鬼になった同士
――人として生きるか、鬼として抗うか。
この物語は、「鬼」になった者たちが、“それでもなお人であろうとする”姿を描いた物語です。
かつて人であった青年・蓮と鋼次、そしてふたりに育てられた少女・椿。
血と呪い、記憶と選択、そして名を持つことの重さ。
生まれが“鬼”であるというだけで、運命を呪われた少女が、幾つもの「赤月の柱」に立ち向かいながら、自らの意思で名を得、生き方を選ぶまでの旅。
これは、剣と炎と涙の物語です。
同時に、「赦し」と「つながり」を探す物語でもあります。
人ではない力を持ち、鬼と呼ばれた彼らが――
それでも人の心を信じようとするなら。
その旅は、きっとあなた自身の問いにもつながっているかもしれません。
“鬼”とは何か?
“人”とは何か?
そして、“あなた”は――何を選びますか?
読んでくださるあなたにとって、この物語が、
何かの「光」や「声」となりますように。
深い霧が山を包むその夜、ふたりの男は、再び刃を交える運命にあった。
「久しいな、鋼次。お前も――もう人間じゃないんだな」
そう言ったのは、かつて村を守っていた剣士、蓮だった。
彼の瞳は燃えるような赤に染まり、手には鬼の力を宿した黒き太刀。
だが、その視線の奥には、深い哀しみと誓いがあった。
鋼次もまた、鬼となっていた。
妻と子を村人に殺され、復讐の果てに鬼の血を求めた男だ。
その体には無数の呪符が刻まれ、痛みと怒りを養分にしている。
「蓮、お前が鬼狩りになるとはな。俺たちは――同じ炎で焼かれたはずだ」
ふたりは、かつて同じ村に生きた。
共に剣を学び、共に笑い、共に誓った。
――「どんな敵が来ようと、俺たちが村を守る」
けれど村は焼かれ、人は裏切り、運命はふたりを引き裂いた。
片や正義の名のもとに鬼を狩る者に。
片や復讐の名のもとに鬼となる者に。
「……なぜ、あの時、来てくれなかった?」
鋼次の問いに、蓮は言葉を詰まらせた。
あの日、村が焼かれた時、彼は別の任務に出ていた――その事実が、鋼次の心を冷たくした。
「……すまなかった。俺はお前を救えなかった」
「だったら、今ここで終わらせろよ。鬼狩りさんよ」
鋼次が叫び、黒炎をまとった槍を構える。
蓮もまた、太刀を抜き、鬼の力を全開に解き放つ。
鬼と鬼。
かつて人だったふたりの、哀しき決闘が始まった。
山の闇に交錯する刃、爆ぜる力。
だが、互いの心には確かに残っていた。
あの日の笑顔。
あの日の誓い。
――そして、今もなお、友情の火種は消えていなかった。
蓮の刃が鋼次の胸を貫く寸前、ふたりの動きが止まった。
どちらかが死ねば、何もかも終わる。
けれど、どちらも殺しきれなかった。
「……終わらせるべきは、俺たちじゃない」
「この狂った世界のほうだ」
鬼になったふたりは、ゆっくりと武器を下ろした。
もう、どちらかが正しいなどという話ではない。
ただ、鬼としてしか生きられぬなら――その力で、もっと深い闇を斬るだけだ。
かくして、ふたりの鬼は手を取り合った。
復讐も、正義も捨てて。
共に歩く、鬼の道を。
⸻
赤月の盟約—
赤く染まった月が、山の稜線から顔を覗かせた。
それは、鬼たちの宴の合図――。
そして、人間たちにとっては、絶望の夜の始まりだった。
蓮と鋼次は、その赤月の下を並んで歩いていた。
互いにかつての敵、そしてかつての友。
だが今は――
「お前、本当にそれでいいのか?」
蓮が静かに尋ねる。
「鬼として生きるってことか?」鋼次は肩をすくめた。「人として守るものがもうないなら、せめて鬼として壊す。そんな生き方しか、もう残ってねぇよ」
蓮は黙って、朽ちた社に目を向けた。
そこには、かつて祀られていた鬼封じの神がいたという。
今はすっかり朽ち果て、鬼たちが集う拠点となっていた。
「この国のどこかに、“鬼の王”がいる」
蓮が口を開く。「人でも鬼でもない、“源”の存在。おそらく……この赤月を呼んでいる元凶だ」
「そいつを斬れば……何か変わるかもしれねぇってことか?」
「鬼として生き続けるのか、人として戻れるのか。あるいは、全てを終わらせられるのか」
蓮は剣の柄に手をかけた。「それは、そいつの首に訊くしかない」
ふたりは言葉少なに、山を下り始めた。
