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黒い聖域   作者: 久遠
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                (2)

 もう一つ、森岡は養母の小夜子とも再会を果たしていた。

 きっかけは、異母妹である寿美子からの手紙だった。

 半年前の初夏、森岡は持ち株会社設立の記者会見を行った。しかも、世界の松尾正之助を太刀持ちに、我が国を代表する食品会社味一番の福地正勝を露払いにしての代表取締役社長への就任発表であった。当然のことながら、その経済ビッグニュースは国営放送をはじめとして民間テレビ各局でも幾度となく放送された。

 広島の地にてその記者会見の様子を目にし、感涙に咽ぶ小夜子の姿に寿美子は訝しいものを感じたのだという。そして、愛娘香夜の心臓移植の手術費用を支援してくれたのは、森岡洋介ではなかったかと思い当った。

 叔父の佐々木慶吾から、支援してくれたのは浜浦出身の実業家だと聞いていたし、森岡が島根県の出身だと何かの雑誌で見た記憶が重なった。

 二年前の旧盆、叔父の佐々木利二から事情を聴いた森岡は約束した一億円に加え、さらに五千万円を用立てていた。寿美子の夫の実家と利二らが工面した五千万円をも肩代わりしたのである。

 その秋に渡米した香夜は、半年後の昨年の春、無事に心臓移植手術を終え、一年経った今では何の支障もなく日常生活を送れるようになっていた。

 しかし、孫の恩人というだけでは、小夜子の感情移入はあまりに激しいものだった。また支援者を秘匿していることへの疑念が再燃した寿美子は、何かあると直感した。

 寿美子から執拗に問い質され、溜め込んでいた感情を抑えきれなくなった小夜子は、ついに全てを告白したのだという。

 寿美子にとっては、まさに寝耳に水だった。母小夜子が島根半島の浜浦出身であることは知ってはいたが、テレビに映し出されている前途洋々の青年実業家が実兄で、しかも種違いではなく、父も同じ灘屋の当主洋一だというではないか。つまり他界した父は、実父ではなく養父だったと知らされたのだ。

 小夜子は、この期に及んでも亡き舅の洋吾郎との約束を守り、洋介の出生の秘密を固く秘匿し、あくまでも自身が腹を痛めた子であるとしたのだった。

 思わぬ実兄の存在と自身の出生の秘密に動揺した寿美子だったが、直接会って香夜の礼を述べたい旨と、出来得ることであれば小夜子に会ってやって欲しいという想いを切々と書き綴って送って来たのだった。

 お互いの懸案が解決していたことから、森岡は今年の夏の旧盆に浜浦に帰省し、小夜子と寿美子一家との対面に及んだのである。

 小夜子が浜浦を出て行ったのは、森岡が八歳のときである。実に三十年ぶりの再会であった。

 

