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お菓子作りのための追放スローライフ~婚約破棄された公爵令嬢は、規格外の土魔法でもふもふ聖獣やゴーレムと理想のパティスリーを開店します~  作者: 速水静香
第七章:小麦を求めて

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第四十話:王都からの誘いと私の答え


 ぱち、ぱち、と。


 部屋の隅にある暖炉の中で、乾いた薪が静かにはぜる音だけが、やけに大きく聞こえていた。

 窓の外はまだ、夜の青さがインクのようにじっとりと残っている。けれど、その静寂とは裏腹に、私の頭の中は昨夜の喧騒がまるで壊れたオルゴールのように、めちゃくちゃな音を立てて鳴り続いていた。


 王宮の大広間。建国記念祭の晩餐会。


 天井から降り注ぐ水晶の光の粒。着飾った貴族たちの囁き声。そして、私の『天使のくちどけ』を前にした時の、あの地鳴りのような歓声と拍手。

 全てが現実の出来事だったはずなのに、一夜明けた今となっては、まるで甘くて長い、少しだけ悪趣味な夢を見ていただけのような気さえした。


「……終わったのね」


 ぽつりと、誰に言うでもなく呟く。


 ベッドからそっと抜け出し、足音を忍ばせて窓辺に立った。ひんやりとしたガラス窓に額を寄せると、白亜の王城が巨大な砂糖菓子のように、朝靄の中にぼんやりと浮かび上がっている。

 

 あの場所で、私は過去と対峙した。


 クロエの、あの憎悪に満ちた瞳。レオンの、まるで抜け殻のように虚ろな姿。

 彼らとの因縁は、私の魂を込めたお菓子の前で、あまりにもあっけなく決着がついた。勝利感なんてものは、どこにもなかった。ただ、心の奥底にずっと引っかかっていた魚の小骨が、ようやくぽろりと取れたような、そんな空っぽの解放感だけが残っている。


 私が本当に感じていたのは、そんなことよりも、もっと別のことだった。


 国王陛下が、貴族たちが、私のケーキを口にした時の、あの子供のように無垢な驚きと感動の表情。


 ああ、よかった。


 私の作ったお菓子は、ちゃんと、人の心を幸せにすることができたんだ。


 それだけで、十分だった。


 フローリアのギルドマスターや、赤毛の冒険者さんたちが浮かべる、あの飾らない満面の笑みと、王宮のきらびやかな広間で見た貴族たちの恍惚とした表情。その間に、何の違いもない。

