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ある侯爵邸の夜会に足を運んだ日。
邸に入る手前の階段で、ひとりの令嬢が私の眼の前でハンカチを落とした。
「そこの御令嬢、ハンカチを落とされましたよ」
「まあ、ありがとうございます!」
女性は振り返ると、私の手のひらごとハンカチを握りしめてきた。
「ぜひお礼をさせてくださいませ。わたくし、ブリック子爵家の娘、リンジーと申します」
「ハンカチを拾ったぐらいで、お礼をされることではない。気にしないでくれ」
「いいえ! それでは私の気が済みませんわ。ぜひお茶でもいかがかしら」
媚びるようなその瞳に、女性の真意が見えた。
――わざと落としたのか。
ハンカチを落とされたのも、実はこれが初めてではない。ここ数ヶ月、二度三度とあった。決まって、下位貴族の令嬢だった。
これまで高位貴族の令嬢としか知り合う機会がなかったのに、下位貴族の令嬢からこうして率先して関わろうとしてくるのは、私が男爵家の女性と婚約を結んだからだろう。
何を期待してかはわからないが、私には彼女たちの希望を叶えてやる義理はない。
自分の手を令嬢の手から引き抜いた。
「用がなければ、これで失礼する」
「あ、お待ちになって――」
声が追いすがってきたが、私が振り返ることはなかった。
このようなことが起こらなくとも、もう随分前からわかっていたことだった。
――下位貴族だからとかではなく、エレン嬢がきっと特別なのだ。
以前エレン嬢を見て「下位貴族の令嬢はみんなこうなのだろうか」と思ったこともある。だが、彼女と接すれば接するほど、それは間違いであると悟った。
他は知らなくとも、自然と導きだせる答えというものがある。
あの令嬢の視線を受けたあとだからだろうか、あの温かな榛色の瞳に今、どうしようもなく焦がれた。