 洋介と小夜子の対面場所は、喧騒を避けて園方寺庫裏の奥座敷とした。

 広島から小夜子らが到着したとの連絡を受けて、森岡は面会に臨んだ。むろん、両方とも家族だけでの対面である。

 洋介の姿を看とめた小夜子は、わあーとその場に泣き崩れた。

 洋介は小夜子の傍らに跪くと、両肩を抱いて、

「お母ちゃん、久しぶりだの」

 と童に戻ったかのような口調で声を掛けた。

「お、お母ちゃん、と呼んでくれるのかい」

 小夜子は震える声で訊いた。

「あい、お前がおらにとってただ一人のお母ちゃんだが」

 洋介のは労りの声に、小夜子は再び慟哭した。

 もう一度確認しておくが、この界隈の『お前』というのは敬語である。

 洋介は小夜子の背を擦りながら、視線を寿美子らに向けた。

「ようやく会えたな、寿美子」

「兄さんのお蔭で、香夜は助かりました」

 寿美子も涙声で頭を下げた。

「安住さん、母の面倒を看て頂いているようで感謝します」

 洋介は寿美子の夫である安住慎也しんやに礼を言った。

「とんでもありません。こちらこそ香夜の命を救って頂きお礼の言葉もありません。香夜、伯父さんにお礼を言いなさい」

「洋介おじさん、ありがとう」

 香夜は実年齢の六歳より幼かったが、両親から言い含められていたのだろう、緊張の顔ながらしっかりとした口調で言った。

「皆に紹介しよう。妻の茜と娘の愛夢です」

 洋介の言葉に、

「お義母さん、慎也さん、寿美子さん、香夜ちゃん、これから宜しくお願いします」

 挨拶した茜が、

「お義母さん、もう一人の孫娘を抱いてやって下さい」

 と、小夜子の前に膝を着いた。

「この子が、洋介の子供かい……」

 小夜子は言葉を詰まらせながら、愛夢を胸に抱いた。

 それからしばらくお互いの近況を話し、打ち解けた雰囲気になったときだった。

「寿美子たちは、次の子を作る気はないのか」

「欲しいのはやまやまなんだけど……」

 何気に訊いた洋介に寿美子が口を濁した。

「生活が苦しいか」

「はあ、まあ……」

 と慎也もが弱々しい笑みを浮かべる。

 二人の表情に洋介が真顔になった。

「どうだ、広島を離れる気はないか」

「広島を離れるって、どういうこと」

 寿美子が驚いたように訊いた。

「この際、大阪へ来ないか」

「大阪? 私たちが」

 そうだ、と洋介は頷く。

「ずいぶん回復したといっても、香夜ちゃんの今後が心配だろう。俺のマンションの近所には国立循環器病院という心臓に関して国内指折りの病院があるし、心臓外科の権威もいる。もしものときに安心だと思うがな」