 美味しいものは、身分も立場も関係なく、人を笑顔にする。

 その当たり前の事実を、この王都のど真ん中で証明できたこと。それこそが、私の、この旅で得た、たった一つの、しかし何物にも代えがたい宝物だった。


「……早く、帰りたいわね」


 フローリアの、あの温かくて少しだけ土埃っぽい匂いが恋しい。

 ビスキュの淹れてくれる、甘いカモミールティーが飲みたい。

 シュシュの、もふもふの銀色の毛並みに、顔をうずめたい。


 私の城。私の本当の居場所。


 そこへ帰ることだけが、今の私の、たった一つの願いだった。


 その日の昼下がり、私の願いとは裏腹に、王宮から再び使者がやってきた。


 国王陛下が、私に謁見を求めている、と。


 断ることなど、もちろんできない。


 私は昨日と同じ、深い青色の質素なドレスに身を包み、再び王家の紋章が入った馬車に乗り込んだ。


 昨日よりも、心は少しだけ軽かった。もう、戦いは終わったのだから。

 ただ、陛下に最後のご挨拶をして、フローリアへの帰郷の許しを請う。それだけだ。


 そう、思っていた。


 通されたのは、晩餐会が開かれた大広間とは違う、もっとずっとこぢんまりとした、しかし荘厳な雰囲気に満ちた部屋だった。


『謁見の間』


 高い天井から吊り下げられた金の装飾。壁一面にかけられた、歴代の王たちの肖像画。そして、部屋の一番奥。深紅の絨毯が敷かれた階段の先に置かれた、巨大な玉座。

 そこには、国王陛下が、昨日よりもずっと威厳に満ちた姿で、どっしりと腰を下ろしていた。

 その両脇には、宰相らしき年配の男性や、数人の側近たちが、まるで石像のように微動だにせず控えている。

 ぴんと張り詰めた、息苦しいほどの静寂。

 私は、部屋の中央までゆっくりと歩みを進めると、その場で深く、深く、淑女の礼をした。


「国王陛下におかれましては、ご健勝のこと、お慶び申し上げます。お召しにより、参上いたしました」


 私の声が、静まり返った部屋に、りん、と澄んだ音を立てて広がった。

 陛下は、玉座の上から、その深い、叡智をたたえた瞳で、私をじっと見下ろしている。

 昨夜の父親のような温かい光はない。そこにあるのは、一国を統べる王としての全てを見透かすような、鋭い眼差しだけ。


「うむ。顔を上げよ、エステル」


 重々しい、地響きのような声。

 私は、ゆっくりと顔を上げた。


「昨夜の晩餐会、見事であった。そなたの菓子、まこと、噂に違わぬ『奇跡の味』であったぞ」

「もったいなきお言葉にございます」

「うむ。あの場にいた、全ての者が、そなたの腕の虜となった。王妃などは、今朝も、そなたのケーキがなければ朝食はとらぬ、などと、子供のようなわがままを申しておったわ」


 陛下は、そう言って、少しだけ楽しそうに喉の奥でくつくつと笑った。

 部屋の緊張が、ほんの少しだけ、緩んだように感じられた。

 でも、それはほんの一瞬のことだった。

 陛下の表情が、再び、王としての厳格なものへと戻る。


「……さて。エステルよ。そなたに、勅命を下した、本当の理由を、話しておこうか」

「……と、申されますと?」


 私は、ごくりと唾を飲んだ。

 ただ、私の菓子を味わうためだけではなかった、というのか。

 陛下は、玉座に深く腰掛けたまま、その指先で肘掛けを、とん、と軽く叩いた。


「そなたの噂は、とうの昔から、余の耳にも届いておった。辺境の地に現れた、類いまれなる菓子職人。その菓子は、食べた者の心と体を癒やす、不思議な力を持つ、と。……そして、それと同時に、もう一つの、好ましからざる噂もな」


 陛下の目が、すう、と細められた。


「王都に満ちる、二人の『聖女』を巡る、下世話な噂。そして、その影でうごめく、貴族たちの、醜い派閥争い。……余は、それらを、全て、見極める必要があったのだ」

「……!」


 私は、はっと息を止めた。

 そうか。全て、この方の、手のひらの上で……。


「昨夜の晩餐会は、そなたと、そして、もう一人の『聖女』……クロエ嬢を、同じ天秤にかけるための、いわば、裁きの場であった」


 陛下の声は、どこまでも冷徹だった。


「そして、結果は、そなたも見た通りだ。一方は、自らの才能と信念を、その腕一本で、見事に証明してみせた。もう一方は、嫉妬と驕りに目を曇らせ、自らの手で、その地位から転がり落ちていった。……余は、ただ、その結末を静かに見届けていただけに過ぎぬ」


