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現実世界がVRMMOの世界と融合して、ぐっちゃぐちゃになった。  作者: 猫


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第4話 命懸けのチュートリアル

 ワイルドピッグは台所で残飯を漁っていた。

 両親が朝食で使った皿が、流し台に無造作に放置されている。

 湿った鼻先でそれらを嗅ぎ回り、皿に残った食べかすを舐め取っていた。


 三角コーナーがひっくり返され、キャベツの切れ端、人参の皮、魚の骨、昨夜の味噌汁に入っていた豆腐の欠片が、台所の床に散らばっていた。


 不意に、ワイルドピッグが由伸に気づいた。

 赤く小さな瞳が、ぎろりと向けられる。

 鼻がひくひくと動き、匂いを探るように空気を吸い込んだ。


「ぶぴぃ!」


 次の瞬間、その小さな目に明確な敵意が宿った。


「……嘘だろ」


 一応、ゲーム内でワイルドピッグと戦ったことはある。

 UUOを始めたばかりの頃、初期クエストで何度か狩った覚えがあった。


 だが、あれはあくまで画面の向こうの出来事だ。

 安全なVR空間での、痛みも恐怖も制限された仮想体験にすぎない。


 けれど、今は違う。


 目の前にいるのは、間違いなく自分を殺しに来ている存在だった。

 ゲームの中ではただのデータでしかなかったものが、現実の脅威として由伸の前に立っている。


 ワイルドピッグが、由伸へ向かって猛烈な勢いで突っ込んできた。


「う、うわあああああああ!」


 情けない叫び声が口をついて出る。


 四本の太い脚が床を蹴り、筋肉質な身体が弾丸のように加速していく。

 三百キロを超える巨体が全速力で迫ってくる。

 物理的な圧迫感に、全身がすくみそうになる。


 ワイルドピッグは、由伸に回避や抵抗の隙を与えないまま、その巨体ごとぶつかってきた。


「ぐはあっ!」


 巨大なハンマーで殴られたような衝撃が、内臓を激しく揺さぶる。


「がはっ、げほっ……!」


 肺の中の空気が一気に押し出され、息ができなくなる。

 横隔膜が痙攣し、どれだけ口を開けても空気が入ってこない。


 痛みが、あまりにも生々しい。


 これは拡張現実などではない。

 ARなら、現実世界にCGを重ねるだけのはずだ。


 こんな物理的な衝撃も、内臓をかき回されるような痛みも、ありえない。

 ゲーム世界では痛覚はリアルの一割以下にまで抑えられている。


 安全性を考慮して、大幅に軽減されていた。

 心臓を一突きされれば、ショック死するプレイヤーだって出かねないからだ。


 中には、より現実的な戦闘を味わいたいがために、痛覚設定を限界まで引き上げて遊ぶ変態もいる。

 それでも上限は二五パーセントとされていた。


 しかし、今由伸が感じている痛みは本物だった。

 言ってしまえば、痛覚設定一〇〇パーセント。


 ワイルドピッグの突進は、野生の獣に撥ね飛ばされたかのような衝撃だった。

 いや、それ以上かもしれない。

 モヤシみたいな由伸の身体には、致命的な一撃だった。


 ゲーム内なら、ワイルドピッグなど鼻をほじりながらでも倒せる相手だった。

 レベル686の由伸にとっては、存在を意識する必要すらない相手だったはずなのに。


 だが今の由伸は、レベル1。

 装備もスキルも何もない、最弱の状態だった。

 弱くてニューゲーム。

 生まれたての赤ん坊みたいに、何ひとつ持っていない。


 うずくまったまま呼吸を整えようとしていると、その隙を狙ってワイルドピッグがもう一度突進してきた。


「ちょっ……待っ……ぁっ!」


 今度もまともに食らってしまった。

 脇腹に直撃を受け、身体が押し上げられるように宙へ舞う。


 吹き飛ばされた先はリビングだった。

 背中から食器棚に激突し、中の食器が一斉に崩れ落ちる。

 母親が大切にしていた茶碗や湯呑みが、派手な音を立てて床に散乱した。


「ぁ……ぐぅ」


 痛みに喘ぐ中、由伸は異変に気づいた。

 視界の上の方に、緑色のバーのようなものが浮かんでいる。