 日本の心臓外科の医師のレベルは世界的に見ても非常に高い。つまり移植のために渡米するのは医療レベルの問題ではなく、ひとえにドナー数の問題なのである。

「と言いましても……」

 慎也が言いよどんだ。

 洋介には、彼の懸念はわかっていた。

「仕事と家は俺が用意するで」

「兄さんが」

 寿美子が訊いた。

「ウイニットに勤めてもらえば、俺が住んでいるマンションに社宅を用意する」

「私がお義兄さんの会社に?」

 思いも寄らない提案に、慎也は当惑を隠せない。

「今、仕事は何を」

 しているのかと訊いた。

「事務機販売の小さな会社で経理を担当しています」

「辞める気はないかな」

「それは……」

 口籠った慎也に代わって寿美子が口を開いた。

「実は、香夜の心臓移植で渡米したでしょう。ドナーの関係も一年あって近くも滞在することになったの」

「一年なら短い方だろう」

「ええ、でも慎也さんはその間に何度も日本と米国との間を往復することになったので、会社の心証が良くないの」

「居心地が悪いか」

 はい、と慎也は正直に肯いた。

「ということは、退職することには抵抗がないのやな」

「ただ転職をしようにも、この不景気で、しかも事務職ですから……」

 職人のように手に技術でもあれば、あるいは公認会計か税理士の資格でもあれば別だが、単なる事務職と言うのは転職が難しいと言った。

「なら、ちょうど良い。中古だが四LDKのマンションを確保してあるから、思い切って大阪へ来たらどうだ」

「しかし、洋介……」

 小夜子が戸惑いの声を掛けた。

「お母ちゃんはこれまでどおり寿美子夫婦の世話になったらええ。だが、俺のマンションはすぐ上の階やから、ときどき愛夢の子守をしてくれたら茜も助かるやろ」

「皆さんが近くにおいでになったら、私も心強いですわ」

 茜も笑顔で勧めた。

「これ以上、兄さんに甘えて良いの」

「かまわんさ。といっても大事なことだから、三人でゆっくり相談してくれ」

 そう言った洋介が、何か思い付いた顔をした。

「おお、大事なことを忘れていた。それとな、寿美子には灘屋の遺産を分ける」

「遺産って、私には資格が……」

「あるやろ、歴とした親父の娘やからな」

 思わぬ申し出を遠慮しようと寿美子に、森岡が有無を言わせぬ体で言葉を被せた。

「俺が受け継いだ遺産は八億だったから、半分の四億を譲る」

「四億円……」

「と言っても、贈与税は高いから現金で一括というわけにはいかん。そうやな、ストックオプションなど節税を考えて渡すわ」

「それはお兄さんに任せるけど……本当に良いの」

 ああ、と洋介は頷くと、

「そうそう、俺が用立てた一億五千万は返さんでええで。あれは、長男の俺に代わってお袋の面倒を看てくれたお礼やからな」

「お礼って、兄さん……」

 寿美子は言葉を詰まらせた。

 そのとき、頃合いを見計らったように先代住職の道恵が顔を出し、

「安住さんも寿美子さんも当寺は初めてですから、本堂へ行って御本尊様に挨拶して下さらんかの」

 と催促した。

 道恵の配慮だと気づいた茜が、

「では、私もご一緒します」

 と言い、小夜子から愛夢を抱き取って席を立った。

 奥座敷には洋介と小夜子の二人きりとなった。

「すまんかったの、洋介」

 小夜子はあらためて詫びた。

「お母ちゃん、もうええが」

「許してごすかの」

「おらの気持ちは二年前に利二叔父さんに言っておいたが、聞いちょらんかい」

「聞いた。聞いたけんど、お前の口から聞いたわけでではないけん……」

 半信半疑だったと小夜子は言った。

「おらはの、今ではおらほど幸せな者はおらんと思っちょうが」

 慶吾から、洋介が神村と茜に出会えたことを幸せに思っていると聞いていた小夜子は、

「だいてが神村上人さんは亡くなってしまわれた……」

 と労わるように言った。

 うん、と洋介は頷く。

「今は大分立ち直った。それに先生と茜の他にも果報なことがあるけん」

「……」

 小夜子にはわからない。

「だって、おらにはお母ちゃんに加え、生みの母親までおるけん」

 洋介は笑顔を向ける。

「おらはの、お母ちゃんの太腿の温もりを忘れたことはないけん」

「おらの太腿?」

「おらが三歳か四歳の頃だったか、冬の寒い夜、おらが布団の中に入ると、いつもお母ちゃん入ってきて『ほんちょ、ほんちょ』と言いながら、おらの身体を太腿の間に入れて温めてごっさった」

 ほんちょ、というのは可愛いとか、愛しいという意味の方言である。

 わあー、と小夜子は再び畳に平伏した。

「三十年間、離れ離れだった分、この先はおらに親孝行させてくれんかの」

 洋介の言葉に、その後しばらく小夜子の視界は閉ざされたままとなった。


 此度の帰省は大人数だった。

 茜と愛娘の愛夢に加え、いつもの蒲生、足立、宗光の側近三人はもちろんのこと、伊能剛史も招待した。

 また野島、住倉、中鉢をそれぞれ妻子同伴で、帰国していた坂根と婚約者の池端敦子、そして南目夫妻と美由紀の母恭子を招待した。南目夫妻と恭子は米子の輝の実家に、野島、住倉、中鉢、坂根ら一行は米子の皆生温泉に宿泊することにした。

 森岡の影警護を務める神栄会の四人うち、二年前の教訓から九頭目弘毅は門脇修二邸に宿泊することになった。旧灘屋だった門脇修二邸は部屋数が十分あり、大人数に対応できた。他の三人は境港の足立万亀男の世話になることになった。境港から浜浦までは車で約十五分の距離である。

 二年前の夏と同様、門脇修二を先頭に灘家の親戚が総出で歓待した。

 なにしろ、森岡が設立したIT会社が上場するとは耳にしていた彼らも、まさか年商約一兆円の企業群の総帥になることなど思いも寄らぬことだったのである。

 二年前と違ったのは寿美子夫婦と、小夜子つまり母方の親戚筋も参集したことである。森岡が香夜の心臓手術に金銭的援助をしたことで、両家のわだかまりが薄まっていた。

 ただ、当の小夜子は遠慮した。

 洋介と和解したといっても、灘屋の敷居が高いことには変わりがなかった。失踪自体は洋一の暴力が原因だったので、灘屋の親戚一同も同情を寄せていたと利二から聞いて承知していた。だが、男性と一緒だったという負い目が彼女の心から拭い去れないのである。

