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黒い聖域   作者: 久遠
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         第十三章 邂逅(1)

 森岡洋介は梅田の高級料亭幸苑において、榊原壮太郎と福地正勝に頭を下げていた。

「またお二人に御助力を賜りたく……」

「そろそろ、お前から呼び出しがあるころだと思っておったわ」

 途中で榊原が言葉を被せた。

「苦戦しているようだな、洋介君」 

 福地も労りの言葉を掛ける。

 はい、と森岡は素直に認めた。

「言い訳になりますが、誤算が二つ重なりました」

 と近畿製薬の新薬開発の時期がずれ込んだことと、是井金次郎の認知症を告げた。

「新薬の件はともかく、なるほど是井氏が洋介の切り札ったのか」

 と、榊原が頷く。

「しかし、その二つの材料を失った今、どのようにして劣勢を挽回する気かな」

「そこで、ますお義父さんには、百億円を融通して頂きたいのです」

 福地の問いに森岡が答えた。福地は日原淳史の代表取締役社長就任に伴い、味一番の代表権を持つ会長に就いていた。

「その程度なら問題はないが、焼け石に水ではないかな」

 福地にしても勅使河原公彦の資金力は承知していた。

「そこで、天礼銘茶に資産運用委託契約の二百億増額を申し入れようと思います。榊原さんにはその口添えをお願いします」

「それはかまわんが……」

 と口を濁した榊原に、

「元々、先方からの一千億の提示を、私が三百億に減額した経緯がありますので、そう難しい要求ではないと思っています」

 と懸念を払拭するように森岡は言った。

「誤解するな。わしが気になるのはそのことやない」

「では、なにを?」

「洋介、お前はなんで一千億を三百億に減らしたんや」

「それは……」

 森岡は言葉に詰まった。

 一千億円の申し入れを三百億に大幅減額したのは、中国を巡る天礼銘茶の思惑から少しでも距離を置くためだった。七百億円という多寡もさることながら、森岡が減額要求をしたという事実が重要なのである。

