第1話 アンリミテッド・ユニヴァース・オンライン
アンリミテッド・ユニヴァース・オンライン。
通称UUO。
世界規模で展開されているこのVRMMOは、もはや単なる娯楽の枠に収まらない存在だった。
田中由伸にとって、この世界は現実以上にリアルな場所だ。
深夜零時。
由伸はいつものようにVRヘッドセットを装着する。
重量感のあるデバイスが頭を包み込み、視界を完全に閉ざした。
次の瞬間、意識は無限に広がる仮想大陸へと移る。
UUOの世界は、まさに果てしない宇宙そのものだった。
メイン大陸だけでも日本列島の十倍以上の面積を持ち、そこからさらに無数の島々、空中都市、地下世界、果ては別の惑星にまで広がっている。
開発チームの発表によれば、探索可能なエリアをすべて合わせた広さは、地球の陸地面積の三百倍に達するという。
レベル上限という概念すら存在しない。
100を超えてなお、理論上はいくらでもキャラクターを成長させられる。
スキルシステムも同様で、確認されている魔法系だけでも一万種類を軽く超え、さらにそこから無数の派生技能が枝分かれしていた。
戦士系、盗賊系、職人系、学者系――職業の選択肢は千を超える。
しかも自由に組み合わせることで、世界に一つしかない独自のビルドを作り上げることができた。
毎日午前零時に行われるアップデートも、このゲームの大きな魅力だった。
日付が変わるたび、新しいモンスターが追加され、新しいダンジョンが生まれ、新しいアイテムやクエストが実装される。
開発チームは世界中にスタッフを配置し、二十四時間体制でコンテンツを作り続けていた。
昨日まで存在しなかった大陸や惑星が、今日になって突然現れることも珍しくない。
モンスターの種類はすでに百万種を超え、それぞれが独自の行動パターンを備えている。
驚くべきは、サーバー停止を伴うメンテナンスが一度も存在しないことだった。
UUO独自の『シームレス・アップデート』技術は、プレイヤーがログインしたままの世界をリアルタイムで書き換え、拡張していく。
だからこそプレイヤーたちは、止まることのない世界に、いつまでも没頭し続けられる。
専門家の試算では、このゲームを完全攻略するには八百年を要するという。
もっとも、それは現時点で存在するコンテンツだけを対象にした計算にすぎない。
日々追加される新要素まで含めれば、規模はもはや実質的に攻略不可能と言ってよかった。
そんな無限の可能性を秘めた世界で、由伸は日本プレイヤーランキング第一位の座にいた。
誰も終わりを知らない果てしない荒野で、由伸だけが誰よりも先を走っている。
一日十五時間。
それが由伸の平均プレイ時間だった。
深夜零時から昼の三時まで。
食事とトイレを除けば、ほとんどの時間をUUOに捧げている。
だが、ただ長く遊んでいるだけで上位ランカーになれるほど、このゲームは甘くない。
UUOの評価システムは極めて複雑で、プレイヤーの実力は総合的な能力値で測定される。
まず基準となるのはキャラクターレベルだが、由伸の現在のレベルは683。
日本人プレイヤーの平均が50から60程度であることを考えれば、圧倒的な数値だった。
とはいえ、レベルだけで真の実力が決まるわけではない。
代表的な指標の一つが反射神経である。
ゲーム内で自動的に行われる能力測定では、由伸の平均反応時間は0.13秒。
判定はS+ランク。
一般的なプレイヤーの三分の一以下という驚異的な記録だった。
続いて情報判断能力。
複雑な戦闘状況の中で、膨大な情報を瞬時に整理し、最適な行動を選び取る力が問われる。
視界内の敵の攻撃パターン、仲間の状態、地形の特徴、アイテムの効果時間。
そうした複数の要素を同時に把握し、勝利への道筋を導き出さなければならない。
この判定もSランクだった。
さらに戦略構築能力、リソース管理能力、危機回避能力、環境適応能力など、評価項目は多岐にわたる。
ランキングはそれらすべての総合点で決まる。
由伸はあらゆる項目で上位一パーセント以内に入り、総合スコアで日本一の座を掴み取った、まさに最強のプレイヤーだった。
少なくとも国内に敵はいない。
世界まで視野を広げても、由伸に並べる実力者は片手で数えられるほどしかいなかった。
しかし、VRヘッドセットを外した現実の由伸は、ただの痩せこけたモヤシでしかなかった。
鏡に映る自分の姿を見るたび、胸の奥に重い情けなさが沈んでいく。
身長165センチに対して、体重は44キロ。
頬はこけ、腕は細い。
風が吹けば倒れてしまいそうなほど華奢な体つきだった。
目の下にはうっすらと隈が刻まれ、肌は不健康な青白さを帯びている。
手に残るコントローラーの感触と頭を締めつけていたデバイスの重み。
そんな無機質な感覚だけが、由伸が今も現実に取り残されていることを、かろうじて証明していた。
十六歳でありながら、由伸はすでに五年以上も学校に通っていない。
両親も最初こそ心配していたが、今では半ば諦めたような顔を見せるようになっていた。
父親は由伸を見るたびに溜息をつき、母親は食事を部屋まで運んでくれるものの、表情には失望の色が隠せない。
家族にとって、自分は重荷でしかない。
由伸はそのことを痛いほど理解していた。
人付き合いの苦手さは、ゲームの中でも変わらなかった。
UUOには二億人ものプレイヤーが存在し、多くの者がギルドやパーティを組み、協力しながら冒険を楽しんでいる。
