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宇宙は崩壊を迎えていた。
億兆の銀河も、億千の星々も、貪欲な〝虚無〟に呑み込まれ、空間を引き裂く強大な斥力により、あらゆる物質、原子、素粒子は崩壊し、光さえも消滅していた。
かつて全宇宙に満ちていた星々は総て消滅し、もはやエネルギーの1エルグも、熱の1カロリーも存在しなかった。
エントロピー極大により、あらゆるものが〝虚無〟へと消え去っていた。
総ては暗黒の無であった。
もう生命のひとかけらも存在しなかった。
こうなっては、無限の完全な〝死〟のみが、宇宙を支配するだけだった。
否!
この広大な〝虚無〟の荒野に、唯一つだけ消滅を拒否する場所が存在した。
地球の金星軌道にあたる直径の巨大な球殻、いわゆるダイソン球殻であるが、その内部にK型太陽が輝き、内側の広大な表面に生命を育んでいた。主系列星のK型太陽は、表面温度は五千度程度だが、その分、寿命が長く数百億年にわたって、内側の生命にエネルギーを供給し続けることが期待された。
空間を引き裂く「万有斥力」に抗して球殻は耐えていた。斥力に抗う力は、球殻を建設した存在が超越的なエネルギーを注ぎ込み、守っていたのであった。
内側の表面積は、地球を数億個並べたほどもあり、存在する生態系は、あらゆる銀河から集められた生命圏だった。
球殻中心の太陽が輝き続ける限り、内部の楽園は永遠の生命を保つであろうと期待された。
しかし中心の太陽は長大な寿命を持つと考えられるが、永遠ではない。
いつかK型太陽にも寿命が迫り、エネルギーも尽きるであろう。
生命の避難所となる球殻を建設した存在も、終焉は判っていた。億を数える年月も、一時しのぎにすぎないのである。
建設者たちは、球殻の外側にいた。
球殻外部は、いうまでもなく完全な真空だ。ここには温度もなく、時もなく、物事をはかる何物もない。
何より空間を引き裂く斥力が、どのような物質の存在をも一瞬たりとも許さない。
無限の闇を切り裂くように、眩い光が球殻表面にあった。
光の温度は数千度もあり、強烈な光輝は周囲を照らし出していた。
核融合の光だった。
照らし出す存在は、核融合のエネルギーを使って生きている。膨大な核融合のエネルギーが、空間を引き裂く斥力を斥けていた。
核融合で生きている存在には名前があった。
名前は「フォン」。
純粋なエネルギーの存在だが、それでもその存在は〝生きて〟いた。知覚し思考し、行動を伴った生命体だった。
存在は複数あった。
どれも形は様々だったが、生命体にはかわりなかった。
フォンのすぐそばに、ねじけた古木のような生命体があった。古木には黒々とした葉が茂り、フォンの放つ光を受け葉緑体にエネルギーを蓄えていた。見かけは完全に植物だが、それでも思考し、周囲を知覚していた。
名前は「ルールー」。
ルールーはフォンの放つ光を受け、葉を一杯に広げて充足した時を過ごしていた。
フォンはルールーに向けて、テレパシーを放射した。完全な真空状態において、空気を振動する音声などの、粗雑なコミュニケーションなど不可能だった。以下、両者の間に交わされるテレパシーの交信を通常の会話として記録する。
「球殻も永遠ではない……」
フォンの不安げな言葉に、ルールーはざわざわと葉を揺らした。葉は、生物で言う脳細胞に充当し、葉脈にある光ファイバー・ケーブルが情報を伝えていた。
「だがそれでも百億年は保つ」
フォンはルールーの言葉を拒否した。
「百億年でも、永遠ではない」
フォンの断定に、ルールーは葉を内側に丸め、内省状態に入った。
「ではどうすれば?」
疑問を呈したのは、小山のような巨体の存在だった。ずんぐりとした姿は、ごつごつとして岩石の塊のようだった。ケイ素を基調とした生命体で、外見の岩のように思考は慎重で、重厚だった。
名前は「グム」。
グムの隣にフォンの光を受けて、きらきらと煌めく塊があった。グムと同じく到底、生命体とは思えない姿をしていた。体を構成するのは、透明な結晶体で、ダイアモンドのような光を反射していた。
名前は「キーシャ」。
キーシャが身動きをするたびに、フォンの放つ光を屈折、反射し、七色の光に染まった。
「無意味な会話だ! 何か有効な提案はないのか?」
キーシャの思考は、姿同様、常に性急で直截的な傾向があった。
「無が迫ってきている……」
平べったい思考のテレパシーが、一同をひやりと貫いた。
発したのは機械のような、あるいは生物のような奇妙な存在だった。機械と生物の融合体で、かつてはサイボーグと呼ばれた存在だった。が、長い年月の間、両者の関係はすでに分かちがたくなっていた。生きている機械、あるいは成長する無生物とでも表現すべきか。