 それを、森岡から増額を依頼するとなれば、完全に取り込まれる懸念が生じた。

「背に腹は代えられません」

 森岡は悔しげな声を滲ませた。

 しばらくの沈黙の後、

「その二百億も私が用立てよう」

 と、福地が意を決したように言った。

「しかし、万が一にも……」

 と言い掛けて、森岡が言葉をあらためた。

「いえ、融資をお願いしている私が言うのもおかしな話ですが、私が敗北する確率は低くありません。そうなると、会長のお立場にも影響が出兼ねません」

 ははは……、と福地が高笑いした。

「いまさら私の立場でもあるまい。もしあのとき、須之内に会社を乗っ取られていたら、私の立場など疾うの昔に無くなっておるわい」

「しかし、それとこれとは……」

「違いはせん。それに、心配するな、洋介君。味一番の金は一円たりとも手を付けやしない」

「……はあ?」

「まあ、大船に乗ったつもりでいなさい」

 訝る森岡に、福地正勝が自身有り気に胸を張った。


 それから三日後の昼前だった。

 大阪梅田の大手証券会社・野波証券の窓口に思わぬ人物が立った。

 受付窓口の女性社員は気づかなかったが、奥の席に座っていた証券部長の志村の目に留まった。

「あっ、あの方は……」

 と小さな声を上げた志村は、支店長室へと駆け込んだ。

 数瞬後、部屋から飛び出て来た支店長の大西が思わず声を上げた。

「先生!」

 その歓喜と驚愕の入り混じった声に、その場の誰もが大西に振り向き、そして彼の視線の先の老人に向き直した。

「近畿製薬を三千万株買いじゃ!」

 老人は叫ぶように言った。

「先生、声が大きいですよ」

 フロアーの奥から老人の元に駆け寄った大西が窘めた。彼の眼前には、最後の大物相場師と謳われた是井金次郎が立っていた。

 その大西があることに気づいた。

 低い声で、

「もしや、買い仕手本尊は先生なのですか」

 と訊いたが、是井金次郎は黙したまま何も答えない。

 代わって、介添え人がにやりと笑った。

「大西さん、三百億を口座に振り込みます」

「これは、正樹さん。お久しぶりです。まさか是井金次郎先生がご健在だったとは……」

 大西は言葉を詰まらせた。

 この大西支店長こそ、係長時代に是井金次郎と共に住川金属の仕手戦を戦った同志だった。その際の功績を認められて現在は取締役梅田支店長に出世していた。

……そうか、もう仕込みは終わったのか。

 と考えた大西は、

「先生、中にどうぞ」

 と三年ぶりの対面に胸を躍らせたが、

「今日は注文に来たまでです。いずれ、ゆっくりと話をする時間を作ります」

 正樹が丁重に断った。

「大西君、近畿製薬は買いだ。徹底的に買いだ」

 金次郎がそう言うのを最後に、正樹が店から連れ出した。

 頭を下げて見送った大西は、その背に訝しいもの感じながらも、

――先生は死期が近いのかもしれない。だからこそ今生で最後の相場を……。

 と受け止めた。

――近畿製薬ということは、とうとう新薬開発に目途が点いたのだな。ならば、今生の別れの餞に有終の美を飾らせてあげたい。

 大西は振り向きざま、証券部長に向かって命令した。

「志村、俺らも参加するぞ。近畿製薬の玉を徹底的に拾え!」


 近畿製薬の買い仕手本尊が是井金次郎だったというニュースは、瞬く間に全国に伝わり、この大物相場師の登場で相場の潮目が一変した。

 勅使河原の大量売りに押されて下落を続けていた株価は急反転し、連日ストップ高を演じた。

 何しろ、生ける伝説の相場師の登場である。中高年の投資家であれば、誰もが住川金属の大仕手戦を記憶していた。

 語弊はあるが、最強の仕手軍団は郵貯や生保といった資金を数兆円規模で扱う機関投資家でもなんではなく、個人投資家であることは疑いようもないだろう。熱狂した個人投資家の提灯買いこそが、相場の流れを決するといっても過言ではないのだ。

 まるでダム湖の放水のような激流には、さしもの勅使河原も抗しようがなかった。

 是井正樹が野波証券の口座に振り込んだ三百億円は、自前の資金だったが、森岡が十パーセントのプレミアム保証を付けたものだった。

 切羽詰まった森岡は、再度是井邸へ赴き、金次郎の芝居を正樹に願い出た。

 前回の面会時で垣間見た近畿製薬への執着振り、そして少なくとも自身の名を覚えていたことで、住川金属の仕手戦の戦友である大西支店長は記憶に留めているのではないかと期待してのことだった。

 森岡は是井邸訪問に先立ち、福地正勝から三百億円の融資を得ていた。個人資産の借受ではない。いかに福地といえども、三百億円を貸し付けるほどの個人名義の現金資産は持ちあわせていない。

 福地は、味一番研究所が所有する内部留保金の貸付を行ったのである。味一番研究所は、調味料味一番の特許を所有し、毎年売り上げの三パーセントを特許料として味一番から得ていた。

 この四十数年間の累積金額は、税金分を除いて七百億円に上っている。味一番と同様の非上場企業といっても、味一番研究所は社員が数十名の、さらに福地の個人企業色の強い会社である。彼の一存でどうにでもなった。

 そうして借り受けた三百億を是井正樹に用立てるつもりだったのだが、正樹は自前の資金を用意する代わりに、十パーセントのプレミアム保証の条件提示をしたのである。

 実は、当初正樹は森岡の要請に困惑し、断ろうと考えた。

 だが、仕手戦の相手が立国会の勅使河原公彦だと聞いて、気が変わった。

 四十五年前、父金次郎が一夜にして髪の色素が抜けるほどの恐怖と屈辱を受けた相手こそが、勅使河原公彦の父、公人だったからである。

 晩年こそ種々の慈善事業に手を拡げ、人徳を積んだ公人だったが、戦後しばらくは、まだ闇市で稼いだ資金を元手に事業拡大の傍ら、仕手筋として株式相場にも手を出していたのである。