 また香夜も、大勢の見知らぬ人々に囲まれるのは負担が大きいと判断し、小夜子とともに浜崎屋に残った。

 その他には園方寺から道恵、道仙に加えて後継の道幽どうゆうも参加した。お盆は、初盆の家にそれぞれ呼ばれるのが通例で、同じ家に二代が揃うことはない。まして初盆でもない家に、三代が揃うというようなことは前代未聞のことだった。

 先代住職道恵の睨んだとおり、洋介が出世街道を邁進していることもさることながら、所属する禅宗系道臨宗の大本山大平寺の丹羽秀尊現管長の苦衷を救ったことで、道恵はますます洋介に期待と信頼の目を向けていた。

 また、丹羽管長から絶大の信頼を獲得した道恵自身も、特別に管長相談役という新しい役職に任ぜられていた。

 境港の足立家も三代が打ち揃って参加していた。万吉、万亀男そして統万の七歳下の弟翔万しょうまである。

 さらに前回と同様、洋介の帰省を聞きつけた同級生らも参加した。

 その中に、坂根好之の実兄秀樹も顔を出していた。障害を持つ身になって以来、我が身の運命を呪い、家に引き籠り勝ちだったが、ウイニットの仕事を請け負うようになって少しずつ心が解れていったのだった。

 結局、二年前に比して倍の人数での宴会となった。

 灘屋の母屋は平屋ではなるが、南北二部屋の続き部屋が東西に五部屋、つまり十部屋ある。そのうち西から二部屋は床の間と仏壇があってぶち抜けないが、それ以外の八部屋の襖や障子を取っ払って宴会場とした。また、幅が一メートル五十センチもある南側の縁側にも夏座布団を敷いて席を作った。

 旧灘屋のこの屋敷は、冠婚葬祭時の参列者の数を想定して建築されており、部屋数だけでなく、テーブルや食器類、トイレの数に至るまで十分な配慮がなされていた。

 妹の寿美子と慎也夫妻をあらためて紹介し、ひととおりの互礼が済んだ後、真っ先に声を掛けたのは足立万吉だった。

「おお、その赤児が総領さんの子か。抱かせてもらえんかの」

「ええが、爺、連れて帰るなよ」

 洋介は笑いながら言った。彼が幼少の頃、祖父洋吾郎と酒を酌み交わして帰宅する際には、決まって洋介を抱き上げ『貰って帰る』と、境港の自宅まで連れ去っていた。

「ほうほう、目元は総領さん、鼻や口元は茜さん似だの。こりゃあ、大した別嬪さんになるがや」

 茜から手渡された愛夢を両手に抱いた万吉は頬を崩した。

 愛夢は人見知りもせずに、小さな手でその頬をピシャ、ピシャと何度も叩いて喜んでいる。

「洋吾郎さんや洋一さんが生きておられたら、さぞかし喜ばれただろうにのう」

「万吉爺は祖父さんや親父の分まで長生きてくれや」

 洋介の言葉に、うう……、と万吉は鼻水を啜った。

「ところで、お祖父さん。私が社長と再従兄弟だったことをどうして黙っておられたのですか」

「おお、聞いたか万亀男、統万が真面な口を聞いたぞ」

 涙を拭いた万吉が、丁寧な言葉遣いをした統万に驚き顔を見せた。

「総領の許に置いてもらったのは正解でした」

 と、万亀男も破顔した。

「総領から聞いたのか」

 はい、と統万は万吉に肯いた。

「爺さんや万亀男おじさんが話しておらんのに、俺がしゃべって悪かったかな」

「なんの、悪いことはない」

 万吉はそう言うと、

「どうしたもこうしたもないわ。洋吾郎さんと洋一さんが亡くなられたとき、わいは赤児だったし、総領が大阪に行って灘屋が潰れてしまったときは、まだ小学生だった。二年前、総領が活躍していることが耳に入ってすぐに、わいを総領の許に送ったから話す暇がなかったのじゃ」