 なんと、恐ろしい人だろう。

 この方は、全てをお見通しだったのだ。

 王都を揺るがしていた、あの大きな騒動すら、この方にとっては、チェス盤の上の、駒の動きを眺めるようなものだったのかもしれない。

 私の背中を、ひやりとした冷たいものが駆け上がった。


「そなたの潔白は証明された。そして、クロエ嬢は、その罪を問われ、身分をはく奪され、王宮から追放されることとなろう」


 あっけない幕切れ。

 あの女が、私と同じように、追放されるのだ。


「……さて。エステルよ」


 陛下の声が、再び、私を現実へと引き戻した。

 その目が、今度は先ほどまでとは全く違う、熱を帯びた光をたたえている。


「本題は、ここからだ」


 陛下は、玉座から、ゆっくりと、その巨体を起こした。

 そして、階段を数段、降りてくる。

 私と、同じ高さの目線。その距離が、逆に、抗うことのできない、絶対的な圧力を、私に与えていた。


「エステルよ。そなたに、頼みがある。いや、これは、国王としての、命令、と言ってもよい」

「……なんなりと、お申し付けください」


 私が、かろうじてそう答えるのが、精一杯だった。

 陛下は、私の目を、まっすぐに見据えて言った。


「この王都に残ってはくれまいか」


 その言葉の意味が、一瞬、理解できなかった。


「……え?」


 私の唇から、間の抜けた声がこぼれ落ちる。

 陛下は、そんな私の動揺など、全く意に介さない様子で言葉を続けた。


「そなたを、この王宮の、初代『製菓長』として正式に迎え入れたい。我が国の食文化。その新たな歴史を、そなたの手で築いてほしいのだ」


 せいかちょう……?


 王宮料理長とは別に、お菓子作りのみを専門とする、新しい役職。

 それは、この国の歴史上、前例のないことだった。


「もちろん、そなたを迎えるにあたって、最高の環境を用意させよう。この王宮厨房の、一番良い場所を、そなた専用の工房として与える。設備も、道具も、そなたの望むもの全てを、世界中から取り寄せよう。材料も、だ。そなたが望むなら、幻の『黄金の小麦』とやらも、国中の総力を挙げて探し出し、そなたのためだけの畑で、栽培させることを約束しよう」


 それは、あまりにも破格で現実離れした条件だった。

 周りに控えていた宰相や側近たちが、ごくりと喉を鳴らすのが聞こえた。

 誰もが、信じられないという顔で、私と陛下を交互に見比べている。


 世界中の最高の材料。

 私だけのための最高の厨房。


 それは、前世のしがないパティシエだった私が、夢にまで見た、いや、夢見ることすら許されなかった、究極の環境。

 もし、あの頃の私が、この話を聞いたら。

 きっと、泣いて喜んで、その場で、陛下に忠誠を誓ったに違いない。

 ほんの一瞬だけ、私の心はぐらりと揺らいだ。


 ここでなら作れる。

 本当に理想的で、究極のお菓子が。


 でも。


 私の脳裏に、ふわりと、別の光景が浮かび上がった。


 フローリアの温かくて、少しだけ土埃っぽい匂い。


 『銀のしっぽ亭』の、あの小さな、でも、私の愛が詰まった厨房。

 「店主、今日も頼むぜ!」と、人の良い笑顔でカウンターに肘をつく、赤毛の冒険者さんの顔。


 私の足元で、嬉しそうに尻尾を振る、シュシュの、もふもふの感触。

 そして、私が落ち込んでいると、何も言わずに、そっと、温かいハーブティーを差し出してくれる、ビスキュの、不器用な優しさ。


 ああ、そうか。


 私は、もう、手に入れていたんだ。

 最高の厨房も、最高の仲間も、最高の幸せも。

 全て、私の城にあったんだ。

 この、王宮のきらびやかで、でも、どこか冷たい豪華さよりも、ずっと尊くて温かいものを。


 私の心の中にあった、ほんのわずかな迷いは、春の雪のように、すうっと跡形もなく消え去っていた。

 私は、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、国王陛下の全てを見透かすような瞳をまっすぐに見つめ返した。


「……もったいなきお言葉、身に余る光栄にございます」


 私は、静かにきっぱりとした声で言った。

 そして、その場で深く頭を下げた。


「ですが、そのお話、お断りさせていただきます」


 しん、と。


 謁見の間が、今までとは比べ物にならないくらい、絶対的な沈黙に支配された。

 周りに控えていた側近たちが、はっと息を飲むのが聞こえる。


 誰もが、信じられないという顔で、私を見つめていた。


 国王陛下の勅命にも等しい、この破格の誘い。それをこの辺境の小娘が断った?

