第三十八話:招かれざる再会
王都に到着してから、数日が過ぎた。
フローリアのギルドマスターが手配してくれた宿屋は、中央区画の目抜き通りに面した、この都で一番と言ってもいいくらい立派な場所だった。部屋の窓からは白亜の王城が、まるで作り物みたいに青い空を背景にしてくっきりと見えている。
私はその窓辺に立ち、日に日に近づいてくる建国記念祭の日を静かに指折り数えていた。
国王陛下からの召喚状。それは、私の穏やかだったはずの日常に投げ込まれた、一粒の、しかし無視できない大きさの石ころだった。
波紋は静かに、でも確実に私の足元から広がっていく。
この数日間、王宮からの使者が何度か宿屋を訪れ、晩餐会当日の段取りについて事務的な打ち合わせを重ねていった。
そして、ついに私が王宮の厨房へと足を踏み入れる日がやってきたのだ。
「……ごめんね、二人とも。少しだけ留守番をお願いするわね」
宿屋の部屋を出る前、私はかけがえのない二人の家族にそう言って頭を下げた。
「わふん!」
シュシュが私の足元で頼もしく一声鳴いた。その琥珀色の瞳は『大丈夫だよ、ご主人様! ここはお城じゃないけど、僕がちゃんと守ってるから!』と、そう雄弁に語っていた。
『……ご武運を』
私の隣では従者の姿に変装したビスキュが、深々ととても丁寧にお辞儀をした。彼の声にはならない、しかしあまりにもまっすぐな想いが、その健気な様子を通してじんわりと私の心に伝わってくる。
王宮にゴーレムや聖獣を連れて入ることなど、もちろん許されるはずがない。
今日からの戦いは、私たった一人のものなのだ。
「ええ、行ってくるわ。必ず笑顔で帰ってくるから」
私は二人の頭を優しくこすると、ぎゅっと唇を結んだ。
用意された王家の紋章が入った馬車に乗り込む。ごとり、と車輪が動き出した瞬間、私の気持ちがきゅうと冷たい手で掴まれたみたいに小さく縮こまるのを感じた。
馬車は見慣れた王都の街並みを抜け、やがてあの白亜の城壁へと吸い込まれていく。
かつて私が生まれ育ち、そして全てを奪われた場所。
王宮。
もう二度と、この門をくぐることはないと思っていた。
窓の外を流れていく美しく手入れされた庭園。磨き上げられた大理石の回廊。
そのどれもが懐かしいというよりも、まるで出来の悪い悪夢の続きを見ているみたいに、私の心をどんよりとした灰色の霧で覆っていく。
「―――こちらでございます」
案内役の侍従が、一つの巨大な扉の前で足を止めた。
扉の隙間からむわりとした熱気と様々な食材が煮える匂い、そしてたくさんの人々の忙しない活気が漏れ出してきている。
王宮の大厨房。
この国の全ての美食がここから生まれる場所。そして、これから数日間私の新しい戦場となる場所。
私は一度深く息を吸い込むと、その重たい扉を自分の手でぎい、と音を立てて押し開けた。
◇
一歩中に足を踏み入れた瞬間、むせ返るような熱気が私の全身を包んだ。
広いという言葉ではあまりにも陳腐にすぎる。体育館ほどもあるだろうか。天井は高く、いくつもの天窓から柔らかな光が降り注いでいる。
その広大な空間の中を、何十人もの料理人たちがまるで蜂の巣の中の働き蜂みたいに、一糸乱れぬ動きで駆け回っていた。
ずらりと並んだ最新式の魔導コンロ。その上ではいくつもの巨大な鍋が、ぐつぐつと音を立てて湯気を上げている。壁際には、私の『銀のしっぽ亭』の石窯が子供のおもちゃに見えてしまうくらい、巨大なレンガ造りのオーブンがいくつもどっしりと鎮座していた。
肉を焼く香ばしい匂い、魚介を煮込む豊かな香り、新鮮な野菜の青々とした匂い。それらが一つになって私の鼻腔をくすぐる。
ここはまさしく、食の神殿。
この国の富と権力の象徴。