「社長か事情を伺って驚きはしましたが、嬉しかったです」

「そうじゃろそうじゃろ。じゃが、喜んでばかりはおれんぞ、この傑物とわいは血が繋がっているんじゃ。しっかりせにゃあな」

 統万は緊張の面で肯いた。

「そこでだ、爺さん、万亀男おじさん。一つ相談がある」

「なんじゃ、あらたまって」

 万吉が身構える。

「統万を俺にくれんかな」

「総領にやるじゃと」

「どういう意味ですか」

 万吉と万亀男が同時に訊いた。

「三年から五年預かる予定だったが、統万には俺の事業の一つを任せたくなった」

「統万に事業をだと? 今度の持ち株会社設立と関わるのか」

「何分、急拡大し過ぎてな、信頼できる者が一人でも多く欲しいのや」

 洋介は万吉に本音を漏らす。

「信頼できる者というのは別として、こいつが役に立ちますか」

 洋介は万亀男に向かって肯き、

「さすがは万吉爺さんの孫、万亀男おじさんの息子だ。人の上に立つ器量がある」

 と二人に顔を立てた。

「しかし、そうなると……」

「足立興業は翔万君が継ぐわけにはいかんかな」

 思案顔の万亀男にそう言うと、洋介は弟の翔万に視線を向けた。翔万は二十二歳の大学四年生だった。

「俺、いや私が会社を」

 突然の成り行きに翔万は戸惑いを見せた。

「嫌か」

「嫌ではありませんが、兄が継ぐものとばかり思っていましたので、私はその手伝いを、との心積もりでいました」

 翔万は、洋介の問いに正直に答えた。

「統万はどうだ」

「私が社長の事業を受け継ぐなど」

 とんでもない、という顔をした。

「総領はどんな仕事をさせるつもりかの」

 万吉が不安顔で訊いた。

 万吉と万亀男は、神王組六代目の蜂矢組長が洋介に絶大な信頼を寄せてることを知っていた。また、神王組の若頭且つ神栄会の会長で、兄貴分でもあるの寺島龍司から、詳細はまだ話せないがと断りがあったものの、洋介に重大な事業を任せていると聞いていた。

「心配せんでええ」

 万吉の懸念を察した洋介は、笑いながら手のひらを顔の前で横に振った。

「不動産部門を一手に任せたい」

「不動産? 総領はそんなことにまで手を広げていたか」

 洋介は、別格大本山法国寺裏山の霊園開発事業と松尾正之助から引き継いだゴルフ場の運営会社の件、並びに真鍋興産グループの三代目御曹司真鍋高志と奥埜不動産の後継者奥埜清喜との交友関係を説明し、今後拡大方針である旨を説明した。加えて、米子と境港の間に広がる田畑を買収していることも明らかにした。

「ほうほう、記者会見で世界の松尾会長が横に座っていたのは、そういう理由からか」

 万吉が得心したように言った。

「それだけじゃないですよ、万吉さん」

 佐々木利二が横から口を挟んだ。

「どういうことですか」

 万亀男が訊いた。

「この茜さんは、松尾正之助のお孫さんですよ」

「ええ!」

 万吉や万亀男が驚きの声を上げたのに対し、

「そいはおかしいが」

 と、叔父の森岡忠洋 が異議を挟んだ。

「そげだ、そげだ」

 と、灘屋の親戚連中が一様に声を上げた。

「おかしい、とはどういうことかい。おらは、洋介の口から直接聞いただが」

 利二が口を尖らせた。

「おらたちは、総領と茜さんの結婚式に出席したが、その媒酌人が松尾正之助夫妻だった。祖父母が孫娘の媒酌人を務めるなんて聞いたことがない」

 と、森岡忠洋が主張する。

 茜との結婚式に際して、洋介は父洋一の兄弟のみを招待していた。皮肉と言うべきか、先妻の奈津美との結婚式とは反対に、茜には呼べる親族が一人もいなかったので彼女に遠慮してのことである。また、披露宴会場を幸宛としたため、招待客は七十名の制限もあった。今や、時代の寵児となりつつあった森岡洋介の顔は広い。故に、母小夜子の兄弟には遠慮してもらったという経緯があった。

