし、二人はこの楽園のような美しさに心を委ねていた。
「スフィアさんもどうですか。お花良い匂いですよ」
メリアが、少し離れた場所で腕組みをし、花畑を眺めているスフィアに声をかける。
しかし彼はぶっきらぼうに首を振った。
「俺、花の匂いって良い匂いだと思えねーんだよな……柑橘類の匂いとかのが好きだ」
その言葉にメリアとブルは顔を見合わせ、ひそひそと囁き合う。
「あれ、猫って柑橘系の匂い苦手じゃなかったです?」
「うん、普通の猫や他の猫獣人もそのはずなんだけど……兄さんはあんまり苦手じゃないみたいだ」
「食べ物だからですかね?」
「食い意地張ってるね」
「果物あまり食べられない癖に、ですね」
「聞こえてるぞお前ら」
二人の話が聞こえていたようで、スフィアの不機嫌そうな声が飛んでくる。
「だいたいな、花って受粉? だっけ? それで実と種を作るのが花の役割なんだったよなメリア」
「ええまあ。そうですけど」
「だったらよ」
一度言葉を切って、スフィアはどこか不遜なドヤ顔で言い放った。
「花ってつまりチ〇ポなんじゃね?」
「なんてこと言うんですかスフィアさん! 最低ですよ!」
「デリカシーって言葉知ってる兄さん!」
花好きに謝れと言わんばかりのメリアの悲鳴にも似た抗議と、ブルの心底呆れ果てた声が花畑に響き渡る。
実際最低な発言であった。
二人の抗議は妥当である。
しかし、当のスフィアは全く意に介さない。
「デリカシーって何? 食えんの?」
「……本気で言ってるのか、とぼけてるのか判断できませんね……」
「いくらなんでもデリカシーって言葉くらいは……いや、まさか、ねえ?」
三人がそんな、美しい光景には全くそぐわない下品でくだらない――そしてその責任の九割九分はスフィアにある――やり取りを繰り広げていた、まさにその時。
一陣の風がどこからともなく吹き抜け、まるで意思を持っているかのように花畑全体を強く揺らした。
「うわっ」
色とりどりの無数の花びらが一斉に空へと舞い上がり、三人は突然の現象に思わず顔をかばい、目を閉じる。
風が凪ぎ、舞い上がった花びらがゆっくりと地上へと降り注ぐ中、再び目を開けた時――。
先ほどまで何もなかったはずの花畑の中央に、一人の女性がまるで最初からそこにいたかのように音もなく静かに立っていた。
陽光を浴びて輝く、長い白い髪。
雪のように白い肌。
白を基調とした、シンプルでありながらも高貴さを感じさせる不思議なデザインの衣服。
そして、この世のものとは思えぬほど整った美しい顔立ち。
その美しさと神秘性は、もはや人間というよりも精霊のようだ。
彼女は、驚きに言葉を失いただ呆然と立ち尽くす三人に向かって、優しく微笑んで言った。
「おやおや。このような場所にお客さんとは珍しい。それも君たちのような者とはね」
楽しげに、そして慈しむように笑うその表情からは少なくとも敵意は全く感じられない。
メリアは警戒心しながらも代表して丁寧に尋ねた。
「あの、貴女は……?」
「私かい? 私はそうだね……」
女性は悪戯っぽく瞳を輝かせると、ふわりと茶目っ気のある微笑みでこう言った。
「花の精霊……とでも名乗ろうかな?」
その言葉が紡がれた瞬間、三人の顔が物凄く微妙な、何とも言えない味わい深い表情になった。
なんというか、「うわぁ……」という気まずさと申し訳なさが複雑に混じり合ったような、だいたいそんな表情。
そして、期待した反応が得られず困惑する自称・花の精霊がそこにいた。
「……え、あれ? おかしいな。こう名乗ってそんな反応されたのは初めてなんだけど……あれ? もしかして変な名乗りだったかな?」
女性は三人の奇妙な反応に、焦りながらも心底不思議そうに首を傾げている。
なんかごめんなさいね、うちのデリカシーの無い猫さんが。
「……いえ。変な名乗りじゃないですよ、うん」
「そうだね、でもタイミングは……悪かったかな……」
「……ごめんな」
流石にちょっとは悪いと思ったのか謝るスフィア。
だが花の精霊はスフィアに謝られてますます困惑する。
だって謝られる理由がわからない。
「え……なんで謝られてるんだい、私?」
突如として現れた自称・花の精霊の美しい女性に対して、スフィアたちはなんとなく、言いようのない申し訳ない気持ちになるのであった――。
神秘的な登場シーンと自己紹介が台無し。




