二章 12夢 湯の花
――チャポンと、滴が水の上で波紋を作り、瞬く間にそれが広がる。温水により発する蒸気により、部屋の湿度は高い。だがそれは、この部屋ならではであり、人はそれを不快には思わないだろう――ここではそれが、当たり前なのだから――。
一人の少女の手によって開かれた扉から、蒸気が外へと逃げ出す。それによって開けた光景に、少女は唖然とする。
気を引き締め直した少女は、蒸気とは逆行し、その中を平然と掻い潜る。たどり着いた場所で身を屈め、肩から湯を被る。そして足からゆっくりと水――もとい『湯』に浸かる。
少女――ユミがいるここは『お風呂場』――と言ってもそれは、ユミの知るお風呂場とは少々異なる。現代とは比べ物にならないほど、豪華な作りなのだから――。
まず顕著なのはその広さだ。現代のホテルなどにある大浴場と比べてもざっと二倍はある。二、三十人は軽く入れる。円形であり、中央からお湯を供給する噴水のような仕掛けがある。
一般家庭出身のユミが唖然としたのも頷ける作りだ。
「はぁ……あったか~い」
雨の影響により冷えきっていたユミの体は、みるみるうちに火照りを持って、それはまるで彼女の髪色と同じ『赤』のように肌の色を変化させていった。
自然と笑み溢しているユミは今、極楽気分で癒されている真っ只中だ。待ちに待ったお風呂ではないが、何だかんだでお風呂は好きだ。湯に浸かる行為はどこか癒される。疲れが抜けて行く。
「はぁ……なんか、謝ってばっかだな~」
湯船の縁へと上半身を打ち上げて――異世界生活一日目。今日という日を振り返るユミは、ため息をついて項垂れた。
ようやく始まりを告げたはずの異世界だが、堪能とは程遠く――ただただ振り回されていただけ。迷惑ばかりかけて、何も成し得てはいない。何もできなかった。
「はぁ……私、何でここにいるんだろ」
ため息だけが何度も出てしまう。自分自身が嫌になる。力の無さが嫌になる。弱すぎて嫌になる。
――弱ユミ。
この状態ではユミはただ自分を貶す。心が荒んでいる。自分の進む道が見えていない時に表れるユミの心理状態。
これと反するのが、
――強ユミ。
この状態では相手が誰であろうと向かって行く。たまに見せるユミの勇気の一因がこれ。
コウがいつか言っていた「お前のそれが出ればたぶん大丈夫だろう」というのがこの心理状態。
やるべきことが見えていればユミは強い。だが、見えていなければ弱い。現状見えていないがために、弱ユミが現れてしまっている所以である。
「はぁ……帰りたい」
一日目にして既にホームシックに掛かった。
夢にまで見た異世界のはずなのに、どこか平穏な日常が恋しい。起きて、学校へ行き、寝る。何でもない日々。そんないつもの日常は一転、非日常へと変貌している。
何でこんなことになっているのか。どうすれば帰れるのか――否、帰れない。帰る術など現状ない。
――現状は、だ。
「……! そうだよ、まずは文字」
閃いたユミは湯船から立ち上がった。誰もいないために、恥じらいなど皆無。拳を握りしめる。
帰る術がないのなら探せばいい。ならば世界の礎――基盤を手に入れるしかない。それが文字だ。
「大体、今日乗り切れたじゃん。よくやったと思うよ私――アルちゃんのことで頭使ったし、リコリスさんに剣向けられたけど生きてるし、コウとのことも解消できた。案外やれてるってこと……だよね?」
自分自身を鼓舞するユミ。客観的に見ても、彼女は何だかんだで今日一日を乗り切った。色々あったが初日はもうすぐ終わりを告げる。長いようで短い一日であった。
「それに初めては何だって辛いじゃん。そこさえ乗り切れればきっと楽しい生活が待ってるはずだよ。――住めば都って言うしね」
弱ユミをだんだんと強ユミへと押し上げる。
やることは見つかっている。やらねばならないこともある。それらを成し得たなら、また探せばいい。そしていつか帰る方法が見つかった時、また悩めばいい。まずは目の前の一つを確実に、一歩ずつ着実に、
――糸を編むこと。
やりたいことだってたくさんある。何も辛いことだけが世界のあり方ではない。辛いの反対はなんだ――楽だ。楽しいだ。夢にまで見た異世界なのだ。楽しまなくてどうする。
まだまだ知らないことだらけで、目の前は真っ暗。そんな未来という名の色を照らすのも、暗くするのも、結局は自分次第。無数に広がる未来へと、進むしか道はないのだ。
闇という名の未来は既に見てきた。『リダイアル』を乗り越え今に至ってる。『死』という経験に勝るものがこの世にあるのか――否、否、否、あるはずがない。それ以上に怖いものなどこの世にはない。ないだろうに――何を恐れることがある。