私がまだ公爵令嬢だった頃、遠巻きに一度だけ見学させてもらったことがあった。
あの時はただ、自分とは全く関係のない遠い世界の出来事のように感じていた。
でも今は違う。
私はこの神殿に、招かれざる客としてではなく、一人の『菓子職人』としてその中心に立っているのだ。
「……静粛に!」
厨房の入り口で、案内役の侍従が甲高い声を張り上げた。
その声に、今までがやがやと騒がしかった厨房がぴたりと嘘のように静まり返る。
全ての視線が入り口に立つ私に、突き刺さるように集まってくるのが分かった。
値踏みするような好奇の目。辺境から来たという謎の菓子職人に対する、侮りの様子。そして、自分たちの聖域に足を踏み入れた異物に対する、あからさまな敵意。
そのちくちくと肌を刺すような視線の中を、私は背筋をしゃんと伸ばし、まっすぐに厨房の奥へと歩き出した。
まるでモーゼが海を割るように、私の進む道の左右から料理人たちがさっと道を開けていく。
「……あなたが、エステル殿ですかな」
厨房の一番奥。ひときわ立派な調理台の前に腕を組んで立っていた、恰幅のいい初老の男性が低い声で私に問いかけた。
その真っ白なコックコートは一点の染みもなく、頭にかぶった高い帽子は彼のこの厨房における絶対的な権威を象徴しているようだった。
王宮料理長。この国の食の頂点に立つ男だ。
「はい。この度、国王陛下のご命令により参上いたしました。『銀のしっぽ亭』のエステルと申します」
私が深々と淑女の礼をしてみせると、彼はふんと鼻を鳴らした。
「噂はかねがね。……辺境の聖女様が作る奇跡の菓子、とな。我々王宮の料理人一同、どれほどのものか楽しみにしておりますぞ」
その言葉は丁寧なようでいて、その端々にちくりとした棘が隠されているのが私には分かった。
国王陛下に直接腕を披露しろと命じられた、成り上がりの田舎者。彼の目には私がそう映っているのだろう。
「光栄ですわ」
私は少しも表情を崩さずに、にっこりと花が咲くような笑顔を浮かべてみせる。ここで彼らと張り合っても意味がない。
私が証明すべきことは、言葉ではなく結果で示すしかないのだから。
「晩餐会まであと三日。それまで、この一角を自由にお使いいただいて結構。……ただし」
彼はじろりと私を睨みつけた。
「我々の仕事の邪魔だけは、なさらぬよう。よろしいですかな?」
「はい。肝に銘じておきますわ」
私はもう一度、深く頭を下げた。
彼が顎でしゃくって示したのは、厨房の一番隅にある小さな調理台だった。おそらく普段は、見習いの料理人たちが野菜の皮むきでもするような、そんな場所。
あからさまな嫌がらせ。
でも、私は少しも気にしなかった。
最高の作品を作るのに、場所の広さなど関係ない。大事なのは、最高の材料と最高の技術。そして何より、熱い情熱なのだから。
私は自分が持ち込んだ大きな木の箱を、その小さな調理台の横にことりと置いた。
周りの料理人たちが、ひそひそと囁き合っているのが聞こえる。
「おい、見たかよ、あの女」
「ああ。辺境の聖女様だなんて聞いてたから、どんなお歴々かと思いきや、ただの小娘じゃねえか」
「あんなので本当に、陛下を唸らせるような菓子が作れるのかねえ」
侮りと嘲笑の声。
懐かしいとさえ思った。フローリアの冒険者ギルドで初めて私が向けられた視線と、全く同じ。
でも、今の私はもうあの頃の私じゃない。
「―――失礼いたします」
私は誰に言うでもなくそう呟くと、木の箱の蓋をゆっくりと開けた。
その瞬間。
ふわりと。
今までこの厨房を満たしていた肉や魚の濃厚な匂いを、一瞬で塗り替えてしまうような、甘くてどこか神聖な香りが厨房全体に広がった。
「……なっ!?」
一番最初にその異変に気がついたのは、私のすぐ近くで野菜を刻んでいた若い料理人だった。彼の包丁を持つ手がぴたりと止まる。