 まるでゲームのUIみたいに、視野へ直接投影されていた。

 細長いゲージの左端には、小さくHPと表示されている。


「……これって、HPゲージか……?」


 HP。

 ヒットポイント。

 つまり自分の体力を表すゲージだ。


 最大HPは30。

 二度の突進と食器棚への激突で、数値は14まで下がっていた。

 緑色だったバーは黄色へ変わり、危険域に入ったことを示している。


「マジか……本当にゲームのシステムが現実に……」


 もしこれがゼロになったら、どうなる。

 本当に死ぬのか。

 冗談じゃない。

 豚に殺されるなんて、ギャグもいいところだ。


 これまでの人生で、現実の死を間近に感じたことなど一度もなかった。

 交通事故に遭いかけたこともなければ、病気で生死の境をさまよったこともない。


 ゲームの中では何千回、何万回と死んできた。

 だが、それは所詮バーチャルな体験でしかなかった。

 あー死んだ、くらいの軽い感覚で、数秒後には復活していた。


 しかし今は違う。

 目の前にあるのは、本物の死の可能性だ。

 今さらになって膝が震え、歯の根がカチカチと鳴り始めた。


「何か……何か、武器になるものはないか……」


 貧弱な拳がモンスターに通用するとは思えない。

 素手で猛獣と戦うなど、自殺行為でしかなかった。

 由伸は必死にあたりを見回した。


 リビングには、母親の趣味である手芸用品の入った裁縫箱や、父親の読みかけの新聞が散らばっている。

 だが、武器になりそうなものは見当たらない。

 毛糸玉が武器になるはずもないし、編み棒では頼りなさすぎる。


 ワイルドピッグが、また馬鹿の一つ覚えみたいに突っ込んでくる。


 そこで、由伸は重要なことに気づいた。


 ワイルドピッグの突進は直線的で、方向転換が利かない。

 これはゲーム内でも基本的な行動パターンだった。

 つまり、タイミングよくかわすことができれば、相手は壁へ突っ込む。


「ふっ……!」


 由伸は咄嗟に身を浮かせ、馬跳びのようにワイルドピッグの背を飛び越えた。

 まさか小学生の頃に体育で習った動きを、生死のかかった場面で使うことになるとは思わなかった。

 狙いどおり、ワイルドピッグは壁に激突し、一瞬だけ動きを止めた。


「ぷぼぎぃっ!」


 その隙に、由伸は台所へ転がり込んだ。

 台所には武器になりそうなものがいくつかある。

 包丁、まな板、すりこぎ棒、フライパン。

 この中で最も威力がありそうなのは――やはり包丁だろう。


「包丁なんて握ったの、生まれて初めてだよ……」


 いつも料理をしていたのは母親で、由伸は一度も手伝ったことがない。

 台所に立つこと自体、ほとんどなかった。

 まさか料理ではなく、武器として手に取る日が来るとは思わなかった。


「これで……これで戦るしかねぇ……!」


 刃渡り二十センチほどの、ごく普通の三徳包丁だった。

 普段は野菜や肉を切る道具にすぎない。

 だが今は、由伸の命を守る唯一の武器だった。


 次に、盾代わりになるものを探す。

 視線が向かったのは、コンロの上に置かれた中型のフライパンだった。


「フライパン……これなら盾として使えるか?」


 ステンレス製のフライパンは、手に取ると思った以上に重かった。

 底も厚く、盾代わりにするには十分そうだ。


 円形の底面なら攻撃を受け止めやすいし、持ち手があるぶん扱いにも困らない。


 左手にフライパン、右手に包丁。

 そうして構えを取ってみると、我ながらひどく不恰好で頼りなかった。


 ゲームでは剣と盾を装備したこともある。

 だが、現実で武器を構えるのは初めてだ。

 そもそもこれを武器と呼んでいいのかも分からない。


「……来いよ!」


 由伸の声に応じるように、ワイルドピッグが再び突進してくる。

 行動パターンは変わらない。

 直線的な突進攻撃、それだけだ。


「うわあああああああ!」


 恐怖を振り払うように叫びながら、由伸は包丁をでたらめに振り回した。

 正確な狙いをつける余裕などない。

 ただ、目の前の脅威を排除したい一心で、必死に刃を振るう。


