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第一章 自分との戦い?

 すべては、数学の模擬テストの点数が壊滅的に悪かったのが始まりだった。おかげさまで、塾で残され、その日たまたまミズキは遅くに暗い夜道を歩くハメになってしまったのだ。

(まったく、あたしは女子中学生よ? 先生ももうちょっと気を使えっての!)

 大体、数学はわけわからないからキライだ。例えば、分数。五分の二、という奴ならまだ理解できる。五つに分けたうちの二つ。じゃあ、二分の五ってのは? 二つに分けたうちの五つ? 矛盾してないか? 残りの三つはどこ行った?

 心の中でブツブツ言いながら、ミズキは栗色の短い髪をくしゃくしゃかいた。勝気そうな茶色の目に、ピンクの薄い唇。制服を着た体はちょっと背が小さいけど、確かによからぬ男に声くらいならかけられそうなほどにはかわいい娘だ。

 駅に続く大通りを少しはなれた静かな住宅街は蒸し暑くて、じっとりと霧がかかっていた。そのせいで並んだ街灯の光がやたら大きく見えて、このまま歩いて行ったらどこか世にも奇妙な世界に迷いこんでしまいそうだった。ついオールバックのサングラス男が近くでニヤニヤしていないか探してしまう。

 携帯の時計は、十二時三分前。通りが静かな分、すれ違った車の音が、やたら大きく聞こえてくる。そして、誰かのぺとぺという足音も……

「ん? ぺとぺと?」

 普通、靴をはいている人間の足音はコツコツだ。ミズキの頭に、おばあちゃんから聞いた『妖怪ぺとぺとさん』が浮かんだ。

 なんでも、丸くてぷよぷよしていて、夜中にぺとぺと音をたてながら後をつけてくる妖怪らしい。道をあけて振り返り、「お先にお行きよ!」と声をかけると恥かしがって逃げて行くという、紅葉の乗った豆腐をそっと見せてくる豆腐小僧と同じくらい何がしたいのかイマイチよくわからない妖怪だ。

 でも、今ミズキが聞いている足音は、そいつではないようだ。その証拠に、人影は後ろではなく前から近づいてくる。

 ミズキは、バッグをきつく握り締めた。手が、ちょっと汗ばんでいた。

 黒い影は、街灯がアスファルトに描く光の輪に踏み込んだ。小麦色の小さな素足で。

 光のせいでオレンジ色に見えるけれど、くるぶしの上で揺れる着物のスソは、たぶん純白。同じ色の帯の上には、小さな胸。肝心の顔はうつむいていてよく見えない。

 こんな時間に、着物に裸足。どう見たって只者じゃない。

「ゆ、ゆうれ……」

 ミズキのセリフに気づいたのか、着物姿の誰かが顔を上げた。

 ピンクの薄い唇が、ニヤリと笑う。勝気そうな茶色の目に、栗色の短い髪。

「あ、あたし?」

 そう。それは十四年間毎日毎日飽きもしないで見てきた、ミズキ自身の顔だった。

 ミズキは、ぺたんと道路に座り込んだ。頭が痛くなる位の賑やかさで、奥歯がカチカチ鳴っている。夜道で自分と出くわすくらいなら、殺人鬼かゾンビにでもでくわした方がまだマシだ。

 だって、少なくとも殺人鬼は「人殺しが好きな人」、ゾンビは「死んで生き返った人」と正体はわかっている。でも、自分自身となると話は別だ。

 父さんの隠し子? 生き別れの双子? クローン人間? たまたま何億分の一で出会った超そっくりなアカの他人? あたしの幽霊? だとしたら、あたしは死んでる? そもそも、あたしって何だ? あいつは、あたしの偽物か? それとも、あたしがあいつの偽物か? 

 なんだかエセ哲学者になりかけたミズキに、もう一人のミズキが近づいてくる。

 ピンクの唇が片方吊りあがった。本物のミズキが、『あたしって、こんな顔ができるんだ』と感心するくらい邪悪な笑みだ。

 着物のミズキは、ピストルの合図を聞いたように、一気に走りだした。振り上げた右手の袖が風になびいた。

(殺られる!)

