この身の中の
今リリアーヌが話しているのは、珍しく、彼女と同じ年頃の令嬢だ。いつもなら、父親ほどの年の者に囲まれているのだが。
多分、アルベルクが社交界に出るようになってから彼に付きまとっている娘らの中の一人なのだろう。
アルベルクにも見覚えはあるものの、貴族は金髪に青か緑の目ばかりで、『美の基準』も似たり寄ったりだから、どれも区別がつかない。
リリアーヌは彼に背を向ける形になっているからどんな表情をしているか判らなかったが、令嬢の顔を見れば二人の間で交わされている会話の内容は察せられる。
(ブランシュ公爵の娘に居丈高になれるなど、もの知らずもいいところだな)
令嬢の父親が知ったら、きっと卒倒するだろう。
が、リリアーヌに降りかかる火の粉を払ってやるのは、家格の威よりもアルベルク自身でありたいし、そうであらねばならない。
近づくアルベルクに先に気づいたのは令嬢の方で、刹那、表情が一変した。
「アルベルク様!」
鼻から抜けるような甲高い声が実に耳障りだ。
それを無視して、彼は振り返ったリリアーヌに甘く微笑みかける。
「リリアーヌ、楽しんでいるかい?」
普段冷笑ですら欠片も浮かべないアルベルクの全開の笑顔に、令嬢は一瞬口惜しそうな表情を浮かべたが、それはすぐに侮りに変わる。
「お二人はいつも仲がおよろしくて、うらやましいですわ」
そう言う名も知れぬ令嬢の口元に浮かんでいるのは、台詞の中身とは裏腹の嘲笑だった。
それも、当然だ。
本当に仲睦まじいなら、近づくと同時にリリアーヌを腕の中に引き寄せている筈なのだから。
実際、彼女に近づくとアルベルクはいつもそうしたい衝動に駆られたが、それに負けて、今まで何度も失敗を繰り返してきている。伸ばした手をひきつらせたアルベルクに向けられるリリアーヌの寂しげな顔を見たくなくて、彼女の傍に寄ると両手を固く握りしめる癖がついてしまった。
傍から見れば、きっと、リリアーヌのことを拒んでいるかのようだろう。
(クソ)
王子らしくなく胸の内で罵るが、やはり、身体は動かせない。
こうやって、最初から彼女に触れようともしないのと、手を伸ばして触れられずに固まるのと、どちらの方がマシなのか。
と、二人の間に流れるぎこちない空気に満足したように、令嬢がしたり顔でほくそ笑んだ。
「アルベルク様、わたくしはこれで失礼させていただきますわ。あまりお二人のお邪魔になってもいけませんものね」
そう言ってリリアーヌを一瞥したあと媚びる笑みをアルベルクに投げかけて、彼女は去っていく。
すぐ隣に婚約者がいる男に、どうしてあんなにも慣れ慣れしくできるのか。
忌々しいし、理解できない。
アルベルクは汚泥を投げつけられたような不快感をふるい落とし、リリアーヌに向き直った。そうして、礼儀正しく曲げた肘を彼女に差し出す。これは、色々と試してみて見つけた、リリアーヌを誘うのに支障がない動きの中の数少ない一つだった。
彼女を見下ろし微笑みかける。
君といることを心底から望んでいるのだと伝わるように。
「少し動こうか。今日はケダ国の人も来ているよ。覚えているかい? 昔、本を持ってきてくれたことがあっただろう? ほら、魚を生で食べるとか」
刹那、リリアーヌの顔がパッと輝いた。彼女の喜びが、真っ直ぐにアルベルクに突き刺さる。
「はい! 言葉も覚えました」
弾む声でそう言ってから、すぐにはしゃぎ過ぎだと思ったのか、スンと表情を改めた。
それを残念に思いながら、アルベルクは続ける。
「私も覚えたよ。君が彼らと話すのを、横で指をくわえて眺めているのは嫌だから。ほら、あそこの黒髪の集団だ。行ってみる?」