「よしっ! やるしかない! がんばれ、私っ!」
「――何を頑張るの?」
傷心を修復し、ユミの決意表明が行われたと同時に、お風呂場の扉がガラッと音を立てて開いた。釣られるように見やったユミの目に、疑問の言葉と共に入ってきたカイの姿が目に飛び込んだ。当然だが格好は今のユミのそれと同様――、
「わわわぁ!?」
ユミは慌てて湯船へと、自分の体の隠蔽を図った。視線を外すように半回転を伴って、カイの方角とは真逆を向く。
比べるのもおこがましいほど、眩しすぎるカイの姿に見惚れしてしまう。
――――れ、レベルが違いすぎる。
視線を外したにも関わらず、カイの輝く裸体が今なお瞼の裏から離れず、ユミへと現実を突きつける。
素敵過ぎる。見ていられない。貧相な自分の姿が憎い。
と同時にそれは、当然カイにも与えてしまっていることだろう。ユミの裸体の印象を――、
――――絶対見られたよね……見られた。見られちゃったよ~。
のぼせる火照りとはまた別の火照りが、ユミに襲いかかってきた。
隠しても意味はない。同じ性なのだから対して問題はない――はずなのに、どこか羞恥心が生まれている。レベル差どうこうというよりも、だ。
裸の見せ合いなど――年が歳だ。やらない。やろうとも思わない。だからその邂逅は、全くもって偶然の産物でしかない。偶然が生んだ別の『赤』でしかない。
家族とは違うのだ。家族には何ら芽生えるものはない――覗き覗かれてもなんら――大衆浴場の見知らぬ人とも訳が違う。
知り合いだからこそ恥ずかしい。知っているからこそ恥ずかしい。知り合いとばったり会ってしまう、そんな感覚が一番近い。
――裸ならなおさらのこと。
「急にどうしたの、ユミ。何かあった?」
湯が波打たせて入室を知らせる。ユミの背中越しにも分かるほど、カイの言葉は思いの外近く、その素敵過ぎる姿がすぐ目の前にいるのだと思うと、
「な、ななな、なんにもないです!? なんでもないですから。ホントになにもないです、はい」
振り返ることなど、できやしない。同様を隠しきれず、言葉もつたない。
完全に変な人だ。そう捉えられてもおかしくはない。
「ねぇ、ユミ。こっちを向いてもう一度そう話してみて?」
「だ、駄目です。見れません」
「どうして?」
「どうしても、です」
「ふーん。じゃあ何かあったんだね」
「な、何でそうなるんですか!? 何もありませんから!」
「ならこっちを見てそう言えるはずだけど。やましいことが無いなら――そうでしょ?」
カイの言葉は嫌に冷たい。ユミがこうなったのは紛れもなく彼女が原因――なのだが、彼女に不信に思われているのは、自分に非があるのと明々白々な事実。
ほんの数十分前のこと。
カイがずぶ濡れの状態のユミとコウと出会ったのは、城に入る扉の前であった。そこにはアルメリアもいた。
気まずい雰囲気ではあったものの、カイもアルメリアも何も聞いては来なかった。ただ察してくれたのだろう――「ごめんなさい」と、ユミが二人に向けて一言謝ると、コウが庇ってくれたのだから。
一通りことが済むと、コウが「風呂に入れ」と言い、こうして今に至っている。
「わ、分かりました」
ユミはカイの要求を素直に受け入れるしかなかった。ゆっくりと振り返り彼女の視線を合わせる――、
「な、な、なにもありませんから……」
が、すぐにそっぽを向いて言葉を紡ぐしかなかった。カイの新たな一面がやはり眩しすぎる。
「ふふっ、ユミってばすぐに顔に出るから分かりやすくて、おもしろいね」
ここでそのそんな笑顔は反則だ。ブクブクとユミのは口元まで湯船へと赤くなりながら沈み行く、
――その時だった。
ガラガラっと新たな来訪者の音に、ユミとカイの視線は扉へと向いた。
「あ、アルちゃん!?」
「どうもです。礼ながら私もご一緒しなくても?」
「……あぁ! うん! 一緒に入ろ、アルちゃん」
言葉の意を取り繕い、アルメリアを受け入れる。
アルメリアはゆっくりと近づき、一礼の後、二人と共にお湯に浸かった。表情は相も変わらないが、ピンッとウサミミを立たせている。
華奢な体躯であるアルメリアのそれは年相応。
――――勝った。
だが、その数少ない勝ち星が空しいのは気のせいだろうか。
そもそもアルメリアは、ユミとカイとはベクトルが違う。彼女からは見事に危ない匂いしかしない。ロリロリしい。変な人に目をつけられたらまずい。
「アルちゃんは私が守ってあげるよ」
「……? それはどうもです」
「ふふっ、頑張ってねユミ」
三人の湯話はそれからしばらく続いた。
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「……一人は寂しいな」