だが、その道のりは決して平穏ではなかった。
赤月の夜には、“半鬼”と呼ばれる存在が現れる。
人として死にきれず、鬼にもなりきれなかった存在。
哀れで狂った魂たちは、ふたりの前に次々と現れ、慟哭と悲鳴を上げながら襲いかかってくる。
鋼次は黒炎の槍を振るい、蓮は血を吸う太刀で道を切り拓く。
彼らの鬼の力がなければ、とても進めぬ地獄のような旅だった。
「……もう十分に地獄を見たはずなんだがな」
鋼次が息を吐きながらつぶやいた。
「それでもまだ、地獄の底じゃないらしい」
蓮の声には、皮肉と悲哀が混じっていた。
そして――彼らはついに辿り着く。
黒き湖と、そこに浮かぶ逆さの城。
それが、「鬼の王」が座す最深部、“地獄の玉座”だった。
だがそこに現れたのは、思いもよらぬ存在だった。
「……兄さん?」
鋼次の声が震えた。
湖の対岸、逆さ城の門に立っていたのは、かつて鋼次の家族を裏切った男。
鋼次の実兄――柊馬だった。
「お前が、鬼の王……?」
蓮が警戒を強める。
「違うさ」
柊馬は微笑んだ。「だが、鬼の王の“器”として選ばれた。鬼とは、力だ。人の心を捨て、力だけを信じる時――人は“鬼”となる。お前たちも、そうしてきただろう?」
その言葉に、鋼次の心が揺れる。
自分は本当に、復讐のためだけに鬼になったのか?
蓮と共に歩くことで、何かを取り戻したのではなかったか?
――心は、まだあるのではないか?
「……違う」
鋼次が呟いた。
「俺はまだ、人間のままだ。少なくとも、“仲間”と並んで歩ける心を持ってる」
「なら――証明してみせろ」
柊馬は両手を広げ、湖の水を赤黒く染めた。
天が裂け、赤月が彼の背後に降り立つ。
その瞬間、彼は鬼の王へと変貌を遂げた。
「蓮、いくぞ!」
「ああ。鬼として、鬼を討つ」
こうして――
かつて友であり、鬼となったふたりの戦いは、
世界の命運を懸けた最後の夜を迎えることとなった。
⸻
―最終章:逆さ城、赤月に消ゆ―
赤い月が城を照らす。
湖に逆さまに浮かぶその巨城は、まるでこの世とあの世を繋ぐ橋のように、現実感を喪っていた。
蓮と鋼次は、血を吐きながらもその階段を駆け上がる。
後ろからは、半鬼の軍勢が追いすがる。
だがふたりは振り返らない。
進むべきはただ一つ――城の最上階、「鬼の玉座」。
そこにいたのは、かつて鋼次の兄だった男――柊馬。
今や彼の身体は人の形をしていなかった。
数百の鬼の魂を吸い上げた彼は、黒い羽を持ち、四本の腕に太刀と槍と錫杖と法具を持つ、異形の王と化していた。
「遅かったな、弟よ。そして剣士よ」
その声は、人ではない響きを帯びていた。
「兄さん……いや、柊馬。お前を止める」
鋼次が、黒炎の槍を構える。
蓮もまた、赤く染まった太刀を握り直す。
「この世界は、弱き者を喰う強き者のためにある。人間はもう終わった。鬼こそが、新たな理だ」
「違う」
蓮が叫ぶ。「お前が言っているのは、ただの支配だ。人間が愚かだからこそ、守らなきゃいけない命もある。俺たちは――それを見てきた!」
柊馬が嘲笑を浮かべた瞬間、決戦の幕が上がった。
異形の腕が振るう四種の武具が、空間を断裂する。
鋼次はその槍を弾き、蓮は切り裂かれる寸前で身をかわす。
ふたりの動きは、鬼の力を極限まで引き出していた。
けれど、柊馬の力はそれを遥かに凌駕していた。
「兄さん……!」
鋼次が叫ぶ。
「お前は……お前は俺たちの家族を捨てたんじゃない。助けられなかった自分を許せなかっただけなんだろ……!」
一瞬、柊馬の動きが止まる。
「だから、全部壊すことで、“無かったことにしよう”としてるだけじゃねえか!」
その瞬間、蓮の太刀が風を裂いた。
「――鬼であっても、“心”がある限り、間違いを断ち切れる!」
蓮の太刀が柊馬の胸を貫く。
同時に、鋼次の黒炎の槍が、柊馬の背中から突き抜けた。
「……まだ……俺には……」
柊馬の瞳に、一瞬だけ涙が浮かぶ。
「守りたかったんだ……お前たちを……」
柊馬の身体が崩れ、赤月が黒く染まり、やがて霧散する。
静寂が訪れた。
逆さの城が崩れ落ち、湖はふたたび澄んだ水を湛えた。
鋼次と蓮は、城跡の岸辺に並んで立っていた。
「終わった……のか?」
鋼次がつぶやく。
「いや。俺たちが“鬼として何を選ぶか”は、ここからだ」
