愛おしい呼び名
アルベルクはリリアーヌの姿を求めて廊下を歩く。
ロジェからの情報によれば、この時間、彼女は図書館にいることが多いらしい。ロジェは終始アルベルクの傍にいるくせに、何故か、リリアーヌの動向についてもやけに詳しかった。
図書室の扉を押し開き、足音を忍ばせて並ぶ本棚の間を覗き込んでいく。
――いた。
彼女が好きな地理の本を集めた区画で、床にしゃがみこんで開いた紙面を食い入るように読んでいる。
(僕以外が見たら驚くだろうな)
普通の貴族令嬢は、絶対にしない行動だ。
真剣な横顔が幼い頃のリリアーヌそのもので、あの頃も、アルベルクの寝台に持ち込んだ本を、二人で額をくっつけんばかりにして読んだものだった。下唇を小さな前歯で噛むのが、彼女が集中しているときの癖だ。アルベルクはしばらくそれを堪能した後、そっと声を掛ける。
「リリアーヌ」
一度では反応しない。
「リリアーヌ」
もう一度。
「リリアーヌ」
アルベルクは束の間考え、また、口を開く。
「――リリィ?」
刹那、弾かれたようにリリアーヌが顔を上げた。
大きく見開かれた目には喜びに近い色が溢れていて、それが、すぐに失望へと変わる。
「ッ! ……アルベルク様……その、呼び方は……」
「ごめん、嫌だったかい?」
「いえ……」
リリアーヌはかぶりを振り、微かに笑んだ。
寂しげに。
「お好きなように、お呼びください」
その言葉に滲む微かな諦念が、妙にアルベルクの胸を締め付けた。
リリィという呼び名は、アルベルクの中にある『知らない記憶』の一つだ。その名を口ずさむと、彼の胸の中が温かで心地良いもので満たされる。愛称としてはありふれたものだというのに、リリアーヌに向けると特別なものになる。
『オレも、ずっと、そう呼べたらいいのにって思ってた』
悔しさと嬉しさが入り混じった声が頭の中に響く。
『リリィが○○って呼んでくれるたび、オレもリリィって呼べたらいいのにって思ってた』
心底から請うているのが、ひしひしと伝わってくる。
『とってもとっても、大事な名前なんだ』
(わかるよ)
アルベルクの中のソレがどれだけ大事に思っているか知っているから、今まで口にはしなかった。
(だけど、僕は変わりたいんだ)
自分を、そして、リリアーヌとの関係を。
変えて、新しく築いていきたい。
と、リリアーヌが身じろぎをし、立ち上がろうとした。
アルベルクは反射的に手を貸そうと手を伸ばしかけたが、やはり――
(駄目か)
ギュッと握り締めた彼の手には気付かなかったように、いや、多分、見なかったふりをして、リリアーヌは身軽く立ち上がる。
「わたくしをお探しでしたか? 何か、ご用でしょうか?」
アルベルクを見上げてくるその笑みは、彼だけのものではない。再会した頃は笑顔を見られればそれで満足だったのに、今は、誰にでも向けられるそれに物足りなさが募るばかりだ。
「少し時間ができたんだ。二人でどこかに出かけないか?」
「よろしいのですか?」
問いと共に向けられる、うかがう眼差し。
そんな顔をさせてしまうのも、自分の態度のせいなのだとアルベルクは歯噛みする。
「私が行きたいんだ」
アルベルクがリリアーヌと共に過ごすのは、彼がそうしたいからだ。
公務としての舞踏会や夜会に参加するときも、束の間の休憩の席を過ごすときも、どんなときも。
彼女が踊る相手は自分一人だけでいいし、他の誰かがあの小さな手を取るところなど想像すらしたくない。
ほんの少しでも時間があるなら、茶の一杯を飲み干すだけの時間でも、共に過ごしたい。
けれど、恐らく、リリアーヌには、それらは皆、『婚約者の義務』としてこなしているだけだと受け止められている。
(いや、もしかしたら、リリアーヌにとっても、僕の相手をすることは『義務』なのか……?)
そんなことは考えるのも嫌で、アルベルクはすぐさま頭の中から追いやった。仮にもしもそんなふうに思われているのなら、一刻も早く挽回しなければ。
フェリクスが言ったように、リリアーヌと言葉を交わし、自分の思いを伝えて、彼女の思いを知って。
「来てくれるだろう?」
アルベルクは否という返事を許さぬ圧を込めてリリアーヌに微笑みかけた。




