諏訪の湖(三)
勝頼は笑って自分の羽織を脱ぎ、佐奈姫の肩にかけてやった。
「まあ、いけません」
「何がいけない」
「御館さまがお風邪を召してしまわれます」
「女子のそなたが平気だという程度の寒さで余が風邪を引くと申すか」
「いえ。でも……」
佐奈姫は慌ててかぶりを振った。
「もったいのうございます」
「ついて来たいのならばおとなしくそれを着ておれ」
勝頼が言うと、佐奈姫はきょとんとした顔になった。
「え、では…」
「少ししたら戻るのだぞ」
佐奈姫がぱっと顔を輝かせた。
「ご一緒してもよろしいのでございますか?」
「良いも悪いも。そのように泣かれてはどうしようもない」
「ありがとうございます」
佐奈姫は嬉しそうに羽織の襟元をかき合わせて、勝頼を見上げた。
「あとで熱を出して寝込んでも知らぬぞ」
「はい」
「さっきまでべそをかいていたのがもう笑った」
「だって嬉しいのですもの」
佐奈姫はにっこりと笑った。
信勝たちが先に館へ戻ったあと、勝頼は佐奈姫を連れて湖岸が、湖に向かって少し突き出したところに建っている古びた東屋まで歩いていった。
勝頼の母、諏訪御料人の在世中に父信玄が建てさせたもので、母が世を去り勝頼が高遠城主となってこの地を離れてからは、あまり使われることもなく古びるままになっていた。
東屋からは湖が広く見渡せた。
折りしも沈みかけた夕陽が西の空を茜色に染め上げ、湖面をきらきらと黄金色に彩って美しい色合いを見せていた。
そのすべてのうえにはらはらと桜の花びらが舞い飛ぶ様子は幻想的で、夢のように美しかった。
「綺麗…」
佐奈姫の口から溜息のような声が洩れた。
姫は黒目がちの瞳を潤ませ、魅入られたように湖をみつめていた。
湖上をわたってきた風が姫の黒髪を揺らして吹き過ぎる。
ふわりと香るほのかな花のような香りに誘われて手を伸ばすと、小さなからだは簡単に引き寄せられて
腕のなかにおさまった。
瞬間、勝頼の胸にかすかに軋むような痛みが走った。
その痛みには覚えがあった。
十年以上前。
やはり嫁いで来たばかりの妙姫を伴って諏訪を訪れた。
自分が一番好きな風景を見せたくてこの場所にも一緒に来た。
「どうだ。美しいであろう」
という勝頼の言葉に妙姫は黙って頷いた。
優しく美しい笑みを浮かべたその瞳は、湖に向けられてはいたけれどそこではないもっと遠くをみつめているようだった。
あの時も、勝頼はこうして妙姫を腕のなかに抱き寄せた。
妙姫はされるがままにおとなしくしていたが、一度も勝頼の方を見ようとはしなかった。
姫は勝頼の肩越しにいつも勝頼ではない何かを見ているかのようだった。
その目勝頼の母、諏訪御料人の目を思い出させた。
母は美しい人だったが、その顔はいつもどこか寂しげでここにはない何かを探し求めるような、決して取り戻すことの出来ない何かを惜しむような切なげな目で勝頼をみつめていた。
それが何だったのかは今となっては分からない。
けれど、そのふたりの女性の目を思い出す度に勝頼はやる瀬のない胸の痛みに襲われた。
決して自分には与えることの出来ないものを求める相手の前に、しかも相手もそれが勝頼によって埋められることを期待していない、諦めたような視線の前に立ち続けることはひどく無力感を感じさせられることだった。
そして、それは今も同じだと勝頼は思う。
偉大だった父、信玄の面影を追い慕い常に失われたもの、過ぎ去った過去を懐かしみ、それが二度と戻らないことを嘆き続ける家臣たちの前に立ち、その失望と懐旧の視線を受け止めながら凛と背筋を伸ばして 立ち続けることは酷く力が要り、心を疲弊させることだった。
「御館さま……?」
知らず知らずのうちに腕に力をこめ過ぎていたらしい。
腕のなかの佐奈姫が困惑したように小さく言った。
勝頼は少し力を緩めて、もう一度佐奈姫を抱きなおした。
額に降りかかる髪を払ってやると、佐奈姫は頬を染めて「ありがとうございます」と言った。
勝頼の胸に佐奈姫に対するこれまでにない感情が湧いてきた。
(この姫は妙姫ではない)
勝頼のどんな小さな仕草、なにげないひと言でも頬を赤らめ涙をこぼすほど、佐奈姫は心のすべてを
勝頼に預けきっている。
深窓の姫の世慣れぬゆえの初心さだといえばそれまでだが、その他愛のないほど無邪気でそれゆえ混じり気のない純粋な恋心は、勝頼の心を春の日差しのようにあたためてくれた。
勝頼は先年の設楽ヶ原での大敗以来、自分がそれ以前とは違った人間になってしまったように感じていた。
以前の自分はもっと自信に溢れ、父の跡を継いだ重圧は感じながらもそれを跳ね除けて自分らしい甲斐の国をつくっていこうという理想に燃えていた。
その気持ちにはなんら変わりはないはずなのに
今の自分からは何か重大なものが抜け落ちてしまったようなそんな気持ちがずっと拭えなかった。