 その事実が、彼らの理解を超えてしまっているようだった。


「……ほう」


 やがて、重い沈黙を破ったのは、陛下自身の、低い、地響きのような声だった。

 その声には、怒りでも、失望でもない、純粋な好奇という雰囲気があった。


「……理由を、聞いてもよいかな。この、余の申し出を、蹴ってまで、そなたが、辺境の地に、固執する理由を」


 私は、ゆっくりと顔を上げた。

 そして、ありったけの想いを込めて、にっこりと花が咲くような笑顔を浮かべてみせた。

 それは、公爵令嬢でも、聖女でもない、ただの『銀のしっぽ亭』の店主としての心からの笑顔だった。


「私の帰りを待つお客様が、フローリアにおりますので」


 私の声は、少しも揺らがなかった。どこまでも穏やかで澄み切っていた。


「そして、何よりも。私の城は、あの場所にございますから」


 私の、その、あまりにも単純で、しかし、あまりにも揺るぎない答え。

 陛下は、しばらくの間、ぽかんとした顔で、私を見つめていた。

 その威厳に満ちた顔に、ほんの一瞬だけ、まるで初めて甘いものを口にした子供のような、無垢な驚きの表情が浮かんだ。


 やがて、彼は、はあ、と心の底からの深いため息をついた。


 そして、その厳格だったはずの顔に、まるで固い岩の表面に亀裂が入るように、ほんのかすかに寂しげな、でも、どこまでも優しい笑みの形が浮かんだ。


「……そうか。そなたの城は、ここには、ないと、申すか」

「はい。私の宝物は、全て、あの場所にございます」

「……見事な答えだ」


 陛下は、深く、深く、頷いた。


「……分かった。そなたの意思、確かに受け取った。そなたの誇りと信念、見事である。これ以上、そなたを王都に引き留めることはすまい」


 陛下の、その温かい言葉。

 私の心が、じんわりと、温かくなるのを感じた。


「何か、褒美を、と思うたが……そなたには、金も地位も無用なようじゃな」

「はい。私が望むものは、ただ一つ。愛する我が家へ、無事に帰ることだけでございます」

「……よかろう。余が名において、そなたの、フローリアへの安全な帰還を約束しよう」


 それは、私が望んだ以上の、あまりにも寛大な申し出だった。


「……もったいなきお言葉、感謝の念に堪えません」


 私は、もう一度、深く、深く、頭を下げた。

 心からの、感謝を込めて。


 謁見の間を退出する。

 重々しい扉が、背後で、ゆっくりと閉じていった。

 私は、ふう、と、心の底から、安堵のため息をついた。


 終わった。

 全て、終わったんだ。


 私の足取りは、今まで感じたことのないくらい、軽やかで弾んでいた。


 早く、帰ろう。


 シュシュとビスキュが待つ、あの宿屋へ。


 そして、伝えよう。

 帰りましょう、私たちの本当の城へ、と。


 王宮の、長い、長い、大理石の回廊を歩いていく。

 すれ違う貴族たちが、私に、畏敬の念のこもった視線を向けては、ひそひそと囁き合っているのが聞こえる。


「……あの方が、辺境の聖女様……」

「まあ……。陛下からの、製菓長へのお誘いを、お断りになったと……」

「金にも、地位にも、なびかぬとは……。なんと、欲のない、清らかなお方なのだろう……」

「まさに、本物の聖女様、ですわね……」


 そんな、勝手な賞賛の声。

 でも、もう、そんな言葉に、私の心が揺らぐことはなかった。

 彼らが、私を何と呼ぼうと、どう評価しようと、もう、どうでもいいこと。


 私は、お菓子を愛する、一人のしがないパティシエ。


 それ以上でも、それ以下でもないのだから。


 私は、誰に言うでもなく、くすりと、小さく笑った。

 そして、早く、愛する家族の元へと帰りたい一心で、少しだけ足取りを速めた。


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