言いながらまた肘を差し出すと、リリアーヌはほんの少しの逡巡を見せた後に頷いた。アルベルクがリリアーヌに触れるのを躊躇うせいか、彼女も次第に彼に手を伸ばすことを躊躇うようになってきていることには彼も気が付いていた。
が、気が付いていても、どうにもできない。
「……はい」
一拍遅れてそっと腕に置かれた小さな手から伝わる熱が、さざ波のように広がっていく。
アルベルクは厚い生地の上着を着ているし、リリアーヌは手袋をしているが、それでも、彼女に触れられたところには心地良い温もりが灯る。そこから浸透してくるその温かさに、彼の奥底に棲む何ものかが喜びに震えるのが、判る。
(お前と僕は同じものなのだよな)
己の奥底に向けて、アルベルクは苦笑混じりでそう呟いた。
全く別の存在であるのは明らかだというのに、根っこの部分は嫌というほど理解できる。
リリアーヌのことが愛おしくてたまらないという、想いだけは。
人の間をゆっくりと歩きながら、アルベルクはリリアーヌを見つめる。
身長差があるせいで、こうやって並んで歩く間ずっと見ていても、リリアーヌが気づくことは滅多にない。
丸い頭が可愛らしい。
長い睫毛が時折はためくのが可愛らしい。
あまり高くない鼻も可愛らしい。
ふっくらした頬の丸みも可愛らしい。
真正面から眺めるリリアーヌも好きだが、高いところから見下ろすリリアーヌも、何度見ても見飽きない。
アルベルクの、いや、彼の中の何かの記憶にもっとも強く残っているのは少し低いところから見上げるリリアーヌで、彼女の頭の天辺を見るのは未だに新鮮な喜びがあった。
(僕の中にいるものは、いったい、何なのだろう)
低い視点と幼い思考は、年端もいかない子どもを思わせる。
だが、子どもにしては、想いが強い気がする。
それは愚直なまでにひたむきで、まるで世界にリリアーヌしか存在していないかのようだ。
ただただ彼女が大事で、愛おしい。
アルベルクも同じくらい強い想いを抱いているけれども、もっと、純粋なものに感じられた。
(お前は僕よりも彼女に近いものだったのか……?)
アルベルクよりも遥かに長い時間を、彼女と共に過ごしていたのだろうか。
そう思うと、焼けつくような嫉妬に見舞われる。
(僕が傍に居られなかった間、僕と同じくらい強くリリアーヌのことを想っていたのか)
自分以上に彼女を想うものなどいない。
――そう確信していたけれども、この身の中の何ものかの存在を感じるたびに、その自信が揺らぐ。
あまりに凝視し過ぎたせいか、アルベルクの視線に気づいたように、ふとリリアーヌが顔を上げた。
小首をかしげて見上げてくる様が、やっぱり、愛らしい。
「すまない。今日の君もきれいだから、見惚れていたんだ」
妬心を包み隠した、けれど、本心からの言葉は、スラスラと淀みなく口から滑り出す。
だが、リリアーヌにはうまく届かなかったらしい。うつむいた彼女から、呟き声が届く。
「わたくしは、綺麗と言われるような容姿ではありません」
確かに、いわゆる『美女』と称されるものではないだろうが。
「君は、私にとってはこの世で一番きれいな女性だよ」
アルベルクからすれば、リリアーヌは存在そのものが美しいのだ。
しかし、その言葉でも、彼女の顔は上がらない。
(どうしたら、伝わるんだ?)
アルベルクにとって、リリアーヌは唯一無二かつ至上の存在なのだと。
(フェリクスやロジェなら、難なくできるのだろうな)
社交界を波のない湖のように泳ぎ回ることができる弟や侍従の姿を思い出し、アルベルクはこっそりとため息をこぼした。