だが由伸は、誰とも関わろうとせず、一人ですべてをこなしていた。
パーティ申請は断り続け、チャットで話しかけられても返事をしない。
日本ランキング一位という称号を持ちながら、フレンドリストはいつも空白のままだった。
まさに孤高のプレイヤー。
けれど由伸は、それでいいと思っていた。
たとえ一人でも、ゲームそのものは心の底から楽しでいたからだ。
「…………」
プレイ時間が一定を超えると、警告サインが表示される。
視界の端で、小さな黄色い光が点滅し始めた。
ここから先は一時間ごとに警告メッセージが流れる仕様になっている。
だが由伸は、いつものように無視した。
『プレイ時間が十時間を超えました。適度な休憩をお勧めします』
システムの警告など、もはや耳に入らない。
むしろあの黄色い点滅は、残された時間を意識させ、かえって集中力を高めることさえあった。
残り五時間。
限られた時間への焦りが、ゲームへの没入をさらに深めていく。
そして昼の三時。
ついに、その時が訪れた。
視界全体が真っ赤に染まり、けたたましい警告音が響き渡る。
もう抗うことはできない。
システムの絶対的な権限によって、由伸は仮想世界から強制的に引き剥がされた。
『本日のプレイ時間が十五時間に達しました。健康管理のため、ゲームを強制終了いたします』
機械的なアナウンスとともに、仮想世界が闇に沈む。
やがて視界が戻ると、そこには薄暗い自分の部屋があった。
異様に腹が減っていた。
十五時間もの没頭のあとには、決まって暴力的な空腹感が押し寄せてくる。
だが、食事を作る気力も、外へ買いに行く勇気もない。
母親はこの時間、パートで家にいない。
冷蔵庫にあるもので適当に済ませるしかなかった。
由伸はキッチンへ向かい、残り物のご飯と昨日の味噌汁を電子レンジで温めた。
窓の外では、午後の太陽が容赦なく照りつけている。
世間の人々が仕事や学業に追われている時間に、由伸は一人で粗末な食事を口にしている。
そんな時間のずれが、社会から取り残されている現実を容赦なく突きつけてきた。
一日一食の食事。
ゲームの中では豪華な料理を食べているのに、現実ではこんな粗末な食事で命を繋いでいる。
味気ない食事を機械のように口へ運びながら、由伸は虚しさを噛み締めていた。
食事を終えると、由伸は再び部屋へ戻った。
体重は日に日に減り、筋肉は衰えていく。
階段を上るだけで息が切れ、少し動いただけで疲れ果てる。
それでも明日になれば、また十五時間をゲームに費やすのだろう。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
眠気はあるのに、すぐには眠れない。
この時間が、いちばん辛かった。
一人きりの静寂の中で、さまざまな思いが胸を巡っていく。
このままで本当にいいのだろうか。
そんな問いが、心の奥をじわじわと蝕んでいく。
ゲームの中では確かに充実したものがあった。
新しい発見があり、成長があり、達成感がある。
だが、どれも仮想世界での出来事にすぎない。
現実の由伸は、何一つ成し遂げていない。
何一つ成長していない。
友人もいない。
恋人もいない。
将来への希望もない。
ただ、漠然とした不安だけがあった。
楽しいのだからそれでいい。
好きなことをして、好きなように生きればいい。
これまで何度も、己にそう言い聞かせてきた。
だが、心の底から湧き上がる不安は日に日に強くなるばかりだった。
このまま時間だけが過ぎていき、気づけば二十歳になり、三十歳になっているのではないか。
その時、自分に何が残っているのか。
ゲームの実績だけが人生のすべてになってしまうのではないか。
同世代の若者たちが学校で学び、友人と語り合い、恋愛を経験しているあいだ、由伸は一人で仮想世界へ逃げ込み続けている。
社会から取り残されていく恐怖が、ずっと胸を締めつけていた。
けれど、現実と向き合う勇気がない。
人と関わる勇気がない。
変わろうとする度胸もない。
だからきっと、明日もまたUUOの世界へ逃げ込むのだろう。
不安をかき消すように仮想世界の冒険へ身を委ね、現実逃避を続ける。
レベル上げという名の徒労に時間を費やし、意味のない達成感で心の穴を埋めようとする。
明日もまた、同じような一日を過ごす。
深夜にVRヘッドセットを装着し、昼まで仮想世界で過ごす。
そして午後に現実へ引き戻され、空腹感と虚無感に苛まれながら眠りにつく。
このループから抜け出したいと思いながら、抜け出す術は分からない。
そんな自分が情けなく、悔しく、それでもどうすることもできない。
自己嫌悪に沈むうちに、重いまぶたが少しずつ閉じていく。
意識が薄れていく中で、由伸は最後にもう一度だけ、自分自身へ問いかけた。
本当に、このままでいいのか、と。
みんな普通に生きている。
みんな当たり前のように社会に溶け込んでいる。
どうして自分だけが、こんなふうになってしまったのか。
どうして自分だけが、取り残されているのか。
憎悪にも似た感情が、胸の奥からじわりと湧き上がる。
────こんな世界、ぐちゃぐちゃになってしまえばいいのに。
しかし、そんな破滅的な願いさえ、睡魔には抗えなかった。
由伸は深い眠りの淵へと沈んでいく。
この時の由伸は、まだ知る由もなかった。
こんな破滅的な願いが、まもなく最悪の形で現実になることを。