「な、なんだ、この香りは……?」
その声に、周りの料理人たちが次々と顔を上げた。誰もがくんくんと鼻を鳴らし、その未知の香りの発生源を探し始めている。
やがて全ての視線が、私の手元にある開かれた木の箱へと吸い寄せられるように集まっていった。
箱の中に入っていたのは麻の袋。私がその袋の口をゆっくりと解く。
中から現れたのは……。
「……こ、こいつは……!」
王宮料理長が、信じられないというように目を見開いた。
黄金色にきらきらと輝く、ふっくらとした小麦の粒。
幻の『黄金の小麦』。
その神々しいまでの姿と、そこから放たれる太陽のように温かくて甘い香りに、厨房にいた全ての料理人たちが言葉を失って立ち尽くしていた。
「まさか、本当に実在したとは……」
料理長の震える声が、静まり返った厨房に響く。
さっきまでの侮りと嘲笑の視線はもうどこにもなかった。そこにあるのは、ただ純粋な料理人としての畏敬の念と嫉妬の様子だけ。
私はその視線を心地よく背中に感じながら、にっこりと微笑んだ。
私の静かな反撃は、もう始まっているのだから。
◇
それからの三日間、私はひたすらにお菓子作りに没頭した。
最初は遠巻きに訝しげな視線を向けてくるだけだった王宮の料理人たち。でも、私が黄金の小麦を丁寧に石臼で挽き始め、その天国的な香りが厨房に立ち上った瞬間から、その空気はがらりと変わった。
一人、また一人と私の手元を食い入るように覗き込みに来る。私が卵白を、絹のようにつややかなメレンゲへと泡立てていく、その神がかったような手際に感嘆のため息を漏らす。
黄金色の雲のような生地がオーブンの中で奇跡のように膨らんでいく様を、息を止めて見守る。
やがて、焼き上がった『天使のくちどけ』が厨房に至福の香りを満たした時。そこにはもう敵意などひとかけらもなかった。
ただ、同じ食に携わる者としての純粋な尊敬の念だけが、温かい空気となって私の周りを満たしていた。
「……お見事、ですな」
王宮料理長がいつの間にか私の隣に立っていた。その厳格だったはずの顔には、まるで初めて本物の芸術品を目の当たりにした子供のような、無垢な感動が浮かんでいる。
「この香り……。この黄金の色……。そして、この指で触れただけで消えてしまいそうな軽やかさ……。これが本当に、菓子なのですかな……?」
「はい。私の最高傑作ですわ」
私は試食用に小さく切り分けたその一切れを、彼にそっと差し出した。彼はそれをまるで壊れ物を扱うように、指先をわずかに動かしながら受け取った。
そして、ほんの少しだけ口の中へと運ぶ。
次の瞬間。
彼のその恰幅のいい巨体が、びくりと大きく動いた。目が信じられないというように、まんまるに見開かれている。
そして、しばらくの間夢でも見ているみたいに呆然として……。
やがて、その厳格だったはずの顔をぐしゃぐしゃにして、子供のように声を上げて泣き出してしまったのだ。
「……う、美味い……! わしは、この道五十……。こんな天国のような味が、この世に存在したとは……!」
その、あまりにも大きな反応。周りの料理人たちもあんぐりと口を開けて固まっている。
私はその光景を満足げに、でもどこか優しく見守っていた。
私のお菓子はいつだって、人の心を無防備に解きほぐしてしまうのだから。
そんな甘くて少しだけ騒がしい、充実した日々が過ぎていった三日目の昼下がりのことだった。
私は晩餐会で提供する最後の仕上げの準備に追われていた。厨房は、建国記念祭のメインディッシュの準備で一番活気づいている時間帯。
その熱気と喧騒の中で、私はただ一人自分の世界に没頭していた。
その静寂を破ったのは、全く予想もしていなかった声だった。
