第四十話:王都からの誘いと私の答え
ぱち、ぱち、と。
部屋の隅にある暖炉の中で、乾いた薪が静かにはぜる音だけが、やけに大きく聞こえていた。
窓の外はまだ、夜の青さがインクのようにじっとりと残っている。けれど、その静寂とは裏腹に、私の頭の中は昨夜の喧騒がまるで壊れたオルゴールのように、めちゃくちゃな音を立てて鳴り続いていた。
王宮の大広間。建国記念祭の晩餐会。
天井から降り注ぐ水晶の光の粒。着飾った貴族たちの囁き声。そして、私の『天使のくちどけ』を前にした時の、あの地鳴りのような歓声と拍手。
全てが現実の出来事だったはずなのに、一夜明けた今となっては、まるで甘くて長い、少しだけ悪趣味な夢を見ていただけのような気さえした。
「……終わったのね」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟く。
ベッドからそっと抜け出し、足音を忍ばせて窓辺に立った。ひんやりとしたガラス窓に額を寄せると、白亜の王城が巨大な砂糖菓子のように、朝靄の中にぼんやりと浮かび上がっている。
あの場所で、私は過去と対峙した。
クロエの、あの憎悪に満ちた瞳。レオンの、まるで抜け殻のように虚ろな姿。
彼らとの因縁は、私の魂を込めたお菓子の前で、あまりにもあっけなく決着がついた。勝利感なんてものは、どこにもなかった。ただ、心の奥底にずっと引っかかっていた魚の小骨が、ようやくぽろりと取れたような、そんな空っぽの解放感だけが残っている。
私が本当に感じていたのは、そんなことよりも、もっと別のことだった。
国王陛下が、貴族たちが、私のケーキを口にした時の、あの子供のように無垢な驚きと感動の表情。
ああ、よかった。
私の作ったお菓子は、ちゃんと、人の心を幸せにすることができたんだ。
それだけで、十分だった。
フローリアのギルドマスターや、赤毛の冒険者さんたちが浮かべる、あの飾らない満面の笑みと、王宮のきらびやかな広間で見た貴族たちの恍惚とした表情。その間に、何の違いもない。
美味しいものは、身分も立場も関係なく、人を笑顔にする。
その当たり前の事実を、この王都のど真ん中で証明できたこと。それこそが、私の、この旅で得た、たった一つの、しかし何物にも代えがたい宝物だった。
「……早く、帰りたいわね」
フローリアの、あの温かくて少しだけ土埃っぽい匂いが恋しい。
ビスキュの淹れてくれる、甘いカモミールティーが飲みたい。
シュシュの、もふもふの銀色の毛並みに、顔をうずめたい。
私の城。私の本当の居場所。
そこへ帰ることだけが、今の私の、たった一つの願いだった。
その日の昼下がり、私の願いとは裏腹に、王宮から再び使者がやってきた。
国王陛下が、私に謁見を求めている、と。
断ることなど、もちろんできない。
私は昨日と同じ、深い青色の質素なドレスに身を包み、再び王家の紋章が入った馬車に乗り込んだ。
昨日よりも、心は少しだけ軽かった。もう、戦いは終わったのだから。
ただ、陛下に最後のご挨拶をして、フローリアへの帰郷の許しを請う。それだけだ。
そう、思っていた。
通されたのは、晩餐会が開かれた大広間とは違う、もっとずっとこぢんまりとした、しかし荘厳な雰囲気に満ちた部屋だった。
『謁見の間』
高い天井から吊り下げられた金の装飾。壁一面にかけられた、歴代の王たちの肖像画。そして、部屋の一番奥。深紅の絨毯が敷かれた階段の先に置かれた、巨大な玉座。
そこには、国王陛下が、昨日よりもずっと威厳に満ちた姿で、どっしりと腰を下ろしていた。
その両脇には、宰相らしき年配の男性や、数人の側近たちが、まるで石像のように微動だにせず控えている。
ぴんと張り詰めた、息苦しいほどの静寂。
私は、部屋の中央までゆっくりと歩みを進めると、その場で深く、深く、淑女の礼をした。
「国王陛下におかれましては、ご健勝のこと、お慶び申し上げます。お召しにより、参上いたしました」
私の声が、静まり返った部屋に、りん、と澄んだ音を立てて広がった。
陛下は、玉座の上から、その深い、叡智をたたえた瞳で、私をじっと見下ろしている。
昨夜の父親のような温かい光はない。そこにあるのは、一国を統べる王としての全てを見透かすような、鋭い眼差しだけ。
「うむ。顔を上げよ、エステル」
重々しい、地響きのような声。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「昨夜の晩餐会、見事であった。そなたの菓子、まこと、噂に違わぬ『奇跡の味』であったぞ」
「もったいなきお言葉にございます」
「うむ。あの場にいた、全ての者が、そなたの腕の虜となった。王妃などは、今朝も、そなたのケーキがなければ朝食はとらぬ、などと、子供のようなわがままを申しておったわ」
陛下は、そう言って、少しだけ楽しそうに喉の奥でくつくつと笑った。
部屋の緊張が、ほんの少しだけ、緩んだように感じられた。
でも、それはほんの一瞬のことだった。
陛下の表情が、再び、王としての厳格なものへと戻る。
「……さて。エステルよ。そなたに、勅命を下した、本当の理由を、話しておこうか」
「……と、申されますと?」
私は、ごくりと唾を飲んだ。
ただ、私の菓子を味わうためだけではなかった、というのか。
陛下は、玉座に深く腰掛けたまま、その指先で肘掛けを、とん、と軽く叩いた。
「そなたの噂は、とうの昔から、余の耳にも届いておった。辺境の地に現れた、類いまれなる菓子職人。その菓子は、食べた者の心と体を癒やす、不思議な力を持つ、と。……そして、それと同時に、もう一つの、好ましからざる噂もな」