 ミズキはカバンを盾にして頭をかばった。

 硬い物を、もっと硬い物が砕いた音。けれど痛みも衝撃もなくて、ミズキはそろそろと目を開けた。

 真っ黒いスーツの背中が、目の前に広がっていた。どこからかわいてきた男が、ミズキとニセミズキの間に割り込んでいた。

 男が持っているトンファーが着物女の白い手を受け止めている。

「ちょっと、何なの?」

 ミズキは両手を髪の毛につっこんで叫んだ。

「数学で残されて、自分自身に襲われたあげく、また一人新しく変な人が…… 神様、私あんたに何かした?」

「変な人とは、随分な言い方だな。ま、この状況には同情するよ」

 トンファーに力を入れたまま、その男がちらっと振り向いた。

 切れ長の目に通った鼻筋。形のいい唇は片方だけおもしろそうに吊りあがっていた。肩まである黒い長い髪がむさくるしく感じないのは、ほっそりとした輪郭のおかげだろう。

 なかなかカッコいい人だとミズキは思った。もっとも、こんな夜中にトンファーを振り回すような危ない奴はタイプではないけれど。

「あんた、この着物の関係者?」

「まあ、そういうことになるのかな。俺は霧崎キリサキ。神話ハンターだ」

「帰りなさい。」

「おいおい、命の恩人にそのセリフはないだろ。『感謝』っていう言葉を知ってるかい?」

「命の恩人だからこそ、背中を蹴りつけたいのをガマンしてるのよ。神話ハンター? 何その、深夜ひっそりとやってる三流アニメのタイトルみたいな職業は。見た感じ、あたしより五つは上でしょう? いい年して、あんたこそ、『恥』って言葉知ってる?」

「……仕舞いにゃ泣くぞ。確かにダサい呼び名だが、俺が決めたわけじゃない」

 霧崎とやらは、なんとかニセミズキの腕を押し返した。ニセミズキは、サーカス並みの身軽さでトンボを切って男と間合いを取る。

「すごい! 私には無理!」

「だろうな。さっきの一撃も、並の女子中学生の力じゃなかった」

 着物姿を見据えたまま、霧崎は言った。

「詳しいことはあとで説明するが、人ならざる者を退治するのも俺の仕事でね。この辺りにかすかな魔力を感じたのさ」

「その魔力とかいう物を追ってここにきたら、あたしが襲われてたってわけね? 目の前の怪奇現象がなければ、とっても信じられない所だわ」 

「それにしてもそっくりだな。お前、『このまま一緒に育てると大いなる災いが訪れると予言されたばっかりに、仮面を被せられ地下牢に監禁されてたものの、最近ひょんなことから逃げ出した双子』に心当たりは?」

「私は王族? どこのデュマよ」

「お、その名前がパッと出てくるとは、お前結構読書家……」

 男が何か言いかけたとき、着物が動いた。

 ゴウッと空を切る音が聞こえるほどの勢いで、ニセミズキは霧崎の頭上に飛び上がった。

 霧崎は、道路に倒れこむと、その勢いのまま体を転がした。

 ほんのタッチの差で、ニセミズキの指先は霧崎の頭を外れ、道路に突き刺さった。小さな爆弾でも仕掛けられていたように、アスファルトが飛び散る。

「ななな、女子中学生どころか人間の力じゃないじゃない!」

 ニセミズキが拳を抜くのを待たず、霧崎が駆ける。

 トンファーが着物の胸をとらえそうになった瞬間、ニセモノは忍者が畳をひっくり返すようにアスファルトの表面をひっぺがして霧崎に叩きつけた。

「ぐっ」

 霧崎は両腕で防御しながら、口に入った砂を吐き捨てた。

 ひざまずいて荒い息をしている霧崎をみて、ミズキは焦った。

 ニセモノはピンピンしていて、呼吸一つ乱れていない。もっとも、人間じゃない奴が本当に呼吸しているかどうかは知らないけど。とにかく、スタミナに差が有りすぎるのだ。

(このままじゃ、霧崎がやられちゃう!)