「どっちが本当のことかい、総領」

 万吉が訊いた。

「茜が松尾正之助氏の孫というのは、本当と言えば本当、嘘と言えば嘘」

 洋介は曖昧に答えた。

 一同が怪訝の目を洋介と茜に向けた。

 洋介は、血の繋がった孫ではないが、実孫のように可愛がられていること、その証拠に百億円の生前贈与を受けたことを話した。松尾正之助はブックメーカー事業に百億円融資する際、『この金はわしからではなく、茜からの融資だと思え』と言われていた。

「百億……」

 一同、あまりの高額に言葉もない。

「でも、私の手には一円も残っていません」

 茜が愛夢をあやしながら軽やかに笑う。

「どげしたことだかい」

 座の中央辺りから女性の声が掛かった。

 茜が視線を向けると洋介の叔母百合江が疑念の目を向けていた。三十数年前、島根の首領・設楽幸右衛門基法の子飼だった竹山中の国政進出に当たって、票の取り纏めに尽力した女傑である。

 そのとき、彼女は弱冠三十歳だった。婦人部を組織化した百合江は、その後も後援会婦人部門の総帥として長らく竹山を支えることになった。洋吾郎の政治的才能は、この百合江に最も濃く受け継がれていたと言えよう。

 二年前のお盆は舅の初盆と重なったため、彼女は灘屋の酒宴には参加していなかった。

「そのままそっくり洋介さんに渡しました」

「渡したって、百億全部を、かい?」

「はい」

「なんでまた」

 馬鹿なことをしたのかという顔をしている。

「投資です」

「投資って、もし洋介が事業に失敗して一文無しになったら、どげするだ」

 百合江は怒ったように言った。

 だが、茜は微塵も動じることなく、

「そのときはそのとき。私が養えば良いことです」

 悠然と胸を張ったものである。

「ほうほう。この総領にしてこの女房殿ありじゃな」

 万吉がそう言って目を細め、

「こげな別嬪のうえに肝まで座っちょうとは……。洋介はがいな嫁さんを貰ったものだ」

 さすがの百合江も降参したように言った。

「その二人を引き合わせたのは、何を隠そうこの拙僧でな」

 道恵が自慢顔で話に入って来た。

「先代さんは何を言っちょうかね。総領と茜さんは三年前に大阪で出会っちょうのに、どげして先代さんが関わることが出来るかね」

 百合江が呆れ顔を向ける。

「百合江さんや、三年前は再会での、実は二十六年前、総領さんが十二歳、茜さんが五歳のとき園方寺出会っているのじゃよ」

 と、道恵は広島の的屋の一家を出雲大社参詣旅行の家族に置き換えて話した。

「そがいなことがあっただかい」

「赤い糸で結ばれていただな」

 と誰彼となく呟きが漏れた後、潮が引くように座が静まった。

 洋介が話題を戻す。 

「ともかく、境港から米子に跨る土地の開発を手始めに、俺はこの山陰の活性化にも寄与したいと思っている。それが故郷へ対する恩返しだからの」

 と洋介が話を戻した。

「それはええ考えだが」

「実に頼もしいわい」

 また、そこかしこから感嘆の声が上がった。

「なるほど、修二の借金の保証人になっただけではなく、浜浦水産の買収や養殖事業の展開の裏にはそういう想いが潜んでいたのか」

 門脇孝明が得心したように言った。一昨年のお盆に、門脇修二の借金の保証人を依頼した従兄である。

 浜浦水産というのは、かつて灘屋が経営していた底引き網漁法の会社である。父洋一亡くなってからは、門脇修二の父、つまり洋介の義伯父に託していたが、祖母のウメまで亡くなったのを機に、共同経営をしていた中浜屋に売却していた。

 共同経営といっても、株式資本の九十パーセントは灘屋が所有していたのであって、中浜屋はいわば洋吾郎の厚意で経営の一角に参画していたに過ぎなかった。ところが、洋介から会社株式と船や網の売却の申し出があったとき、恩義を忘れた中浜屋は足元をみるかのように、ただ同然にまで価格を叩いたのだった。

 だが、『天網恢恢疎にして漏らさず』とはよく言ったもので、その後調子に乗って設備を拡充した中浜屋は、近年の不漁続きで借入金の返済が焦げ付き、首が回らない状態にまで追い詰められていた。