 十数年後、再起を果たした金次郎は雪辱戦を挑もうとしたが、時すでに遅し、公人はすでに相場から手を引いてしまっていた。

 息子の公彦の代なって、彼が相場に手を染めていると知るや、幾度となく雪辱機会を窺ったが、ついに無念を晴らす場を与えられることなく病魔に侵されてしまった。懸命の治療と養生で身体は回復したものの、不幸なことに今度は認知症を患ってしまったのである。

 正樹は、相手も息子に代替わりしていることから、自身が森岡に手を貸すことによって、父の無念を晴らす代役を務めようと腹を決めたのである。

 森岡の依頼を受けてから、正樹は父金次郎に繰り返し繰り返し、『近畿製薬株の買い増し』を吹き込んだ。

 個人差はあるが、初期から中期の認知症患者は、家族以外の者に対して、およそ認知症を発症しているとは思えないほど、しっかりとした言動を取ることがしばしばある。おそらく、人間としての尊厳とか外聞を憚る見栄が影響しているのだと思われるが、正樹もまた森岡との面会時の金次郎の様子から大いに脈があると踏んでいたのだった。

 ともあれ、株価は勅使河原の平均売り単価の九百八十円をあっさり更新し、一千五百円を目指す展開になった。

 資金的には、勅使河原にはまだ十分な余力があった。これまでに投入した資金は、立国会の資金七百億円と勅志会の三百億円の、合わせて一千億円と、投入可能額の半分でしかなかった。

 思わぬ大物仕手の登場で買い提灯も膨らんだが、値を上げるにしたがって売り方の手口も増加した。冷静になってみれば、近畿製薬には薬害保障という悪材料しか表面化していないからである。

 そうして、ついには買い方、売りの勢力はがっぷり四つとなっていた。信用売買残がほぼ同額となったのである。

 この状況は、資金力に勝る勅使河原には有利なはずだった。

 だが、勅使河原は苦渋の決断を迫られていた。彼にとって是井金次郎の登場は想定外だったのである。

 提灯買いを別にして、森岡一人であれば残り一千億円で十分組み伏せることが可能だが、是井金次郎との両面作戦となると一筋縄ではいかなくなる。

 是井金次郎といえども、資金量で引けを取るとは思わないが、何といっても百戦錬磨の大相場師である。どのような仕掛けを施しているとも限らない。頭の片隅に新楽開発という材料もちらついていた。

 強硬策に打って出れば、さらに傷口を拡げる可能性がある。いや、傷口が拡がる程度で済めば良いが、壊滅的な打撃を受ければ取り返しがつかなくなる。

 そうかといって現時点で五百億円近い評価損を出しており、直ちに撤退しても七百億円、下手をすれば九百億円から一千百億円近い損失が見込まれた。

 勅志会の三百億円はどうにでも処理できるが、立国会に被らせることになる五百億円前後という巨額の損失は、とうてい誤魔化すことができない。いかに創設者の実子といえども、責任を回避できる額ではないのである。

 然して、立国会内部から糾弾の声が上がり始めた。予てから彼の独断専横の組織運営に不満のあった幹部たちから責任論が持ち上がったのである。

 これも森岡の策略だった。

 立国会中国地区の元幹部だった南目昌義に事情を打ち明け、組織内部の反勅使河原派を扇動させたのである。すでに役職を辞していたとはいえ、南目昌義は未だ立国会内部に顔は利いた。

 勅使河原の焦燥は極限に達しようとしていた。

 宗光賢治から声が掛かったのはそのときだった。

 彼の仲裁案は、森岡が勅使河原が被るであろう損失を最小限に食い止めるというものだった。正確な数字は提示していなかった。市場の過熱感が収まった頃合いを見て、森岡が断続的に成り行き売りをし、勅使河原の決済買いに応じようというものだからである。