「……君が」
低くて、どこか自信なさげなか細い声。でも、その声の響きは私の心の一番奥深くにある古びた傷跡を、ちくりと容赦なく抉った。
はっと顔を上げる。
いつの間にか、私のすぐ目の前に一人の男性が立っていた。
陽光を受けて輝く金髪。空色の瞳。
物語の王子様をそのまま体現したかのような恵まれた外見。でも、その姿は私の記憶の中にある自信に満ち溢れた傲慢な王子様とは、似ても似つかない無残なものだった。
上等なはずの王族の装束はどこか着崩れていて、しわが寄っている。輝いていたはずの金髪は艶を失い、ぱさついている。
そして何よりも、その空色の瞳。かつての傲慢な光はどこにもなく、ただ深い、深い後悔と疲労の様子がどんよりと澱んでいた。目の下には隈が、青黒く浮かんでいる。
レオン・ド・クレルモン。
私の元婚約者。私の人生で切っても切れない出来事を引き起こした、その張本人。
彼がなぜ、こんな場所に。
周りの料理人たちが彼の姿に気がつき、慌てふためいてその場に膝をつく。
「で、殿下!? な、なぜこのような場所に……!?」
王宮料理長のうろたえた声が響く。
でも、レオンはその声に反応すらしない。ただ呆然と私を見つめて立ち尽くしている。そのうつろな瞳が、信じられないというように大きく見開かれていた。
「な、なぜ……君が、ここに……」
彼の唇から、絞り出すようなか細い声が漏れた。その声は風にかき消されてしまいそうなほど弱々しかった。
私は彼の、そのあまりにも変わり果てた姿に一瞬だけ言葉を失った。
怒りでも悲しみでもない。ただ純粋な驚き。
目の前のこのやつれた男が、かつて私を公衆の面前で断罪した、あの傲慢な王子と同一人物だとはにわかには信じられなかった。
でも、私はすぐに冷静さを取り戻した。
もう私と彼は何の関係もない。私は彼の婚約者ではない。私はただの辺境の菓子職人。そして、彼はこの国の王子様。
ただ、それだけ。
私はその場に深々と腰を折った。ヴァロワ公爵令嬢としてではなく、『銀のしっぽ亭』の店主として、最も丁寧な礼を。
「国王陛下のご命令により、参上いたしました。『銀のしっぽ亭』の店主でございます」
私の、そのどこまでも事務的で感情のこもらない声。過去の甘い関係性を完全に断ち切る、冷たい響き。
レオンのやつれた顔が、さらに蒼白になったのが分かった。
彼が何かを言おうとして口をぱくぱくと動かす。でも、そこから言葉は出てこない。
ただ、はっ、はっと浅い呼吸を繰り返すだけ。
私はそんな彼に、もう興味はなかった。
私の戦場はここ。過去の幻に構っている暇などないのだから。
私は彼に静かに背を向けた。そして、自分の調理台へと戻ろうとする。
そのすれ違う瞬間だった。
「……待ってくれ」
か細い、でも必死な声。
彼の指先が伸びてきた。何かを言いたそうに。私の腕を掴もうとして。
その震える指先が、私のローブの袖にかすかに触れた。
ぴくりと。
私の肩が小さくこわばる。
でも、私はその手を振り払いはしなかった。ただ、静かに一歩だけ身を横にずらした。
彼の伸ばされた手は行き場を失って、虚しく宙を掻いた。
その、あまりにも静かで、しかしあまりにも決定的な拒絶。
レオンの息を飲む音が、背後で聞こえたような気がした。
私は一度も振り返ることなく、自分の調理台へと戻った。そして何事もなかったかのように、黄金の小麦粉が入った麻の袋を手に取った。
さらさらと心地よい音を立てて、粉がボウルの中へとこぼれ落ちていく。その甘い香りが、私のわずかに乱れた心をすうっと静めてくれた。
もう振り返らない。
私の戦うべき相手は、過去の幻なんかじゃない。
この最高の材料と、私自身の情熱。
ただ、それだけなのだから。