陛下の目が、すう、と細められた。
「王都に満ちる、二人の『聖女』を巡る、下世話な噂。そして、その影でうごめく、貴族たちの、醜い派閥争い。……余は、それらを、全て、見極める必要があったのだ」
「……!」
私は、はっと息を止めた。
そうか。全て、この方の、手のひらの上で……。
「昨夜の晩餐会は、そなたと、そして、もう一人の『聖女』……クロエ嬢を、同じ天秤にかけるための、いわば、裁きの場であった」
陛下の声は、どこまでも冷徹だった。
「そして、結果は、そなたも見た通りだ。一方は、自らの才能と信念を、その腕一本で、見事に証明してみせた。もう一方は、嫉妬と驕りに目を曇らせ、自らの手で、その地位から転がり落ちていった。……余は、ただ、その結末を静かに見届けていただけに過ぎぬ」
なんと、恐ろしい人だろう。
この方は、全てをお見通しだったのだ。
王都を揺るがしていた、あの大きな騒動すら、この方にとっては、チェス盤の上の、駒の動きを眺めるようなものだったのかもしれない。
私の背中を、ひやりとした冷たいものが駆け上がった。
「そなたの潔白は証明された。そして、クロエ嬢は、その罪を問われ、身分をはく奪され、王宮から追放されることとなろう」
あっけない幕切れ。
あの女が、私と同じように、追放されるのだ。
「……さて。エステルよ」
陛下の声が、再び、私を現実へと引き戻した。
その目が、今度は先ほどまでとは全く違う、熱を帯びた光をたたえている。
「本題は、ここからだ」
陛下は、玉座から、ゆっくりと、その巨体を起こした。
そして、階段を数段、降りてくる。
私と、同じ高さの目線。その距離が、逆に、抗うことのできない、絶対的な圧力を、私に与えていた。
「エステルよ。そなたに、頼みがある。いや、これは、国王としての、命令、と言ってもよい」
「……なんなりと、お申し付けください」
私が、かろうじてそう答えるのが、精一杯だった。
陛下は、私の目を、まっすぐに見据えて言った。
「この王都に残ってはくれまいか」
その言葉の意味が、一瞬、理解できなかった。
「……え?」
私の唇から、間の抜けた声がこぼれ落ちる。
陛下は、そんな私の動揺など、全く意に介さない様子で言葉を続けた。
「そなたを、この王宮の、初代『製菓長』として正式に迎え入れたい。我が国の食文化。その新たな歴史を、そなたの手で築いてほしいのだ」
せいかちょう……?
王宮料理長とは別に、お菓子作りのみを専門とする、新しい役職。
それは、この国の歴史上、前例のないことだった。
「もちろん、そなたを迎えるにあたって、最高の環境を用意させよう。この王宮厨房の、一番良い場所を、そなた専用の工房として与える。設備も、道具も、そなたの望むもの全てを、世界中から取り寄せよう。材料も、だ。そなたが望むなら、幻の『黄金の小麦』とやらも、国中の総力を挙げて探し出し、そなたのためだけの畑で、栽培させることを約束しよう」
それは、あまりにも破格で現実離れした条件だった。
周りに控えていた宰相や側近たちが、ごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。
誰もが、信じられないという顔で、私と陛下を交互に見比べている。
世界中の最高の材料。
私だけのための最高の厨房。
それは、前世のしがないパティシエだった私が、夢にまで見た、いや、夢見ることすら許されなかった、究極の環境。
もし、あの頃の私が、この話を聞いたら。
きっと、泣いて喜んで、その場で、陛下に忠誠を誓ったに違いない。
ほんの一瞬だけ、私の心はぐらりと揺らいだ。
ここでなら作れる。
本当に理想的で、究極のお菓子が。
でも。
私の脳裏に、ふわりと、別の光景が浮かび上がった。
フローリアの温かくて、少しだけ土埃っぽい匂い。
『銀のしっぽ亭』の、あの小さな、でも、私の愛が詰まった厨房。
「店主、今日も頼むぜ!」と、人の良い笑顔でカウンターに肘をつく、赤毛の冒険者さんの顔。
私の足元で、嬉しそうに尻尾を振る、シュシュの、もふもふの感触。
そして、私が落ち込んでいると、何も言わずに、そっと、温かいハーブティーを差し出してくれる、ビスキュの、不器用な優しさ。
ああ、そうか。
私は、もう、手に入れていたんだ。
最高の厨房も、最高の仲間も、最高の幸せも。
全て、私の城にあったんだ。
この、王宮のきらびやかで、でも、どこか冷たい豪華さよりも、ずっと尊くて温かいものを。
私の心の中にあった、ほんのわずかな迷いは、春の雪のように、すうっと跡形もなく消え去っていた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、国王陛下の全てを見透かすような瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……もったいなきお言葉、身に余る光栄にございます」
私は、静かにきっぱりとした声で言った。
そして、その場で深く頭を下げた。
「ですが、そのお話、お断りさせていただきます」
しん、と。
謁見の間が、今までとは比べ物にならないくらい、絶対的な沈黙に支配された。
周りに控えていた側近たちが、はっと息を飲むのが聞こえる。
誰もが、信じられないという顔で、私を見つめていた。
国王陛下の勅命にも等しい、この破格の誘い。それをこの辺境の小娘が断った?
