第二十六話「扉の外」
■フィロニィ
ヴィロアム様は、部屋へ入る前に一度だけこちらを見ました。
「取り除くことはできない」
静かな声でした。大きくはありません。でも、よく聞こえました。
「できるかもしれないのは、移すことだけだ。内臓に定着する前に、足の方へ流す。成功すれば、命は繋がる。歩ける可能性も出る」
少し間がありました。
「ただし、とてつもない痛みが出る。八時間はかかる。一人でやる。お前たちは中へ入るな」
私は頷きませんでした。まだ、その先がありました。
「本人に確認は」
「待てば定着する」
ヴィロアム様はそれだけ言いました。
「明日の朝まで待てば、この処置自体ができなくなる可能性が高い。今、決めろ」
部屋の中で、リュバン様の呼吸が浅く続いていました。意識はありません。でも、生きています。
生きている。だから、決めなければなりません。
ヴィロアム様がこちらを見る。私を見る。それから、メルセミュ様を見る。
「やるか」
その一言でした。
私は、すぐには答えられませんでした。胸の中で何かが一度止まりました。
痛みが出る。八時間。今すぐ。本人の確認はできない。
言葉にすると簡単でした。でも、簡単なことは一つもありませんでした。
メルセミュ様の方を見ました。メルセミュ様も、私を見ていました。
誰も、代わってくれませんでした。
■メルセミュ
リュバンは眠っていた。いや、眠っているように見えるだけで、本当はもっと違うところにいるのかもしれなかった。
顔色が悪い。さっきより悪い。ここで迷っている間にも、どんどん悪くなっていく気がした。
本人に聞ければいいと思った。聞けたら、よかった。
でも聞けない。待てない。今、ここで、私たちが決めるしかない。
それがいちばん嫌だった。
「やるしかない」
声が出た。思ったより低かった。
言ってから、喉の奥が少し熱くなった。勝手に決めた。本人の口から何も聞いていないのに。
でも、もう引けなかった。
フィロニィが少し遅れて、頷いた。
「お願いします」
ヴィロアムはそれ以上何も言わなかった。部屋へ入って、扉を閉めた。
閉まる直前に、振り返りもせず言った。
「音は外へ出さない」
少しだけ間があった。
「ここにいるお前たちには聞こえる」
扉が閉まった。
静かだった。
その静けさが、怖かった。
■フィロニィ
最初の数秒は、何も聞こえませんでした。
部屋の中で、ヴィロアム様が何かを準備している気配だけが、かすかに伝わってきます。布の擦れる音。器具の小さな音。魔力が集まる気配。
私は壁の前に立ったまま、指先を握っていました。メルセミュ様は扉の前から動きませんでした。
次の瞬間。
声が、響きました。
絶叫でした。
私は反射的に口を押さえました。喉の奥で、何かが跳ねました。足が一歩、勝手に後ろへ下がりました。
聞いたことがない声でした。
痛い、とか。苦しい、とか。そういう言葉の前に出る声でした。
部屋の中の、何かが裂けるような声でした。
メルセミュ様が扉へ手をかけました。
「メルセミュ様」
呼びました。声がうまく出ませんでした。
メルセミュ様が振り向きました。目が見開かれていました。もう涙が出ていました。
私も、気づいた時には泣いていました。
でも、開けられませんでした。
今止めれば、もっと取り返しがつかない。そうわかっていたからです。
わかっていることが、何の助けにもなりませんでした。
また、声が響きました。
さっきより低い。でも、もっと深いところから出ている声でした。
私は壁に背をつけました。そのまま座り込みそうになるのを、膝に力を入れて堪えました。
自分たちが決めた。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返されました。
助けるために。間に合わせるために。それでも。
中で起きていることの一つ一つを、本人は知らないまま受けている。
そのことが、あまりにも重かった。
■メルセミュ
二回目の叫びで、もう無理だと思った。
手で口を押さえた。そうしないと、私まで叫びそうだった。
なんで。なんで、こんなことを。そう思った。
でも、私が決めた。