 この事実を知った洋介が債権者である山陰銀行に働き掛け、中浜屋から株式や船、網を買い戻したのだった。

 また、気候変動や乱獲の影響から今後も漁獲量の減少が否めないと推察した洋介は、湾内の沖合の一角で真鯛の養殖場事業を手掛けていた。荒波の日本海では到底無理な相談だが、幸い浜浦湾は東向きに開けていたため、湾内は適当な波高と潮流があった。

 養殖技術の確立と販路の確保にあと二、三年の時間を要するが、将来は安定した収入確保に寄与するであろう。

 従来の定置網漁に加えて、この二つの事業も門脇修二に任せていた。

 洋介は二年前の山陰銀行米子支店の萱嶋支店長との約束どおり、二十億円を定期預金し、それを担保として事業資金を借り入れていた。

「山陰一帯の開発事業責任者は、当然統万になる。実家に顔を出す機会も多いと思うがな」

 と、暗に足立興業との関連も示唆した。

「だいてが、そげなだいそれたこと、統万にできるかの」

 万吉は神王組絡みの事業ではなかったことに安堵したものの、今度は事業規模に不安を覗かせた。

「まあ、十年ぐらい先ことだ。今から心配しても始まらんで」

 洋介は磊落に笑った。

「万亀男、どうしたもんじゃろうか」

「親父、聞いた限りでは統万にとっては願ってもない話だが、ここは一つゆっくり相談したいと思うが」

 万亀男が時間が欲しいと願った。

「この話は足立家にとっては重大事だろうから、結論は急がん」

 洋介は万吉に言い、

「今晩は実家に帰れ。明日もな、戻って来なくて良いから、お袋さんも加えて納得いくまで相談しろ」

 と、統万に命じた。

「ところで、総領」

 と、百合江があらたまった口調で声を掛けた。

 洋介は思わず身構えた。

 女傑の叔母の真剣な顔つきには、豪胆な洋介も身が引き締まる思いにさせられるのだ。

「灘屋はいつ再興する気かの」

 おおー、一同が一斉に声を漏らした。長らく灘屋一門の悲願だったのだ。

 暫し沈黙していた洋介は居住まいを正し、一同をゆっくりと見回した。

「正直に言って、いますぐどうこうとは考えていません。ですが、いずれのときにか必ずや浜浦に戻ってきます」

「……」

 誰からも声が上がらなかった。すぐにでもと思っていただけに、落胆の思いに駆られるが、一方で再興の確約を得たことには安堵するという複雑な心境だったのである。

「この屋敷はいつでも明け渡すけんの」

 門脇修二が口を開いた。

「だんだん、修兄ちゃん」

 洋介は頭を下げた。十八年前、彼が浜浦を捨てたとき、門脇修二は灘屋の屋敷を買い取ってくれただけでなく、灘屋先祖代々の位牌と墓も護ってくれていた。

「まあ、そうあわてることはなかろうて。総領さんは、修二さんに融資して事業を助けられとるし、今の足立さんとの話から、故郷に対する熱い想いもわかった。後は総領さんの心のままに任せて大丈夫ではないですかな」

 道恵が諭すように言った。

「うんうん」

「そげだな」

 と皆がそれぞれ自分自身を納得させるかのように肯いた。

「さあ、難しい話はこれくらいにして、総領の出世祝いと灘屋と浜崎屋の関係修復祝いの宴を続けらい」

 百合江が何食わぬ顔で話に蓋をしようとすると、

「何を調子の良いことを言うちょうかね。あんたがその難しい話とやらを切り出したんだがね」

「あははは……」

 誰かが百合江にツッコミを入れたので、満座が笑いに包まれた。

 こうして夕方四時から始まった宴会は、二十時には万吉が酔い潰れたのを機に足立一家が帰宅し、それからほどなく、野島夫婦ら皆生温泉に宿泊する者たちと洋介の友人たちが灘屋を後にしたため、人数は半減した。

 だが、お盆の二十時過ぎなど宵の口ですらない。灘屋、浜崎屋の親戚一同に園方寺の三人が加わった賑やかで和やかな酒宴は、日付が変わっても終わる気配がいっこうに見られなかった。

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