その事実が、彼らの理解を超えてしまっているようだった。
「……ほう」
やがて、重い沈黙を破ったのは、陛下自身の、低い、地響きのような声だった。
その声には、怒りでも、失望でもない、純粋な好奇という雰囲気があった。
「……理由を、聞いてもよいかな。この、余の申し出を、蹴ってまで、そなたが、辺境の地に、固執する理由を」
私は、ゆっくりと顔を上げた。
そして、ありったけの想いを込めて、にっこりと花が咲くような笑顔を浮かべてみせた。
それは、公爵令嬢でも、聖女でもない、ただの『銀のしっぽ亭』の店主としての心からの笑顔だった。
「私の帰りを待つお客様が、フローリアにおりますので」
私の声は、少しも揺らがなかった。どこまでも穏やかで澄み切っていた。
「そして、何よりも。私の城は、あの場所にございますから」
私の、その、あまりにも単純で、しかし、あまりにも揺るぎない答え。
陛下は、しばらくの間、ぽかんとした顔で、私を見つめていた。
その威厳に満ちた顔に、ほんの一瞬だけ、まるで初めて甘いものを口にした子供のような、無垢な驚きの表情が浮かんだ。
やがて、彼は、はあ、と心の底からの深いため息をついた。
そして、その厳格だったはずの顔に、まるで固い岩の表面に亀裂が入るように、ほんのかすかに寂しげな、でも、どこまでも優しい笑みの形が浮かんだ。
「……そうか。そなたの城は、ここには、ないと、申すか」
「はい。私の宝物は、全て、あの場所にございます」
「……見事な答えだ」
陛下は、深く、深く、頷いた。
「……分かった。そなたの意思、確かに受け取った。そなたの誇りと信念、見事である。これ以上、そなたを王都に引き留めることはすまい」
陛下の、その温かい言葉。
私の心が、じんわりと、温かくなるのを感じた。
「何か、褒美を、と思うたが……そなたには、金も地位も無用なようじゃな」
「はい。私が望むものは、ただ一つ。愛する我が家へ、無事に帰ることだけでございます」
「……よかろう。余が名において、そなたの、フローリアへの安全な帰還を約束しよう」
それは、私が望んだ以上の、あまりにも寛大な申し出だった。
「……もったいなきお言葉、感謝の念に堪えません」
私は、もう一度、深く、深く、頭を下げた。
心からの、感謝を込めて。
謁見の間を退出する。
重々しい扉が、背後で、ゆっくりと閉じていった。
私は、ふう、と、心の底から、安堵のため息をついた。
終わった。
全て、終わったんだ。
私の足取りは、今まで感じたことのないくらい、軽やかで弾んでいた。
早く、帰ろう。
シュシュとビスキュが待つ、あの宿屋へ。
そして、伝えよう。
帰りましょう、私たちの本当の城へ、と。
王宮の、長い、長い、大理石の回廊を歩いていく。
すれ違う貴族たちが、私に、畏敬の念のこもった視線を向けては、ひそひそと囁き合っているのが聞こえる。
「……あの方が、辺境の聖女様……」
「まあ……。陛下からの、製菓長へのお誘いを、お断りになったと……」
「金にも、地位にも、なびかぬとは……。なんと、欲のない、清らかなお方なのだろう……」
「まさに、本物の聖女様、ですわね……」
そんな、勝手な賞賛の声。
でも、もう、そんな言葉に、私の心が揺らぐことはなかった。
彼らが、私を何と呼ぼうと、どう評価しようと、もう、どうでもいいこと。
私は、お菓子を愛する、一人のしがないパティシエ。
それ以上でも、それ以下でもないのだから。
私は、誰に言うでもなく、くすりと、小さく笑った。
そして、早く、愛する家族の元へと帰りたい一心で、少しだけ足取りを速めた。