フィロニィと一緒に、やってくださいと言った。助けるためだと、そう思って。そう思ったのに、今聞こえているのは、助かる音じゃなかった。
扉の向こうで、リュバンが壊れていく音みたいだった。
涙が止まらなかった。拭く気にもならなかった。
扉に額をつけた。木が冷たかった。
中から声が続く。途切れない。少し落ちたかと思うと、また来る。息を吸う音が聞こえて、その次に、また来る。
そのたびに、肩が跳ねた。
「……ごめん」
勝手に出た。
何に対してなのか、自分でもわかっていた。本人は何も言ってない。でも、私は勝手に決めた。
ごめん、と思った。
ごめん、と思いながら、やめてくれとは言えなかった。
■フィロニィ
時間の感覚が崩れていきました。
どれだけ経ったのか、わかりませんでした。一刻か。半刻か。もっと短いのか。もっと長いのか。
声の質が少しずつ変わっていきました。
最初は鋭かった。その後、深くなりました。途中から、息と混じり始めました。それでも止まりませんでした。
私は、今どこを動かしているのかを想像してしまいました。胸から下へ。流れを切らずに。内臓へ定着しようとするものを、引き剥がし、押し流し、足へ。
想像できてしまうことが、苦しかった。
メルセミュ様が、途中で何度も立ち上がっては座り、また立ちました。扉の前を離れませんでした。
私も離れませんでした。
中から聞こえる声の一つ一つが、「お前たちが決めた」と、ずっと言っているようでした。
■メルセミュ
夜が深くなっても、終わらなかった。
店の中は暗かった。灯りはつけてある。でも、暗かった。
パンの匂いがまだ残っていた。いつもの匂いだった。それが腹立たしかった。
なんでこんな夜に、いつもの匂いがするんだと思った。
ツムギは、途中から階段の下にいた。座っていたのか、立っていたのか、よくわからない。でも、そこにいた。
何も言わない。
たまに視線だけが上へ向いていた。扉の方へ。
声は続いていた。ずっと。本当に、ずっと。
途中で少し弱くなった時があった。
それが一番怖かった。
もう楽になったのか。それとも、もう声を出す力がないのか。どっちなのかわからなかった。
「フィロニィ」
呼んだ。
フィロニィが顔を上げた。涙で濡れていた。私も同じだったと思う。
「これ、終わるのかな」
言ってから、ひどいことを言ったと思った。終わるに決まってる。終わってもらわないと困る。でも、その時は本当にわからなかった。
フィロニィは、すぐには答えなかった。
それから、小さく言った。
「終わらせるために、私たちは決めました」
その声も少し震えていました。
それを聞いて、余計に苦しくなった。
■フィロニィ
明け方が近づく頃、声はもう悲鳴というより、呼吸と痛みが混じった音になっていました。
私は耳を塞ぎませんでした。塞いではいけない気がしました。
私たちが決めたなら、最後まで聞かなければいけない。そう思いました。
そう思うこと自体が、たぶんもうおかしかったのだと思います。でも、その夜は、それしか支えがありませんでした。
部屋の中の魔力の揺れが、少し変わりました。
強くなったのではなく、収まり始めた感じでした。流れが、ひとつの場所へ落ち着いていく。
終わりが近いのかもしれない。そう思った時、自分の膝が震えていることに気づきました。
扉の向こうが静かになったのは、その少し後でした。
本当に、急に。
静かでした。
その静けさの方が、叫びより怖かった。
メルセミュ様が立ち上がりました。私も立ち上がりました。
扉は、すぐには開きませんでした。
その数秒が、夜のどの時間より長く感じられました。
やがて、内側から音がしました。
扉が開きました。
ヴィロアム様が立っていました。顔色一つ変えていませんでした。
「終わった」
私は、すぐに中を見ようとして、一歩進みました。ヴィロアム様が手を上げて止めました。
「まだ動かすな。呼吸を整えている」
私は止まりました。
「……生きていますか」
自分でも、情けない声だと思いました。
ヴィロアム様は私を見ました。
「生きている」
その一言で、膝から力が抜けそうになりました。
でも、次の言葉が続きました。
「ただし、元には戻らない」
そこで、夜はまだ終わっていないのだとわかりました。