 幸運にも、包丁はワイルドピッグの前足を切り裂いた。


「んぽびぃ!」


 ワイルドピッグが苦痛の叫びを上げる。


 ざしゅっ、という音とともに、血飛沫めいた赤いポリゴンが弾けた。

 現実の血液ではない。

 どう見てもゲームのグラフィック処理だ。

 赤い三角形や四角形の小さな破片が空中に舞い、数秒後に消えていく。


「これは……本当に」


 そこで由伸は確信した。

 目の前にいるのは、たしかにゲームの中のモンスターだ。

 本物の豚というわけではない。


 原理は分からない。

 だが、あの異星人が口にしていた高度な文明だか何だかが可能にした技術なのだろう。

 イカれた生体工学技術とやらで実体化された、本物のゲームモンスターだ。


 ――カチリ、と頭の中で何かが噛み合う。


 さっきまでガタガタ震えていた膝が、ぴたりと止まった。

 死の恐怖に支配されていた脳が、急速に冷えていく。


 そうだ。

 目の前の怪物は、得体の知れない化け物じゃない。

 攻撃判定を持ち、一定のアルゴリズムで動く、ただの低レベルモンスターだ。


「────スゥ」


 浅く息を吐く。


 恐怖が消えたわけではない。

 それでも、敵はもう『化け物』ではなく『攻略対象』に変わっていた。


 何万時間もVR空間に身を沈め、日本ランキング一位にまで上り詰めた由伸のゲーム脳が、この異常事態を戦場として定義した。


 今の一撃で、相手のHPは一気に半分まで削れている。

 ワイルドピッグの頭上にも、由伸と同じようなHPバーが表示されていた。

 最初は満タンだったゲージが、今では半分近くまで減っている。


 いや、包丁めっちゃ強いな。

 やはり武器の攻撃力は素手とは比べものにならない。

 ゲームの仕様どおり、武器判定による補正は絶大だ。


「フゥ……フゥッ!」


 ダメージを受けて追い詰められたのか、ワイルドピッグは息を荒くし、今度は牙を剥いた。


 おそらく次は突進ではなく、『噛みつく』だろう。

 ゲーム内でも、HPが減るとモンスターは別の攻撃パターンを使ってきた。


 だが由伸は、さっきまでとは比べものにならないほど冷静になっていた。


「こんな奴、悪魔神と比べれば屁でもない……」


 先ほどまでの恐怖が嘘のように薄れている。

 一度攻撃を通したことで、自信が湧いてきたのだ。

 ゲーム内で培った経験と知識が、現実でも通用すると分かったからだった。


「俺は日本ランキング一位だったんだ……こんな雑魚に負けてたまるか……!」


 ワイルドピッグが噛みつこうと口を開けた瞬間、由伸はフライパンを前へ突き出した。

 鋭い牙がフライパンの底面に突き刺さり、ガキンという金属音が響く。


「食いついた……!」


 フライパンはわずかに凹んだが、牙を完全に受け止めることには成功した。

 ワイルドピッグが牙を引き抜こうともがく、その隙に、由伸は包丁を振り上げる。


「これで……終わりだ!」


 そして、ワイルドピッグの頭へ包丁を突き立てた。

 ザク、という鈍い音とともに、刃が頭蓋を貫く。

 ワイルドピッグは最後の鳴き声を上げ、青い粒子となって空中へ散った。

 無数の光がきらきらと舞い、やがて消えていく。


「……た、倒したのか?」


 額に汗を滲ませながら、由伸は呟いた。

 手元に残っているのは、包丁と、わずかに凹んだフライパンだけだ。

 フライパンの底には、ワイルドピッグの牙によってついた二つの小さな凹みが刻まれていた。


 次の瞬間、温かなエネルギーが内側から湧き上がり、全身を駆け巡った。

 脇腹を抉られたような激痛が和らぎ、食器棚へ叩きつけた背中の痛みも嘘みたいに消えていく。

 視界の端では、黄色く点滅していたHPゲージが一瞬で満タンの緑へ戻っていた。


 さらに、視界に新たな表示が現れる。


『経験値を15獲得しました』

『レベルがアップしました Lv1→Lv2』


『12ゴールド獲得しました』

『ワイルドピッグの肉を獲得しました』

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