第四十五話 知ってる、というほどじゃない
三月上旬、旅装の男が三度目の来店をした。二月四日以来、一か月ぶりだった。窓の外はまだ肌寒く、コートを脱がずに入ってくる客も多い季節だ。商店街の桜のつぼみは、まだ固く閉じたままだった。
「お久しぶりです」
「ああ」
男はいつもの席に座った。カウンターの一番端、決まった場所だ。荷物の重さも、いつもと変わらないように見えた。
「同じのを」
「マルゲリータですね」
樹は注文を通しながら、水を運んだ。グラスの水面が、カウンターの照明を映して小さく揺れている。
千夏は今日、休みだった。厨房には誠司だけがいて、生地を伸ばしている。石窯の火が、静かな店内に低い音を立てていた。樹は少し迷ってから、口を開いた。
「あの、前に聞いたこと、また聞いていいですか」
「なんだ」
男は水を一口飲んで、視線を樹に向けた。
「千夏さんのこと、『あいつらしいな』って言ってましたよね」
男の手が、水のグラスの上で一瞬止まった。カウンターの向こうで、誠司が生地を伸ばす手を、ほんの少し緩めたのが見えた。
「言ったな」
「知り合いなんですか」
「知ってる、というほどじゃない」
その言い方に、樹は聞き覚えがあった。先代について聞いたときと、同じ答え方だった。踏み込ませない、それでいて突き放さない、独特の距離の置き方だった。
「じゃあ、なんで『らしいな』って分かるんですか」
「顔を見れば、分かることもある」
「顔?」
「親父の方の血が強く出てる」
樹は、その言葉に驚いた。千夏の父親を知っている、ということになる。言われてみれば、千夏の輪郭や体つきは、ドワーフ寄りだと以前から思っていた。だが、それを見ただけで父親まで言い当てられるとは、想像していなかった。血のつながりというものが、こんなふうに外見に表れることを、樹はあらためて意識した。
「ゲンゾーさんのこと、知ってるんですか」
「消防士だろう」
男はあっさり答えた。それ以上の説明はしなかった。カウンターに置かれた手が、少しだけグラスを持ち直す。指先の動きに、それ以上語る気配はなかった。
「詳しくは、知らん」
男はそう繰り返した。
「町に長くいれば、顔くらい覚える。それだけだ」
樹は、その説明で納得しきれなかった。だが、それ以上聞いても、同じ答えが返ってくるだけだと分かった。誠司が石窯の前で、こちらの会話に聞き耳を立てているような気配があった。それでも、誠司は何も口を挟まなかった。まな板の上で、小麦粉が薄く舞っている。
ピザが焼き上がって、男は静かに食べ始めた。石窯の熱が、店内をいつも通り暖めている。誠司はもう仕込みに戻っていて、まな板を叩く音が規則正しく響いていた。
「兄ちゃん」
「はい」
「今日は、質問が多いな」
「すみません」
「いや」
男は少し笑った。口元だけの、小さな笑い方だった。
「いいことだ。聞かないでいたお前が、聞くようになった」
「変わりましたか」
「変わった」
それだけ言って、男は食事に戻った。樹はその横顔を見ながら、自分では気づいていなかった変化を、また一つ指摘されたような気がした。この人に会うたび、自分の内側にある何かを、少しずつ言い当てられている気がする。それが心地よいのか、落ち着かないのか、樹にはまだ判断がつかなかった。
会計を済ませて、男は扉に向かった。財布をコートの内側にしまう仕草も、いつもと変わらなかった。
「また来る」
「はい」
「次は、もう少し話せるかもしれん」
それだけ言って、外へ出ていった。三月の風は、まだ冷たかった。扉が閉まる音の後、店内には石窯の火の音だけが残った。
誠司が石窯の掃除をしながら口を開いた。
「聞いたか、樹」
「はい」
「あの人、ゲンゾーさんのこと知ってるんだな」
「そうみたいです」
「うちの常連には、ドワーフの職人も多いからな。どこかで会ってても、おかしくはない」
誠司はそう言って、灰をかき出す作業に戻った。特に深く考えている様子はなかった。それでも樹は、誠司なりに何かを察しているような気がした。誠司の背中は、いつも通りの丸まり方をしている。
「店長は、気にならないんですか」
「気にならないと言えば嘘になるけどな」
誠司は手を止めずに答えた。灰を集めるちりとりの音が、店内に小さく響く。
「気にしすぎても、答えは出ないだろ。うちは、そういう店だ」
その言い方には、諦めとも、覚悟ともつかない響きがあった。樹はそれを、誠司なりの答えとして受け止めた。
「話せるかもしれん、って言ってましたけど」
「ああ、聞こえてた」
「気になりますか」
「気になるさ。でも、待つしかないだろ」
誠司はそう言って、また作業に戻った。急かさない、というこの店の空気は、店長自身にも染み込んでいるらしかった。
閉店後、樹は帳面を棚から出した。四頁目の隣、二月四日の日付だけの記帳を、もう一度見た。表紙の布地は、まだ真新しい手触りを残している。
千夏が休みで良かった、と樹は少し思った。もし今日、彼女がここにいたら、この会話をどう受け止めただろうか。父親の話をされて、平静でいられただろうか。それは、樹には想像しきれないことだった。
次はもう少し話せる、と男は言った。その「次」がいつになるのか、樹には分からない。ひと月後かもしれないし、もっと先かもしれない。それでも、少しずつ、何かが近づいている気がした。急いで知る必要はない。それは、この一年で樹が学んだことの一つだった。
【境見町 異文化生活マナー帳 第八十四条より】
長く町にいる人ほど、知っていることを話したがらない。
知らないふりの方が、楽なこともある。
今回もお読みいただきありがとうございます(๑¯ω¯๑)
旅装のお客さん、三度目の登場でした。
「千夏さんのこと、知り合いなんですか」
「知ってる、というほどじゃない」
先代について聞いたときと、同じ答え方でした。
「親父の方の血が強く出てる」
ゲンゾーさんのことも知っているようです。
「消防士だろう」とだけ。
「次は、もう少し話せるかもしれん」
……いつになるでしょうね。