 冗談じゃない。そうなったら、次はミズキの番なのだ。

 ミズキは大きく息を吸い込むと、両手をメガホン代わりにして叫んだ。

「火事だ! 火事だ、火事だ、火っ事っだ~!」

 どういうことだ、と目で聞いてきた霧崎に、ミズキは胸を張って見せた。

「こういう場合、『助けて!』とか『人殺し!』とか叫んじゃダメなのよ。関わり合いになりたくないから、人は逆にいなくなるの」

 おばけだか妖怪だが知らないが、どっちにしても人ならぬ者は目立つ事がキライなようだから、見物人を呼べばいい。それがミズキの作戦だった。

 道の両端の家に、明かりが灯った。ミズキの大声で起こされた誰かの、不機嫌そうな唸り声も聞こえる。

「でも、火事って叫べば、人の不幸を見物しようって奴が集まってくるわ。携帯片手にね。人間なんてそんなもんよ」

 霧崎は、露骨に顔をしかめた。

「いい性格してるな、お前」

「少なくとも、詐欺に引っかからない自信はあるわね。うたぐりぶかいから」

 アスファルトの砕けた音と、ミズキのシャウトのおかげで玄関の鍵を開ける音があちこちから聞こえてくる。

 不審な物音を聞きつけた草食動物のように、ニセミズキはピクッと顔を上げた。そしてくるっと背を向けると、物凄い勢いで走り去っていった。

「やれやれ。ようやく一安心だな」

 霧崎が溜息をつく。

「そうね。少なくても、あたしだけはね」

「なんだ。随分と意味ありげな言葉だな」

 ミズキは霧崎の手元を指差した。

「トンファー! このままじゃ、あんたがあたしを襲っているように見えるわよ」


 少女のニセモノと戦った通りから少し離れた自動販売機は、ヘタをすればその辺の街灯よりも明るいくらいだった。

 お近づきの印というわけではないが、霧崎はミズキにジュースをおごってやることにした。光につられて集まった小さな羽虫が取り出し口にたくさんくっついていて、少し気持ち悪い。

「で、どういう事が説明してもらおうじゃない」

 スポーツドリンクをノドに半分流し込んで、ミズキが聞いてくる。

「と、言われてもな。どこから言えばいいのやら」

 霧崎は背広を脱いで肩に引っ掛けると、黒に近いワインレッドのネクタイをゆるめた。さっきのドタバタでワイシャツが汗でびしょぬれになってしまった。ちなみにトンファーは今、ニセモノと戦っている間は隠してあったカバンの中にしまいこんである。

「俺は非科学技術省の人間でな。都市伝説、幽霊、オーパーツ…… そんな物をなんとかするのが仕事なわけ」

 呪いの解除も技術省の仕事なんだと霧崎は説明した。呪いの術を使ったときや、幽霊のようなこの世ならざる物が現れたとき、特殊な機械でしか探知できない力がその場所から放出される。それを目印に技術省の人間が派遣され、問題の解決に当る。その見えない力を、霧崎達がファンタジーのゲームや小説になぞらえて魔力と呼んでいるのはちょっとした遊び心。報告書に書く正式名称は、不可視性精神力という。

「この町に、かなり強い魔力反応があってね。原因の解明と解決に俺が派遣されたってわけ」

「で、そのナンタラ技術省の通称が神話ハンターってわけね。技術省ってことは、あんた公務員? 決めた。私、将来は海外に移住するわ。そんな怪しげな所に税金ビタ一文払うもんか」

「残念ながら、アメリカを手本に作られた役所だよ。何とかファイルってね。つまらん仕事さ。出るって噂のトンネルを調べて、本当に出たら霊能力者と連絡を取ったり、読むと不幸になるという物語の言霊を調べて、その呪いを解く話を作ってネットに流したり」

「その話、心当たりあるわ。『ミヨシの炎』でしょ?」

 それは、ネットのオカルト掲示板で囁かれていた噂だった。作者不明の『ミヨシの炎』という物語を読むと呪われてしまい、数日のうちに死ぬという。

「そうそう。よく知ってるな」

「あたしはそういうの、信じないんだけどね。友達が読んで大変なことになったらしいわ。金縛りにあったり、全身ヤケドした幽霊に遭遇したらしいけど。『ミヨシの水』っていう話を読んだらそれがピタッと止んだんだって」