「御館さま?」
佐奈姫が遠慮がちに言った。
黒目がちの瞳が心配そうに勝頼を見上げていた。
「何だ?」
聞き返すと、佐奈姫は黙って勝頼の直垂の胸元をきゅっと握った。
「いかがした?」
「いえ……。なんでもありません」
きっと自分は今、かつての母や妙姫のような目をしていたのであろう。
ここにいながら、ここにないものを探すような目をしていたのだろう。
佐奈姫は無邪気で他愛のないところがある一面、感受性がゆたかな聡明な少女であった。
勝頼が側にいながらどこか遠くにいってしまうような、心細い感じに襲われたに違いない。
勝頼は佐奈姫がいじらしくなって、ふいに腕のなかに抱き上げた。
姫は小さく悲鳴をあげた。
「軽いものだな。督姫や貞姫とそう変わらぬ」
言って幼い姫たちに「たかい、たかい」をするように体を持ち上げてやると、佐奈姫は怒って抗議の声をあげた。
「おやめ下さい。恥ずかしゅうございます」
「供ならみな下がらせておる」
藤野をはじめ、小姓たちも東屋へは入らず少し離れた場所で控えている。
「それでも恥ずかしゅうございます。佐奈は子供ではございません」
「そうかな。先ほど、水辺で遊んでおったときのはしゃぎようはまるで五つの童女のように見えた」
「まあ!」
勝頼は笑って佐奈姫を下ろしてやった。
佐奈姫は不機嫌な顔をしていた。
本当に勝頼のことを愛している彼女には、一人前の女として扱われないことが不満でならないのだった。
「御館さまがそのようなことばかりなさるから、いつまでも皆に仲の良いご兄妹のようでなどと言われるのですわ」
家臣たちがそう言うのはふたりの仲睦まじさを微笑ましく思ってのことだったが、佐奈姫にしてみたら
「お似合いのご夫婦で」と言われたいのだった。
ふくれていた佐奈姫の肩を引き寄せて勝頼はその花びらのような唇に口づけをした。
「なら、これなら良いか」
「知りません」
佐奈姫は頬を染めて、勝頼の胸に顔を埋めて隠した。
勝頼はあごをとって顔を上げさせた。
姫は恥ずかしそうにしながらも、素直に勝頼の顔を見上げた。
その瞳には心からの信頼と愛情が溢れていた。
自分はこの目を知っていると、勝頼は思った。
これは、古参の家臣たちが父、信玄を見上げるときの目だ。
心から頼りきり信じきった、すべてを捧げ尽くす者の目だ。
勝頼は姫の目のなかに、優しく頼もしく威厳に溢れている自分の姿を見た。
まさしく佐奈姫には勝頼はそのような夫として見えているのであろう。
それはかつての自分だ。
自信に満ち溢れ、理想と誇りを持ち常に前進することを考えている、凛々しく颯爽とした青年武将。
設楽ヶ原の敗戦ののち永遠に失われたかと思われたかつての勝頼がそこには──佐奈姫の瞳のなかにはいた。
彼女の無心な瞳の前でなら、勝頼はかつての自分を取り戻せるような気がした。
「御館さま?」
佐奈姫が訝しげに尋ねた。
勝頼は、答えるかわりにその頬を引き寄せてもう一度深く唇を吸った。
佐奈姫は遠慮がちにそれに応えた。
その華奢なからだを抱きしめながら、勝頼は自分はもう二度とこの姫に目の前にいるのに一人きりでいるような心許ない寂しい思いはさせまいと思った。
自分はここにはない何かを誰かを追い求めて、側にいてくれる者を悲しませたりはしない。
今、側にいる者を、自分の手のなかにあるものを大切にしていこうと思った。
母は死んだ。
妙姫も死んだ。
そして偉大なる甲斐の虎、武田信玄は死んだのだ。
悔やんでも嘆いても仕方がない。
残されたものは残っているものを大切に、出来ることをひとつひとつしていく他ないのだ。
「御館さま」
東屋の外から小姓が声をかけた。
「そろそろお戻りになりませぬと皆が心配します」
「分かった。今、行く」
勝頼は腕のなかの佐奈姫を放してやりながらそう言った。
佐奈姫は頬を染めて乱れた髪や襟元をつくろった。
あたりにはいつのまにか藍色の宵闇が降り始めていた。
「戻るか」
そう言って手を差し伸べてやると、佐奈姫は「はい」と頷いて恥ずかしそうに勝頼の手にその小さな手のひらを重ねた。
夕映えの残照がさっと照り映えて佐奈姫の姿を縁取った。
薄闇のなかで淡くやさしく光って見えるその姿は、そのまま勝頼の心を照らす仄かな光のように見えた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
この作品は、二年ほど前に「ベリーズカフェ」というサイトに上げていたものを一部、加筆修正して投稿したものです。
初めにご夫妻の最後を描いた『夕映え~武田勝頼の妻~』という作品を書きまして、そちらがまあ、仕方がないこととはいえなかなかに切ないお話になりましたので、その続編……というかシリーズ物として、幸せなお二人を書いてみたくて書いた作品です。