蓮が静かに答えた。
ふたりの背には、もう赤い月はない。
ただ、夜空に一筋の光が走っていた。
それは、彼らの未来を照らすものか。
それとも、ふたたび訪れる闇の予兆か――
誰にもわからない。
けれど確かなのは、ふたりが共に歩むということ。
鬼となった同士。
人としての心を持ったまま、なお闇と共に生きる道を、
ふたりは選んだのだった。
⸻
エピローグ:灰の中の花
それから三年が経った。
あの赤月の夜を境に、各地で現れていた鬼の災いは静まり、人々は再び畑を耕し、家族のぬくもりを取り戻し始めていた。
だが、鬼がすべて消えたわけではない。
闇の底には、今も人の憎しみと悲しみが渦巻いていた。
その中に、ひっそりと暮らすふたりの男がいた。
「……鋼次、火の番、交代だ」
「ん、すまねぇ。最近すぐ眠くなっちまうな。年かね」
「……お前、鬼になってから年は取らねぇはずだが」
「そいつは“人に戻りかけてる証拠”かもな」
ふたりは山奥の小さな庵に暮らしていた。
村を持たず、名も告げず、ただ静かに、流れ来る半鬼の子供たちや、迷い込む旅人の手助けをしていた。
――ある日。
庵に、傷を負った少女が運び込まれた。
人間の子か、鬼の子か、それすら判別がつかない、あまりに薄い存在。
蓮が脈を確かめ、鋼次が火を強める。
「……この子、生きようとしてる」
蓮がつぶやいた。
「じゃあ、助けるしかねぇな」
鋼次が笑った。「俺たちが、そうしてもらったようにな」
少女の傷は深く、身体の半分が黒く染まっていた。
だが、瞳だけは透き通っていた。
「……あなたたち、鬼なの?」
目を覚ました少女が、震える声で訊ねた。
鋼次と蓮は、顔を見合わせ、そしてどちらからともなく笑った。
「そうかもな。けど――」
「“心だけは、人間のままだ”って信じてるんだ」
少女は小さくうなずいた。
それから、少女はこの庵で暮らすようになった。
蓮は読み書きを教え、鋼次は畑の鍬の持ち方を教えた。
やがて少女は、「ふたりの鬼に育てられた半鬼」として、自らの力と過去に向き合う日を迎えることになる――
けれど、それはまた別の物語。
ある春の日。
山の麓で花が咲いた。
灰に覆われたはずの土地に、白い椿の花がぽつりと咲いた。
それを見て、蓮がぽつりと呟く。
「――この花、名前は?」
「さあな。でも……こういうのを“救い”って呼ぶのかもな」
「それでも、鬼は鬼だ」
「だが、“鬼になってまで守りたいものがある”ってことだろ?」
蓮は答えず、そっと白い椿に手を伸ばした。
それはまるで、あの夜の最期に見た、兄の涙に似ていた。
鬼となった同士。
彼らの旅はまだ終わらない。
だが、確かに“生きる”ということを始めていた――
人の心を忘れぬ、ふたりの鬼として。
⸻
完
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
『鬼になった同士』は、「鬼にならざるを得なかった者たち」と「それでも人として何かを守りたかった者たち」の物語です。
蓮と鋼次――かつて人だった彼らは、鬼の力を得たことで多くの命を救いましたが、同時に数えきれないほどの後悔や罪を背負ってきました。
そして椿――鬼から生まれながらも、人としての心を知り、人として生きようとする少女。
彼女の選んだ道は、簡単でも綺麗でもありません。
けれどそれは、「名前を持つ」ということ、「記憶を選び直す」ということの重みと意味を、改めて読者に問いかけるものであったと信じています。
鬼は恐ろしく、憎まれる存在として描かれがちです。
けれど、本当の“鬼”は何なのか。
外見でしょうか、血でしょうか、力でしょうか――
あるいは、「誰かの痛みに目を背ける心」なのかもしれません。
この物語を通して、読者の方が「人であるとはどういうことか」を少しでも感じ取ってくだされば、それに勝る喜びはありません。
椿の旅はまだ途中です。
赤月の柱は残り六本。
そして、その向こうに待つ「鬼王」と「真の夜明け」――
もし、また彼女たちと再会する機会をいただけるなら、ぜひその先の物語も綴っていきたいと思います。
そのときはまた、どうぞよろしくお願いします。
それでは、またどこかの物語でお会いしましょう。
――作者より