名前は「ノース」。
思考は論理的で、常に冷静さを保った。
ノースのテレパシーに、一同は球殻の外側に注意を向けた。
外側には何もない。
無、だけだった。
それでも〝無〟は意思を持っていた。
総てをがつがつと食らい、消滅させようとする意志があった。
「わたしたちも無に呑まれるのか……」
悲鳴のような思考が炸裂した。
発したのは一同の中でもっとも生命体に近い存在だった。
半透明の身体は弱々しく、とても宇宙を引き裂く斥力に抗することはできそうもないが、それでも球殻を建設した仲間の一つだった。
名前は「リーム」。
もっともふつうの生命に近いためか、感情は鋭敏で、ときとしてきわめて悲観的になる欠点があった。
だがリームの特質は、他の仲間にとって慰めになっていた。
「お兄様はどうお考えなのでしょう?」
最後に空間自体に思考を定着し、エネルギーを保持している存在がテレパシーを発した。空間そのものが生命体であって、目には見えないが、空間のゆがみが時折鋭く光を屈折させ、存在を主張していた。
名前は「ニュン」。
ニュンのテレパシーに、一同は我に返った。
七つの存在の中央に、奇妙な物体が鎮座していた。
それは完全な立方体だった。
表面は黒々として、フォンの眩い光輝も、その表面を照らし出すことはできなかった。どんな光も、黒々とした表面に光沢をもたらすことはできない。あらゆる光を立方体は吸収してしまうだろう。
ニュンの呼びかけた「お兄様」という表現は場違いではない。
七つの存在は、中央の存在の「妹」であった。魂の段階で、七つの存在は中央の立方体の「妹」なのだった。
中央の立方体には、個別の名前はなかった。単に「指導者」あるいは「お兄様」とのみ、七つの存在からは呼びかけられた。
何千万年、あるいは何億年という長い年月、一つの指導者と、七つの従う「妹」は生まれ変わり、死に変わり輪廻転生を繰り返した。
一つの指導者と、七つの妹は常に戦いの中にあった。
戦いはいつも同じ形をとった、
圧制者と抵抗者、あるいは征服者と、被征服者。しかし指導者と妹たちは、いつの時でも、被弾圧側に立って戦っていた。
今、最後の戦いが迫っていた。
宇宙を終末へ導く〝虚無〟との戦いである。
最期の戦いには、一切の希望はなく、確実な敗北だけが待っていた。どのように終末を引き延ばそうとも、いずれ総ては〝虚無〟に呑み込まれようというのは、明らかだった。
指導者は静かに語りだした。
「皆も覚悟を決めているはずだが、もはや球殻を維持するだけのエネルギーは我々に残ってはいない。どのように頑張っても、僅か数億年で球殻は引き裂かれ、内部の生態系は破壊されるだろう。終末は近い。いや、すぐそこに迫っている!」
外側の〝虚無〟から笑いの波動が流れ、七つの妹たちを震わせた。
「〝虚無〟が笑っています!」
憤然としてフォンが叫んだ。
指導者は微塵も動揺を見せず、言葉を続けた。
「そこで我々は終末を受け入れ、次の宇宙に希望を託そうと思う」
衝撃が七つの妹を貫いた。
透明体のキーシャが興奮した様子で、激しく身震いをした。フォンの光を浴びたキーシャのあちこちから七色の反射光が煌めいた。
キーシャは激しいテレパシーを発した。
「それは……お兄様?」
キーシャの問い掛けに、指導者は力強く答えた。
「そうだ! 我々の最後のエネルギーを使って、次の宇宙の萌芽を残すのだ! 総てが〝虚無〟に呑まれた瞬間、時空はゼロになる。時もなく、空間もないその瞬間、次の宇宙が生まれるだろう。次に産まれた新たな宇宙で次の戦いが始まるのだ」
ルールーの葉が一斉にだらりと下を向いた。
フォンの光輝が一層、強まった。
グムの巨体がぶるぶると細かく震えた。
ノースの身体に埋め込まれた様々な表示装置が、複雑な模様を描く。
リームの半透明の身体色が、赤、黄色、緑、青と目まぐるしく変化した。
七つの存在の中で変化を見せなかったのは、ニュンだけだった。もっともニュンの実体というものはなく、空間それ自体に意識を転写しているためだ。ニュンの存在を知覚できるのは、妹たちだけだった。
ニュンは指導者に向かって、冷静に語りかけた。
「お兄様の仰る通りだと思います。どんなに我らがこの終末に逆らっても、いずれは破局を迎えるでしょう。その時になっては、もはや次の宇宙を産み出すこともできません。今、我々が対応策をとらなければ、機会は永遠に失われます……」
ニュンの言葉に、妹たちは覚悟を決めたようだった。全員、通常の状態に戻り、平静を取り戻した。