「実際に助かったって話を聞くと嬉しいね。『水』を書いたのは俺らだよ」

「まるで現代の陰陽師。影で得体のしれない物と戦ってるんだ」

「おう。人面犬と一晩飲み明かしたこともあるし、訳アリで数メートルに育っちまったバッタを捕まえたこともある。奴の後ろ足、強え強え。まともに食らったら、あばら骨がくだけるよ、ありゃ」

 霧崎は、ふうっとタバコの煙を吐き出した。

 ちなみに、そのバッタがなんでそこまで大きく健やかに育ってしまったかは大人の事情で極秘事項になっている。

「うまく標本にして夏休みの自由研究にすれば、きっとヒーローになれたわよ。それで、あのあたしは一体なんなの?」

「さあ、はっきりとはわからん」

「はあ?」

「最初、ドッペルゲンガーかと思ったんだが、攻撃的すぎる。たぶん、違うだろう」

「ドッペルゲンガーってあれでしょ? もう一人の自分って奴。それを見たら数日のうちに死ぬっていう」

「ああ、そうだ。脳が傷ついたせいで見る幻覚、中途半端な幽体離脱、ただのそっくりさん、てのが主な原因なんだが…… 何にせよ、人を襲ったりはせんよ」

「ウソ、じゃあ、プロから見てもあの正体はわからないの?」

「ああ。でも、いい物じゃないことは確かだよ」

 霧崎は、ポケットからレシート大の真っ白いフィルムを取り出した。

「失礼」

 断ってから、フィルムの先でミズキの腕に触れる。

「何?」

「触れた対象に悪い念が絡み付いていると、黒く染まるんだ。幽霊に取り付かれていたり、誰かから呪われていないかを調べる物だよ」

 真っ白だったフィルムの先が、黒く染まった。まるで見えない火にあぶられ、こげていくようにその色は広がって行く。

 空いている手でタバコの灰を落とすついでに、霧崎は短く口笛を吹いた。

 まだはっきりと言い切れるわけではないけれど、ミズキを恨んでいる誰かが何かの方法でニセミズキを作ってけしかけたと見ていいだろう。

「真っ黒だな。お前、誰かに恨まれている心当たりは?」

「さあ、分からないわよ。恨みなんて、知らないうちに買ってるものでしょ?」

 わざとへーゼンとしているように見せているようだけれど、ミズキは内心ショックを受けているようだった。唇が少し震えていた。

「安心しろ、何とかしてやるよ」

 霧崎は、バッグの中から茶色い紙を取り出した。その紙には、細い曲線と直線で独特の模様が描かれていた。

「カバンのふたの内側にでも貼り付けておけ。魔よけだ」

 ミズキはうさん臭そうに紙を裏返したり、逆さにしたりしている。

「俺が詳しい原因を探るあいだ、それで凌いでくれ。それがある限り、君のニセモノは近づいてこないはずだ」

「本当? なんだか頼りないわ。信じるしかないけれど」

 ブツブツと文句を言いながらも、ミズキはきっちり符をカバンにテープで貼り付けた。

「あと、万が一自分自身にであったら、絶対に話しかけるなよ」

「どうして?」

「よく考えろよ。もしもニセモノがあの判定フィルムの言うように、誰かの呪いで操られていたとしよう。その誰かさんが近くにいたとしたらどうだ? そして、お前が何かその術者の目の前で気に入らない事を言ったら、どうなるかわからないぞ」

「なるほど。そりゃそうよね。目の前でおしりぺんぺんでもされたら、かける呪いにも気合が入るってもんだわ」

「そういうこと。あと、知り合いに変なこと言われても、しょげるな」

「というと?」

 霧崎の目が、フッと遠くをみつめた。

「とある少年のドッペルゲンガー事件を解決した時のことなんだが、そのドッペル君、よりにもよって女子トイレや女子更衣室に出現してな。その少年は、かわいそうに濡れ衣を着せられ……」