 森岡は、株価が反転したのを機に持ち株を増やしていたが、そのうち半数近くをすでに売却し、約百五十億円の利益を得ていた。

 手元に残った株数は四千万株余で、勅使河原の所持している九千万株の半分弱に過ぎないが、それでも数千万株単位の大量売りは、一時的に株価を押し下げる要因にはなる。

 さらに是井金次郎が撤退した事実がニュースになれば、株価は一段と下落するだろう。後は、勅使河原がいかに機敏に決済を熟すかに掛かった。 

 苦渋の決断で、宗光の仲裁案を受け入れ結果、勅使河原は約五百億円の損失に留めることができた。立国会の損失は二百億円である。この損失も個人資産で穴埋する提案をしたため、勅使河原は引き続き会長の座に留まることになった。


 一方で、筧克至は海外へと逃亡した。

 是井金次郎が登場したとき、彼は約五千万円の含み益を出していた。潮目が一変し、上昇相場に転じたが、この時点で手際良く手仕舞えば、三千万円ほどの利益を手にすることができた。

 だが、筧はそうはしなかった。三好啓二から、勅使河原には現金資金として一千億円以上の余裕があるとの連絡を受けていたからである。

 是井金次郎の過去の相場から、彼の現金資金は多く見積もっても四百億円程度だと推察できた。筧は、是井金次郎の二倍以上の現金資金を有している勅使河原の優位は盤石で、いずれ盛り返すはず、と踏んだのだった。

 仕手相場の鉄則からすれば、決して間違った判断ではなかったが、筧の予想を裏切り、勅使河原が退却してしまったため、彼があわてて清算を終えたときには、一億二千万円という致命的な損失を出していたのである。

 当然のことだが、勅使河原公彦は極秘裏に撤退した。株式決済、つまり買戻しも自らが直接担当証券マンに指示を出した。売り方仕手本尊退却の情報が洩れれば、それこそ買い方を勢いづかせ、安値で買戻しさせようとの、折角の森岡の仲裁案が無に帰すことになるからである。

 故に、三好から勅使河原撤退の報を筧が受けたときには、時すでに遅し、後の祭りだったのである。 

 むろん筧克至には、腹を括って最後まで相場の成り行きを見定めるという選択もないわけではなかったが、彼には一神会に多額の損失を被らせてしまったのではないかという不安が付き纏っていた。

 是井金次郎の登場までは、含み利益が上がっていたはずなので、上手く手仕舞えば問題がないと思われた。ところが、最終の状況を聞き出そうにも、肝心の塩谷が音信不通となったのである。

 もしや、と直感的に身の危険を感じた筧は、海外逃亡を決心した。

 筧は新幹線や飛行機の利用を避けた。俗に、人混みの中に紛れるのが目立たないというが、逆に多くの目を気にしなければならないのも事実である。しかも、大阪駅や新大阪駅、関西国際空港と伊丹空港には、一神会の者が手ぐすね引いて待ち受けていると思わねばならない。

 筧は、中学時代の友人に頼み込み、彼の車で山口県の下関まで送ってもらい、そこから高速フェリーで韓国に渡った。

 その後、筧が韓国からどこへ雲隠れしたのかはわかっていない。いや、生死そのものが不明となった。


 結局、森岡は近畿製薬株の仕手戦で、総額百八十億円余の巨利を得た。

 森岡は、松尾正之助に十億円、林海偉に六十億円、真鍋高志と柿沢康吉の二人には、五億円ずつのプレミアムを付けて借り受け金を返済した。是井正樹については、宗光と勅使河原の談合の後、機敏な手仕舞いをして三十五億円余の利益を得ていたので、森岡との約束は果たされたものとなった。

 森岡の手元に残ったのは約百億円だった。

 この当時の株式譲渡益に対する課税は、申告分離課税と源泉分離課税の二択式であり、森岡は税金を支払っても八十億円以上を手にしたことになった。加えて二百万株の現物も継続所有していた。元手はすべて回収済みであり、時価総額の約三十億円はそのまま資産となった。

 それから一ヶ月後、ついに近畿製薬が抗癌剤の新薬開発成功を世間に正式公表したため、株価はさらに高値を追った。



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