「……ねえ、本っ当に早く解決してよ?」

「はいはい。君が安心して学生生活を送れるよう、がんばりますよ」

 自分でなんとなく言った「学生生活」という単語に、霧崎はちょっぴり惹かれた。

 そんなに年とっているつもりはないけれど、中坊時代はもう何年か昔のことだ。ミズキの制服を見て、なんだかなつかしくなった。

「あれ、その制服の胸についてる校章、お前春園中学の生徒か!」

「え? ひょっとして、あんた春中の卒業生?」

「俺じゃなくて、兄貴がな。昔この辺に住んでたんだが、小学生の時に引っ越した。駅近くの和菓子屋、まだあるかい?」

「よかったわ。卒業生の就職先が神話ハンターなんて、自慢にもならないし学校のパンフレットにも載せられないもの」

「なあ、いい加減傷つくんだが。ついでに俺もお前のこと呪っていいか?」

 苦笑してから、霧崎は遠い目で夜空を見上げた。タバコの煙が立ち昇る。

「ああ、思い出すなあ、小学生のころ。この辺を駆けずり回って遊んでたもんだよ」

「で、どうせその頃のあんたのアダ名、ジャックでしょ」

「お前、ひょっとしてエスパーか?! なんでその事を?」

「大体想像つくわよ。キリサキジャックってね」

「その通りだよ、チクショウ」

 苦笑しながら、霧崎は財布から電話番号が書いてある紙を取り出した。

「俺の携帯に繋がる。何かあったら連絡しろ」

「了解」

 地元の連帯感、というのは結構凄い物で、ミズキは少し霧崎に対する警戒を解いてくれたらしい。軽く微笑んでくれた。

「さて、いい加減帰らないと」

 ミズキは空き缶をゴミ箱に投げ捨てた。

「送ろうか?」

「いいわよ。さすがにアイツも二連チャンで襲っては来な……」

 がさり。背後で茂みをかき分ける音がした。霧崎の手が、思わず武器に伸びる。

 塀の上に、猫が一匹うずくまっていた。三毛猫で、かなり大きい体をしていた。ケンカで切れたのか、もとからなのか、短い尻尾。右耳は半分千切れていて痛々しい。そして、鼻の辺りに雪だるまみたいなシミ。

 霧崎は、思わず声を上げていた。

「ユキちゃん? ユキちゃんでちゅか?」

「誰!」

 ミズキが即行でつっこんでくる間、猫は一度声を立てずに鳴くと、塀を飛び降りて消えていった。

「い、いや、昔、さっきの奴とそっくりな猫を飼ってたんだよ。でも、まさかな。かなり前の話しだ。今生きているはずない。たぶん、気のせいだろう」

「うん、あんたがいきなり赤ちゃん言葉を使ったことも気のせいだったらよかったんだけど」

 霧崎の口からタバコがポロッと落ちた。

「聞いてたか。聞かれたからには生かしておけない、とは言わないが、気持ち的にはそんな感じだ」

「あんた、日本全国に百万は生息しているという、にゃんこ中毒者の一人ね。ふかふかの毛皮とぷにぷにの肉球を愛してやまず、道端でネコを見つけようものならなぜか赤ちゃん言葉で話しかけるという」

「う、うるさい。ほっとけよ。さっさと帰れ」

「はいはい、そうします」

 ぱたぱたと背をむけて、ミズキは手を振った。

「あ、そうだ。言い忘れてたけど、命救ってくれてありがとねー」

 なんだか友達同士の『また明日ねー』みたいなノリで言われたので、霧崎はしばらくそれがお礼だということに気がつかないくらいだった。

「根はいい奴みたいなんだけどな~」

 呟いて、霧崎は猫が消えていった家の庭に目を凝らした。けれど、手入れがさぼりぎみの花壇が見えるだけで、猫どころか小鳥一匹見当たらない。

「まさか、本当にユキちゃんだったのか?」

 引越しをする事になって、この町におきざりにするしかなかったユキちゃん。でも、その時には耳に傷どころか皮膚にできもの一つなかった。

(やめよう。あの猫が本当にユキちゃんかどうかわからないんだ。似てるってだけで)

 いくら全国に百万人いるにゃんこ中毒者のうちの一人だとしても、たまたま見た野良が昔飼っていた猫かどうか確かめるために町中を駆け回る事はしたくない。

(とにかく、まずはミズキのドッペルゲンガーもどきを何とかしなければ)

 明日は忙しくなりそうだ、と霧崎は覚悟を決めた。

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